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袖触れ合うも多生の縁  作者: 麦子
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9.我輩は猫ではない。(2)

下駄箱の前、ぐっしょり濡れた紺色の靴下を脱いで裸足のまま上履きを履いていたら、突然目の前が真っ暗になった。頭から何か被せられたらしい。湿った雨のにおいと、ちょっとだけ香水のにおいがした。



「これ、教室に着くまで羽織っていきなさい」

「その声…太郎先生ですか?あの、前が見ないのですが…」

「あっ、ごめん!つい焦っちまって」

「焦る?」

「いや、うん…スイマセン…」

「?」



被せられたのは、バスタオルだった。太郎先生の声が頭の上からしたと思ったら、遠慮がちに髪の毛をバスタオルで拭かれた。何故か謝り続けている太郎先生を不思議に思いながらも、まだ髪の毛を拭き続けているその手をやんわりと握る。



「あとは、自分でできますので…」

「うん!そうだよな!ゴメン!」

「だからなんで謝るんです?変なの…」



バスタオルを肩から羽織りなおして、ぐしゃぐしゃになってしまったみつあみをほどいた。教室についたら結び直そう。太郎先生は相変わらず、挙動不審だった。視線が明後日の方向を向いている。



「太郎先生」

「はいっ!?ごめんなさい!!」

「…いい加減うざいので、それやめてもらってもいいですか」

「ウウッ…吉野がいじめる…」

「いじめてません。それより先生、あの…小渕…くん、大丈夫でしたか?」

「うん、大丈夫。ありがとうな、吉野」

「そうですか。良かった」



職員玄関に着いた瞬間、靴を放り投げて猛ダッシュで保健室へと走っていった太郎先生の後ろ姿。その背中で、息を荒くしていた辛そうな小渕くんの横顔。

ついさっきの出来事を思い出して、ホッと肩の力が抜けた。自然と緩んだ口元が恥ずかしくて、すこし下を向いてしまうわたしを見ていた太郎先生は、何も言わずにまたわたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。



「吉野も風邪ひかないようにな」

「…わたしより濡れてるひとに言われたくないですよ」

「照れた照れた」

「照れてない!」

「……小日向なぎさは、確かにこの目で見たぞよ」

「え?」

「あ。」



薄暗い声が背後からして、太郎先生といっしょに振り返った。正面玄関の前に佇んでいる小柄な女の子がギランッと両目を光らせている。彼女のトレードマーク、ショートカットのフワフワっ毛が、今日も大胆にくりんくりんと跳ねている。



「小日向さん、おはよ…」

「お嬢ウウウウウ!オッハヨーーー!」

「グエッ」

「おお…見事なタックルだな小日向。90点!」

「やったぜ!」

「苦しい…小日向さん…」



キチンと挨拶する暇もなく、突進してきた小日向さんにおもいきり抱きつかれた。恒例になりつつある小日向さんの挨拶代わりのタックルにギブアップ寸前である。でも、甘えるようにぐりぐりと頭を押しつけてくる小日向さんは、かなりかわいいので許すしかない。



「ハッ…!!お嬢、どうしたの!制服濡れてるよ!」

「うん。ちょっとね。でもすぐ乾くよ」



ちょっと誤魔化すように笑うと、小日向さんはそろそろとわたしから離れた。そしてじっとわたしの顔を見上げて、ゆっくりと視線を下に下ろしていく。その視線がぴたりと止まった。「事件です!お嬢!!」小日向さんのいきなりの大声にわたしだけでなく、周りの生徒も動きを一旦とめてこちらへと視線を向けている。



「透けてるよ…」

「え?なに、小日向さん。よく聞こえない…」

「スッケスケだよお嬢!!制服が透けて、お嬢のいちご柄の下着が丸見えだ、フゴッ」



大興奮する小日向さんの口を片手で押さえつけたのは、さっきから妙に静かだった太郎先生だった。小日向さんは、太郎先生に口を塞がれてもなお、フゴフゴと何か喋ろうとしている。一方のわたしは、たった今小日向さんに言われたとんでもないことばの数々を、脳ミソをフル回転させて整理していた。



「いちごだってよ」

「やっべ…見えねえかな」

「俺、チラッと見えたわ多分…」

「まじで!!ずりぃな、おまえ!」

「男子、最低なんですけど」

「ほんとだよ。朝から、何言ってんの」



周囲のざわめきと囁かれるいろんな声に、ブワッと火が出そうなくらい全身が真っ赤になっていくのが分かった。慌てて、太郎先生からもらったバスタオルを身体に巻き付けるようにして包まった。



「つーかアレだろ?わざと見せつけてんじゃねーの?」

「ああ、そうなん?んじゃー、見放題じゃんか。ラッキー」

「だははっ、ばっかじゃねーのおまえら!どんだけ飢えてんだっつの」



まさに赤っ恥である。太郎先生がさりげなくバスタオルを被せてくれた理由がようやく理解できて、今更後悔する。衣替えしたばっかりの夏のセーラー服。真っ白な生地は、要注意なのに!わたしのばか!



からかい混じりの男子生徒の声が飛び交う中、ただ縮こまって羞恥に耐えていたわたしの耳に、ドカンと響いた救いの音。太郎先生が、男子生徒の笑い声を遮るようにして下駄箱を力強く蹴り付けたのである。…少し、めり込んでいるように見えるのは気のせいだろうか。



「とっくに予鈴のチャイム鳴ってるんだけどなー?いつまで廊下で喋ってんだ?特にそこのお前ら3人組」

「げっ…太郎ちゃんセンセー」

「やべっ、なんか珍しく怒ってね…?」



下駄箱を蹴った片足はそのままにして、ユラリと顔を上げた太郎先生は満面の笑顔。だけど、よく見ると目が全然笑ってなかった。なんだか、凍り付けにされそうな微笑みだ。



「いつまで見てんだ…てめーら。今すぐすみやかに自分の教室行かねえと、センセー怒っちゃうぞ?」

「もう怒ってんじゃん!こえーって、太郎先生!」

「すいませんっしたー!」


太郎先生の有無を言わせない笑顔に怯えて、男子生徒たちはスタコラサッサと逃げていった。他の生徒たちもそれぞれ行動をはじめて、わたしの周りにやっと平穏が戻る。するとすぐに、小日向さんが飛び付いてくる。



「ごめんねお嬢…鼻血吹きそうなくらい興奮しちゃって…つい大声出しちゃった…」

「うん。わざとじゃないの分かってるし、いいよ」

「お…お嬢ウウウウウ…!!」



よしよしと泣き付いてくる小日向さんを宥めながら、太郎先生へと視線を移す。黙ったままの先生に声をかけようか迷っていたら、「痛てててて…」と太郎先生が足を押さえるようにしてしゃがみこんだ。



「力込めすぎて、足つった…いってえ…」

「……」

「あっ!今、吉野おれのことださいと思っただろっ!」

「思いました」

「こういうときだけ素直にならなくてよろしい!……。あっ、ご、ごめん…」



バチッと目と目が合った瞬間、大袈裟に太郎先生が首を横に向けてまた謝った。

太郎先生は、耳まで真っ赤だった。

…太郎先生がさっきからずーっとわたしを見るたびに謝ってきた意味がなんとなく分かってしまってわたしまで顔が熱くなる。



「見たんですね…」

「いやいや、チガウ!不可抗力ダカラ!わざとじゃナイカラ!」

「カタコトになってるよ、ムッツリ太郎ちゃん」

「小日向まで!ひどいよ!」

「ふうん…ムッツリ…」

「うう…かわいい教え子たちがおれをいじめる…」

「でも…ありがとうございます。さっき。助かり、マシタ。すごく」



地べたに座り込んで泣き真似をする太郎先生にしか聞こえない程度の、小さなちいさなお礼。ちょっとかっこよかったので、“見た”ことに関しては許してあげますよ、先生。そこまでは、言ってあげないけど。

「ウン」と、珍しく照れ臭そうに頬を緩ませている太郎先生につられて、わたしも笑った。



「あとね、先生」

「ん?」

「明日からは、きちんとキャミソール着てくることにしますね」

「……そっ、」

「そ?」

「そういうことは、いちいち言わなくていいから……。色々とまずいから……おれが」

「?」

「ウワー、今ちょっと想像したでしょー。太郎ちゃんってピュアムッツリだねえ」

「してないから!変なあだ名つけるのやめて小日向!」



うわあっと顔を両手で隠して、廊下を走っていった太郎先生を首を傾げながら見送った。小日向さんは、お腹を抱えて楽しそうに笑い転げている。ますます首を傾げて、ハテナマークを浮かべるわたしを見て小日向さんは悟った表情をしてみせた。



「お嬢って、意外と天然小悪魔だったんだねえ。ときめくなあ!」

「はあ?」




キャッキャッととなりで騒ぐ小日向さんを適当に流しながら、肩にかかったままのバスタオルに触れる。

…これ、もしかして太郎先生も使ったものなんだろうか。そこまで考えてわたしのほうがよっぽどムッツリだということに気付いてしまうのは本鈴のチャイムが鳴ったあとのことだ。




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