貧民の実際の生活
採用試験が終わって応接室に戻ってきたユウとトリスタンはヴィアンからの護衛の依頼を引き受けることになった。これでワージントン男爵家側は安心した表情を浮かべる。
するとその直後、アーチボルトが椅子から立ち上がった。何事かとユウが顔を向ける。
「私の役目は果たせましたね。以後のお話には必要ないでしょうから、ここで席を立ちましょう」
「アーチボルト殿、良き者を紹介してくださり感謝する」
「ヴィアン様のご無事を祈っておりますよ。それでは」
一礼したアーチボルトが応接室から退室した。それを見送るとヴィアンがユウとトリスタンに声をかける。
「2人とも私の護衛を引き受けてくれることになったが、最初に依頼について話をしたときのことを覚えているかな?」
「依頼の内容ですか? えっと、生活の支援と身辺の警護でしたよね?」
わずかに首を傾げたユウが思い出したことを口にした。ヴィアンが大きくうなずく。
「その通り。実はだね、私はしばらく町の外で生活する予定なんだ」
「貧民街でですか? ヴィアン様が?」
「そうなんだよ。当面は隠れて生活する必要あるんだ。だから町の外での生活について色々と教えてほしいのだよ」
「教えることはできますが、どうして町の外で、って理由は聞けないんでしたよね。町の中で隠れながら生活できないんですか?」
「しばらく隠れながら生活しているんだが、これがうまくいかなくてね」
悲しそうな笑顔を浮かべるヴィアンが言いにくそうにユウへと返答した。その背後に立つ3人も苦り切った表情になる。貴族が貧民街で生活するなど通常は考えられないので、相当大きな決断をしたということが窺えた。
生活の支援というものの内容がおぼろげながらに理解できてきたユウは困惑する。それでも、ヴィアンの要求について検討しなければならない。更に細かいことをいくつか尋ねた。すると、できるだけ人目に曝されず、最低限生活できる場所を望まれていることがわかる。暗殺者に勝てるのかと問われるくらいなので予想できる内容ではあった。
要件を聞き終えたユウはヴィアンに話しかける。
「望まれていることは理解しましたが、難しいです。まず、貧民は働くのが普通なので家や部屋に閉じこもると逆に不自然ですし、そんな人がいると知ったら噂のネタになり広まりやすいです。また、最低限の生活とのことですが、貴族様の生活に耐えうる家や部屋はない上に、他の衣食に関しても貧民の水準で我慢してもらうしかないですよ」
「どこかの家を借りてそこに住んでいただき、後は世話をする者が出入りすれはいけるのではないか?」
「ルパート様、貧民の家を借りるんですか? やめておいた方が良いですよ。周囲に人は常にいますし、悪意がなくても常に何をしているのか窺おうとします。それに、皆さんの言葉遣いや態度、それに服装ですぐにばれますよ。あそこには金持ちが住んでいると」
「世話係を貧民に変装させるのはどうか?」
「言動からすぐにばれます。そもそも使っている言葉からして違いますから。周囲に溶け込む気がないのでしたら、貧民街で隠れるのは諦めるしかありません。逆に目立ちます」
「む、厄介な」
ことごとく反論されたルパートが顔をしかめた。貴人が貧民街に隠れるという意外性で困難を切り抜けようとしているようだが、逆に目立ってしまうと指摘されると言葉に窮する。ルパートの左右に立っている者2人からも何も出てこないようだ。
その様子を見たトリスタンが口を開く。
「ヴィアン様、他のお三方も、そもそも貧民の生活というものをご存じなのですか?」
「いや、知らない。だからこそ君たちに聞いているのだ」
「ということは、町の中が駄目だから町の外へという感じで提案されています?」
「そんなところだな。貧民街は遠目で見たことはあっても、入ったことはない」
ルパートを始めとしたヴィアンの背後に立つ3人もそれは同じということだった。それを見たトリスタンが苦笑いをする。貧民街の実情を知らないまま方針を考えていたのだ。
目の前のやり取りを見ていたユウはトリスタンに顔を向ける。
「トリスタンが町の外に出たときってどうしていたの?」
「俺のときはもう後がなかったから、とにかく冒険者をして生活費を稼ぐことを考えていたな。どうせ町の中には戻れなかったから、とにかく慣れるしかなかったぞ」
「ということは、嫌なことがあっても我慢してたんだ」
「大抵はな。自分の力じゃどうにもならなかったことは諦めるしかないだろう?」
力なく笑うトリスタンを見たユウは曖昧にうなずいた。町の外に出て貧民になったという意味では同じなので当時のことを振り返る。確かに諦めて我慢し、やがて慣れた。
相棒の話を聞いたユウはルパートに問いかける。
「ヴィアン様に貧民の生活をしていただくことはできるんですか?」
「む、それは」
「でも、それ以前に貧民の生活を知らないんですよね。でしたら、1度ご覧になりますか? まずは皆さんが」
「我々がか?」
「はい。その上で改めて考えてもらった方が良いと思います」
「私もユウの意見に賛成だ。隠れる場所のことも知らずに論じてもまともな案は出てこないだろう。ルパート、君が貧民街に行ってくれ」
「承知しました」
直立不動の姿勢で応じたルパートが声を上げた。これでユウと2人で貧民街を巡ることが決まる。
早速ワージントン男爵邸を出たユウとルパートが大通りへと向かった。その間にルパートがユウに話しかける。
「どこをどのように回るのだ?」
「東門から出て南門まで巡る予定です。財布なんかの貴重品は置いてきましたよね?」
「言われたとおりにした。そんなに治安が悪いのか」
「町の中に比べたら悪いですよ。特に今のルパート様の格好は目立ちますから」
「これでもか」
貴重品を応接室に置き、トリスタンから借りた外套を身に付けたルパートが困惑した様子でつぶやいた。正に半信半疑という表情をしている。
町の東門から外に出たユウは真っ先に安宿街の路地に入った。今はすっかり日も昇ったので閑散としているが、それでも貧しい行商人や旅人の姿があちこちに見える。
「む、何と言うか、空気が変わったな」
「口の悪い人だと貧乏人の臭いなんて言いますよ。でも、これはまだましな方です」
「なんだと?」
感想を漏らすルパートにユウが説明を加えつつ返答した。その間に今度は安酒場街へと移る。すると、周囲の臭いが酒精と吐瀉物へと変わった。ルパートが更に顔をしかめる。
「町の中の歓楽街もこのような臭いがするが、かなりきついな!」
「みんな遠慮なしに吐きますから。トリスタンが言うには、口に入れた物によって臭いが変わるそうですよ。でも、これはまだましな方です」
「なんだと!?」
顔をしかめていたルパートが目を剥いた。その様子を気にすることなくユウは更に南側へと進む。そうして安酒場街を抜けて貧民の住宅街へと入った。すると、糞尿、吐瀉物、ごみなどが狭い道に散乱し、強烈な臭いがルパートの鼻に襲いかかってくる。
「いや、待て。なんだこれは!? うぇ」
「初めてですときついですよね。鼻の中が殴られるような感じがしますから。その辺りにいる子供には近づかないでくださいよ」
もはや口も開けたくないらしいルパートが涙目になりながらユウの後に続いた。ようやく貧民の住宅街から抜け出すと次は工房街へと移る。ここにはぼろい小屋が並んでいた。
あまり大きくない工房街を突っ切ると今度は市場に出る。東側は工房街よりもましという感じのぼろ屋が並んでいた。ここまで来ると貧民の住宅街の臭いからようやく解放されるが、今度は市場の独特な臭いに出迎えられる。
「さっきよりかはましだが、何と言うか、この辺りも何とも言えない臭いだな」
「市場ですからね。生活臭が薄くなって食べ物の匂いが混ざるんですよ。そのせいだと思います。ああ、知り合いの店に寄りますから、ひとつ食べていきましょう」
「ここでか?」
不安から嫌悪感寄りの表情を向けたルパートにうなずいたユウはそのまま歩いた。そうしてチャドのスープ屋へとたどり着く。
中途半端な時間なので客がほぼおらず、ユウはルパートの分も一緒にスープを買うと食べるように勧めた。受け取った皿と匙をしばらく見つめた後、意を決して口に含んだルパートの表情の変化が面白い。
その間にユウはチャドと世間話をした。噂のいくつかを聞き、その広まり具合をルパートに認識させる。特に町の中には落ち延びてきた貴人がいる、何度も殺されかかっているなどという噂に注目していた。
最後は宿屋街に入り、冒険者ギルド城外支所の前までやって来るとルパートは再び強烈な臭いに曝される。その様子を見たユウはくすりと笑った。




