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龍の箱庭  作者: 揚羽渓名
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「は、はい。すみません、耳障りな物をお聞かせしてしまいました……」

「耳障りだなんてとんでもない! ちょっと、ちょっと待っていてくださいね!」


 千尋は言うなり立ち上がってエプロンも外さずにどこかに向かって駆け出した。走る千尋を見るのはこれが初めてだ。


 しばらくすると千尋は何かを持って戻ってきた。


「私達龍人は何よりも音楽を愛しています。もう一度歌ってもらえますか?」

「え!? い、嫌です……」

「そう仰らずに、お願いします」

「……それ、バイオリンですか?」

「ええ。まさか弾けます?」

「いえ! 流石に弾けません! 弾けませんが、知り合いに弾いている方がいたので懐かしいです」


 近所でも有名な偏屈なお爺さんだったが、彼のバイオリンは素晴らしかった。鈴はよくそのお爺さんの所へ行っていつも歌を歌っていた。


「そうでしたか。私も是非本場の方の演奏を聞いてみたかったですね。それで、メロディーをもう一度教えてもらえますか?」

「あ、はい……」


 歌えと言われて歌うのは難しいが、メロディーだけなら鼻歌でも何とかなる。鈴は結局千尋がメロディーを覚えるまで鼻歌を歌わされた。


 千尋のバイオリンの腕前はあのお爺さんほどでは無いにしても素晴らしい。


「千尋さまはバイオリンも弾けるのですね」

「バイオリンはまだまだですね。龍人は先程も言ったように音楽をこよなく愛しています。なので日本に入ってきた楽器も一しきり練習をしたんですよ」

「す、凄いですね……それではほとんどの楽器が弾けるのでは?」

「そうでもありませんよ。笛の類は苦手ですね」

「そんな事言いながらそこそこ吹くからな、こいつは」

「雅さん!」

「雅。いつ来たんですか?」


 どこからともなく猫雅が現れて、花壇に座る鈴の膝の上にヒラリと飛び乗ってきてすぐさま丸くなる。


「今だよ。何だい、そんな物持ち出して」

「鈴さんが素晴らしい歌を歌うので、つい持ってきてしまいました」

「そうなのかい? あたしにも聞かせてよ」

「え、でも……」


 さっき千尋に言われた時は躊躇うこと無く断った鈴だが、雅に頼まれると断りにくい。躊躇う鈴を見て千尋が苦笑いを浮かべる。


「何だい? 千尋は聞いたんだろ? あたしには聞かせられないのか?」

「そ、そんな事は! それじゃあ少しだけ……」


 そう言って鈴は大きく息を吸って歌い出すと、被せるように千尋が奏でるバイオリンの豊かな旋律が鈴の歌声を包む。


 何だかそれがとても懐かしくて目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのはシロツメグサが一面に咲き乱れた中に立つ家々だ。夕方までお爺さんのバイオリンで歌い、家に帰ると母が笑顔で出迎えてくれて、しばらくすると父が帰ってくる。


「――For once she was a true love of mine」

「こりゃ驚いた! あんたにこんな特技があったなんてな!」

「声質がとても美しいので歌ったらさぞかし綺麗だろうとは思っていましたが、透明感が素晴らしいですね」

「龍神のお眼鏡にかなうなんて凄い事だよ。もっと自信持って歌いな」


 雅に言われて鈴は照れたように小さく微笑んで頷いた。


「他になんかないのかい? 異国の歌を聞く機会はそうそうないからね」

「他ですか? えっと……アメイジング・グレイスとかグリーン・スリーブスとかでしょうか」

「歌ってみなよ! ほらほら!」

「は、恥ずかしいのですが……」

「何が恥ずかしいもんか! それだけ歌えるのに歌わないなんて勿体ないよ!」


 雅に急かされて鈴は結局この後3曲も歌わされたのだが、不思議なもので誰にも気を使わず声を張り上げて歌うなんて事をずっとしなかったからか、鈴は気づけば立ち上がって子供の頃のように我を忘れてその場で歌に合わせてステップを踏んでいた。

 

 目を閉じると思い出す光景に胸が熱くなって涙が溢れそうになるのを誤魔化すかのように。

 

 

 目を閉じてまるで本物の妖精のようにスカートをなびかせてステップを踏みながら歌う少女は、千尋の心を強く揺さぶった。この感情が何なのかはよく分からないが、異国のその甘い顔立ちも相まって余計に幻想的だったからかもしれない。

 

 伸びやかな声は驚くほど透明で、空高くどこまでも吸い込まれていきそうでいつまでも聞いていたくなる。


「ああ、悔しいですね、これは」


 知っている曲ならば歌に合わせて弾く事が出来るのに。


 思わずポツリと呟くと、いつの間にか隣に座っていた雅が「静かに聞け」とでも言いたげに千尋を睨みつけてくる。

 

 やがて歌い終わると、鈴は照れくさそうにこちらを向いてスカートの裾を軽く持ち上げて一礼すると幼い少女のような顔をして笑う。


「ありがとうございます。久しぶりに誰にも遠慮せずに歌えました」

「ここでは遠慮などいりません。好きな時に歌い、好きな時に踊っていいんですよ」

「そうそう。そうしたらどこからともなく千尋が楽器持ち出してくるだろうさ」

「それにほら、見てください。あなたの歌声に釣られて喜兵衛が仕事の手を止めて出てきてしまいましたよ」


 こんな事は本当に珍しい。千尋は振り返って肩を竦めた。喜兵衛はまだ屋敷の入り口でぼんやりした様子で鈴を見ている。


「凄い声だな。ビックリした」


 そう言って近づいてきたのは弥七だ。彼はいつの間に摘んできたのか、鈴にバラを一本差し出した。


「あ、ありがとうございます」

「いいんだ。これはお礼だ。良いものを聞いた」

 

 そんな弥七を押しのけて喜兵衛がお玉を持ったまま駆け寄ってくる。


「鈴さん! 炊事場までしっかり聞こえてきましたよ! どこかから素晴らしい歌声が聞こえてくるなと思ったら、まさかあなただったなんて!」


 それを見て雅がチラリとこちらを見上げて意地悪に笑った。


「おやおや、どうやら今回のあんたの花嫁候補は狐達に大人気のようだね」

「そのようですね」


 何だか複雑ではあるが、鈴は千尋と居るときよりも狐達や雅と話している方がイキイキしている。

 

 けれどそれは仕方のない事なのかもしれない。千尋が心を許さないのだ。鈴も許してくれるはずなどない。


「千尋さま、良ければ今度またバイオリンを弾いてもらえますか?」

「もちろんです。私のバイオリンで良ければいくらでも」


 社交辞令だと思いながら千尋が答えると、鈴は花が綻んだように笑った。


「ありがとうございます。楽しみです」


 そう言って立ち去ろうとした鈴を、気づけば千尋は呼び止めていた。


「あの! えっと、さっきの曲も教えてもらえますか? そうしたら私も共に演奏が出来るので」

「もちろんです! あ、でもあの恥ずかしいので鼻歌でもいいですか?」

「構いませんよ。曲が解れば鼻歌でも何でも」


 あまりにも恥ずかしそうにモジモジしている鈴を見て千尋は思わず笑ってしまった。その姿は先程の素晴らしい歌声を披露した少女と同じ人物だとは思えない。


「それではまたあなたの素晴らしい歌が聞けるのを楽しみにしていますね」

「はい。私も千尋さまのバイオリン楽しみにしています。あ、それからそのエプロンは洗濯しますね。弥七さんも洗濯物出しておいてください」

「ええ、ありがとうございます」

「悪いな、いつも。俺のは特に汚れが酷いだろう?」

「庭仕事をしていれば当然です。それに汚れを落とすのが楽しいんですよ、洗濯は。あ! それからこれ、いつものお花のお礼です」


 そう言って鈴は戸惑う弥七の手に無理やり小さな巾着を押し付けて嫌な顔一つせずに千尋のエプロンと自分のエプロンを持って屋敷に戻って行った。


「弥七、何を貰ったんですか?」


 千尋の問いかけに弥七は巾着を開けた。中から取り出したのは小さな金平糖が詰まった袋だ。


「金平糖みたいです。ったく、子供じゃねぇってのに」

 

 そう言って無造作に金平糖を袂に放り込んだ弥七の顔は、言葉とは裏腹にとても嬉しそうに輝いている。

 

 そんな弥七を見て雅がポツリと言った。


「良い子だねぇ」

「全くです」

「あんたのなけなしの良心が痛むねぇ」

「……全くです」


 こんな事ならば蘭か菫が来て欲しかったと思う程度には鈴は千尋には雅が以前言ったように良すぎる相手だ。


「何よりもあの歌声は素晴らしかった……」

 

 うっとりと鈴の歌声を思い出して目を細める千尋に雅が言う。


「やっぱ音楽にはうるさいんだね、あんた達は」

「天上の楽しみと言えば音楽ですからね。人間が龍に勝っている物、それは声質でしょう。龍族にあの声は出せません」

「そりゃまぁ、あんた達本体はデカいしな。声帯自体が違うんだろうさ。あたしでさえ初めてあんたが一時帰宅する時に空に帰ってくの見て腰抜かしたんだから」

「その節は説明不足で申し訳ありませんでした。あなたは雷も苦手ですもんね」

「そうだよ。雷と本物の龍だ! 腰抜かすに決まってるだろ」

「帰ってきてからそれを聞いて私は最初信じられませんでした。あの雅が? と思いましたよ」


 雅と言えば千尋にも横柄な態度で誰にも忖度しないし怖いものなど何も無さそうなのに、雷と水だけはとても嫌がる。さすが猫だ。


「それで? どうすんだい?」

「どうしたものですかね……どのみちもう少し経たないと分かりませんね」

「ああ、そうだった。あんたの神通力を受け取る事が出来るかどうか、だっけ?」

「そうです。それが分からない事にはどのみち決められません」


 それに気になるのがあの薬品の匂いだ。強い薬ではないようだが、時折匂いが変わるので定期的に飲んでいるようだ。


 けれど特に病気の匂いはしない。血も健康そのものだ。その理由が分からないので躊躇っているというのもある。

 

 かと言ってズケズケと聞いてしまってもいいものかどうなのか、千尋は悩んでいた。

 

 

「朝っぱらから何作ってんだい? 二人して」

「喜兵衛さんがとても質の良い小麦粉とバターを街で分けてもらったというので、パウンドケーキを焼いていたんです」


 鈴が神森家にやってきてそろそろ一ヶ月が経とうとしている。大体今までの人たちも一ヶ月過ぎた頃に追い出されたと聞いたので、鈴はここに居られる間に少しでも神森家に恩返しをしようと思っていた。


 千尋は洋食が好きなので、もしかしたら洋菓子も好きかもしれないと思っていた所に喜兵衛が良質な小麦粉とバターを持ち帰ってきたという訳だ。


「ぱうんどけーき?」

「はい。材料はたったの4つで、小麦粉、砂糖、バター、卵のみなんですが、全て1ポンドずつ使うのでそう呼ばれているんです」

「へぇ、面白いね。で、その1ポンドってのはどれぐらいの量なんだい?」

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