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エリカはソアラの言葉を頭の中で復唱し、心の中でつぶやいた。
――…本当に望んでもいいのだろうか。
それが分からないからとても不安だった。天文台にいた今までは、何かを望んでも叶えられないと思っていた。城に戻りたいと思っても、誰かと一緒にいたいと思っても、それが叶うことはなかった。――だから、いつからか全て諦めるということを覚えていた。失望するのが、怖かった。希望を持つことができなかった。だが、今エリカがいるこの場所は、天文台ではない。エリカの力を隠すための不自由で孤独な箱庭ではなかった。だからと言って、急に自分の心情が変わるわけではないし、天文台という名の「鳥籠」の外の世界は知らないことばかりだ。けれど……、そんな混沌とした状況の中でも、分かっていた。
――何も言わずにお別れになってしまったら、きっと後悔する。
彼にとっては迷惑かもしれない。その可能性の方が高いとは思う。それでも…、相手に自分の思いを伝えて、それで断られた方がよっぽどましだ。どうせ後悔するならば…、何かをやってから後悔する方がいい。そう決めた途端、急に道が開けたような気がした。一人でずっと悩んでいたって、答えなど出ない。人の心を読み取るなど、誰にもできないことなのだから。そうと決まれば、あとはレオが戻ってくるのを待つだけだが…。
そう思って窓の外を見たエリカははっとした。いつの間にか、雨が降り出していたからだ。窓の外からぽつぽつと雨が地面に落ちる音が聞こえてくる。その音は数秒も立たないうちにはっきりとしたものになっていった。ソアラもそれでようやく雨に気付いたらしい。二人で窓辺に近付いてみると、地面に水玉模様ができていた。ほんの少し開いた窓から一気に雨の香りが流れ込んでくる。今はまだそこまで強い雨ではないが、空が暗いので、これからもっと降ってくるかもしれない。地面が徐々に濡れていく。風があるらしく、時々水滴が窓に叩きつけられていた。ソアラは慌てて窓を完全に閉めた。しかし、数分後には雨は本降りになっていた。あちこちに水たまりができている。まだ降り始めからそこまで時間が経っていないのに…。どこかに出かけていなくて良かった、と思ったが、そこでエリカはふと先ほどの出来事を思い出した。
(レオさんは、すぐに戻ってくるから、と傘を持って行かなかったはず…。こんなに強い雨に打たれたら風邪を引いてしまうかもしれません)
エリカは通りの向こうに目を向けた。しかし、レオが戻ってくる気配は全く無い。そもそも、外には人の姿が全くなかった。ただ、うっすらと白く煙った町並みがそこにあるだけだ。隣のソアラがため息をついた。
「あーあ。本格的に降ってきちゃった…。まあ、レヴェンは傘を持っているはずだから大丈夫よね。それに、そこまで遠いわけでもないし。…って、エリカ、どうしたのよ?何か問題でもあるの?」
「レオさん、傘を持って行っていないんです!このままだと濡れてしまいます…!」
…いや、もう既に濡れてしまっていてもおかしくはない。屋内にいない限り、この雨を防ぐのはほぼ不可能と言っていいだろう。エリカの必死なその声にソアラは目を丸くした。どうやら、先ほどレオが出て行った時のエリカとの会話を聞いていなかったようだ。そもそも、ソアラはその時奥の方にいたので、相当耳が良くなければ聞き取れなかっただろう。エリカは再びあの時の会話を思い出した。傘を持って行くべきだと言ったエリカに、レオはすぐ戻ってくるから必要ないと言って…。やはり、その時に追いかけて無理矢理にでも持たせておくべきだっただろうか、とエリカは後悔した。一方、ソアラは一本だけ傘が残っている傘立てを見て、少し表情を険しくした。
「…まずいわね。この辺りは湖の街に比べて寒いから、ちょっとの雨でも当たって風邪をひく人は多いわ。それに、慣れている人ならまだしも、レオやあなたはここに来たばかりでしょう?レオが途中で傘を買えばいいんだけど。場所によっては店が全くないところもあるし…」
ソアラはこの街の道や地形などを思い出した。氷の街はかなり広大だが、人が住んでいる場所は非常に限られている。南の方には、検問所以外には特に店や家屋などは何もない。検問所からまっすぐと街の中心部に繋がっている道の両側には丘や森が広がっているだけで、そもそもそこを通るのは馬車や旅人しかいない。逆にこの街は北側に行けば行くほど発展している。北の方は民家や商店街などがあり、実際にこの場所も、少し外れの方ではあるが、北の方に位置している。また、祭りの会場となるのも北の方だ。そして、東と西は南に存在する森や丘へと繋がっている道があるだけ…。そこに人が近付くことはほとんどない。
――要するに、北の部分にしか人は住んでいないのだ。だから、もしそれ以外の場所にレオがいるならば、この家屋まで傘なしで帰ってくることになってしまう。ソアラの説明を聞いたエリカはそう判断した。だが、彼がどこに行ったのか全く見当がつかない。レオは散歩だと言っていたが、どんな場所を選ぶのかはその人次第だろう。人のいない静かな場所に行きたい、という人もいれば、賑やかな場所を歩きたい、という人もいるはずだ。彼が後者ならば、北の方に行っている可能性が高い。しかし、エリカは何か嫌な予感がしていた。今すぐにでも、レオを見つけなければならないような…。
元々、二人はエトリセリアの反乱軍に追われている。散歩先でそれに巻き込まれる可能性も否定できない。レオは確実にエリカより強いが、だからと言って無敵ではない。大勢が相手だったとしたら、勝ち目などない。しばらく考えた後で、エリカは結論を出した。
「…あの、私が傘を持って行くことは可能ですか?まあ、あるのは一本だけなので、帰りは二人で傘に入ることになってしまいますが…」
「…うん、そうね。それが一番いいと思う。レオが風邪をひかないことが何よりも大事だし。エリカ、いってらっしゃい。気をつけてね」
ソアラはそう言ったが、いつもより不安がにじんだ声だった。…もしかしたら、彼女も何か感じているのかもしれない。
――何かが起こる。そんな予感を。
それでもエリカはうなずき、ほんの一瞬外を見た。その先にある雨で煙る街を見て、思わず表情を険しくしたが、ここでぼんやりしてはいられない。エリカは傘を手に取って外に出た。
扉を開けた瞬間、冷たい雨の香りがエリカを包んだ。空を見上げてみると、先ほどよりも更にその勢いが強くなっている。やはり、この後本格的に降ることになりそうだ。試しに手を軒の外に出してみると、落ちてきた水滴は氷のように冷たい。長くあたってしまえば非常に寒いだろう。エリカは傘を差し、取りあえず最初に街の中心――北の方角へと行ってみることにした。レオがどこへ行くかを聞いていなかったので、本当にそこにいるかは分からないが…。取りあえず、可能性のある場所から順に回ってみるしかない。どちらにしても、早く彼を捜さなくてはならない…。雨粒が傘に当たってパチパチと音を立てた。
(一体どこにいるのでしょう。雨がもっと強くなる前にレオさんを見つけられれば良いのですが…)
エリカはそう思ったが、心の中では何故か不安な気持ちが水たまりのように広がっていた。エリカはその気持ちを振り払うかのように早歩きで雨の降りしきる街を歩き出した。
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