03.知らない夫
翌朝も、いつもと変わらない朝だった。
昨夜、屋敷へ戻ったあと、ローレンスは私を部屋の前まで送ってくれた。
『おやすみなさい』
『おやすみなさい』
交わしたのは、それだけだった。
夫に、長く想っていた女性がいた。
それを知ったところで、昨日までの結婚生活が別のものになるわけではない。ローレンスは私の夫で、それは今朝になっても変わらない。
「奥様、お目覚めですか?」
扉の向こうから侍女の声がして、私は寝台から起き上がった。
「ええ。お願いします」
侍女が窓辺のカーテンを開くと、朝の日差しが部屋へ差し込んだ。
侍女たちに手伝われながら身支度を整え、一階の食堂へ向かう。
ローレンスはすでに席についていた。
「おはようございます」
私に気づくと、ローレンスはいつものように微笑んだ。昨夜、馬車の中であんな話をしたことなど感じさせない、見慣れた表情だった。
「おはようございます」
「よく眠れましたか?」
「ええ。あなたは?」
向かいの席へ座ると、使用人が紅茶を注いでくれる。湯気とともに茶葉の香りが立ち上り、焼きたてのパンの匂いが食卓に広がった。
「私もよく眠れましたよ」
ローレンスはそう答えながら、パンへ手を伸ばした。その様子も普段と何一つ変わらない。
「今日は午前中、西部の街道についてお父上と話す予定でしたね」
「ええ。先月お願いしていた資料も届いたそうです」
昨日、父から届いたと聞いている。昨年の大雨で傷んだ区間について、今日は今後の整備方針を決める予定だった。
「あなたもご一緒してくださいます?」
「そのつもりです。資料には昨夜、一通り目を通しておきました」
「もう?」
相変わらず仕事が早い。
「気になりましたので」
そう言ってローレンスはカップに口づけた。
いつもの朝だった。
今日の予定を確認し、領地から届いた報告について少し意見を交わしながら、朝食を進めていく。
昨夜の話を持ち出すこともなかった。
私も尋ねなかった。
考えてみれば、それで当然なのかもしれない。
結婚前に誰を好きだったのかまで、夫婦だからといって話さなければならないわけではない。
ローレンスが何も言わないのなら、私から聞く必要もないだろう。
「何か考え事ですか?」
黙った私に気づいて、ローレンスが少し不思議そうに私を見た。
「少しだけ」
「昨夜のことですか?」
思わず顔を上げた。
ローレンスは変わらず穏やかにこちらを見ている。
「……いいえ」
「そうですか」
それ以上は聞かれなかった。
私も紅茶へ手を伸ばした。
◇
午前中は父の執務室で過ごした。
話し合うのは、昨年の大雨で傷んだ街道の修繕についてだ。
父の机には、街道周辺の地図と、現地から届いた報告書が広げられていた。
「先に、こちらを直したほうがよいでしょう」
ローレンスが地図の一点を指した。
「商人が多く使うのは、こちらではないぞ」
「ええ。ですが、この道は近くの村にとって唯一の街道です。もう一方は、少し遠回りをすれば別の道を使えます」
父は地図へ目を落とした。
「なるほど。アメリアはどう思う?」
「私も賛成です。先に村へ続く道を直しましょう。もう一方を使う商人には、しばらく迂回してもらうことになりますが」
父は二つの道を見比べるように地図へ目を落とした。
「……そうだな。では、先にこちらを進めよう」
その後も話し合いは続いた。
ローレンスは父の意見に何でも賛成するわけではない。必要なら反対するし、その理由もきちんと説明する。
それでも、話が険悪になることはほとんどなかった。
相手の話を聞き、どこが問題なのかを整理して、自分の意見を伝える。
昔からそういうことが上手な人だった。
「では、その方向で進めよう」
父が頷き、話し合いは終わった。
机の上に広げていた地図と報告書を片づけ、私たちも席を立つ。
「ローレンスは、このあと王宮でしたね」
「ええ。昼食を済ませたら向かいます」
「夕食には戻れそうですか?」
「そのつもりですが、少し遅くなるかもしれません」
「分かりました」
「遅れるようなら、屋敷へ知らせます」
ローレンスとはそこで別れ、私は自分の執務室へ戻った。
◇
昼を過ぎ、ローレンスが王宮へ出かけたあとも、私は自分の執務室で仕事を続けていた。
机には領内の収支に関する書類が積まれている。
何枚か確認したところで、扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは侍女だった。
「奥様、お客様がお見えです」
「どなた?」
告げられたのは、ローレンスの兄の妻の名前だった。
「お通しして」
「かしこまりました」
残っていた書類をまとめ、客間へ向かった。
◇
「突然ごめんなさいね」
「いいえ。お会いできて嬉しいです」
義姉とは結婚前から何度も顔を合わせている。
ローレンスより二つ年上で、明るく気さくな女性だ。今日は近くまで来る用事があり、その帰りに立ち寄ってくれたらしい。
客間には午後の日差しが差し込み、窓辺に置かれた花瓶の影を長く床へ落としている。
紅茶と焼き菓子が運ばれてくると、義姉がカップを手に取った。
「こちらでの暮らしはいかが?」
「私にとっては生まれ育った家ですから、特には」
「ああ、そうでした。聞く相手を間違えたわ」
義姉が声を立てて笑う。
「では、ローレンスは?」
「すっかり馴染んでいますよ。父ともよく話していますし、使用人たちとも」
「それなら安心したわ。あの人、昔から外では要領がいいもの」
「外では?」
思わず聞き返すと、義姉は意味ありげに眉を上げた。
「家ではもう少し適当よ。愛想よくしているのが面倒になれば、兄にはろくに返事もしないことがありますし」
私は家でのローレンスを思い返した。
さすがに返事もしないところまでは見たことがない。けれど、疲れて帰ってきた日は、いつもより静かになる。
「疲れているときは、少し口数が減りますよね」
「あら、そう?」
義姉がカップを置き、少し意外そうにこちらを見た。
「ええ」
「よく見ているのね」
そう言われるほどのことだろうか。
「昔から顔を合わせていますから、それくらいは」
「そうね。あなたたちは付き合いが長いものね」
義姉は納得したように頷いた。
「昔からといえば、あの人、今でも夜更かしするのかしら」
「夜更かし?」
「本を読み始めたり、何か調べ始めたりすると止まらなくなるのよ。子供の頃なんて、朝まで起きていて母に叱られたこともあったわ」
「それは知りませんでした」
「あら」
叱られるローレンスの想像がつかなかった。
「そんなことがあったのですね」
「家の中でのことだもの。知らなくて当然よ」
そう言われれば、その通りだった。
私はローレンスとは長い付き合いだ。
幼い頃から何度も顔を合わせてきたし、成長してからも同じ夜会や舞踏会へ出ることは多かった。
けれど、同じ家で暮らしていたわけではない。
侯爵家でどのように過ごしていたのか、家族の前でどんな顔をしていたのか。知らないことがあって当然だった。
「今もそうなのかしら」
「少なくとも、朝食には毎日いらっしゃいますよ」
「なら大丈夫かしら。でも、あの人は平気な顔をするから」
「今夜、聞いてみます」
「お願いね」
義姉が微笑む。
その後もしばらく互いの家族や最近の王都の話をして、義姉は帰っていった。
一人になった客間で、私は残った紅茶を飲んだ。
ローレンスが夜更かしをすることも、家族の前では返事さえ億劫になることがあることも、私は知らなかった。
けれど、それを意外に思うこと自体が少しおかしいのかもしれない。
長い付き合いとはいえ、彼が侯爵家で過ごす姿を見てきたわけではないのだから。
冷めかけた紅茶を飲み干し、私は仕事へ戻った。
◇
夕食の時間が近づいた頃、侍女がローレンスから知らせが届いたと伝えに来た。
「王宮を出るのが少し遅くなるそうです」
「どのくらいです?」
「半刻ほどかと」
「そうですか」
「先にお食事になられますか?」
私は時計を見る。
それくらいなら待っていてもいいだろう。
「いえ。戻ってからにします」
「かしこまりました」
居間へ移り、本を読みながら待つことにした。
しばらくすると、玄関のほうから扉の開く音と、何人かの話し声が聞こえてきた。
どうやら帰ってきたらしい。
私は本を閉じて立ち上がった。
廊下へ出ると、ちょうど外套を従僕へ渡しているローレンスと顔を合わせた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
ローレンスがこちらを見る。
「まだお食事ではなかったのですか?」
「ええ。もう少しで戻ると聞いたので」
「お待たせしてしまいましたね」
「それほど待っていませんよ」
「ありがとうございます」
ローレンスはそう言って微笑んだ。
「では、ご一緒していただけますか?」
「もちろんです」
並んで食堂へ向かおうとして、昼間の話を思い出した。
「そういえば」
「はい?」
「昨夜は何時にお休みになりました?」
ローレンスが足を止めた。
「……急ですね」
「今日、お義姉様がお見えになりました」
「ああ」
それだけで分かったらしい。ローレンスは小さく息を吐き、再び歩き始めた。
「余計なことを聞かれましたね」
「昔から、何かを始めると眠らなくなるそうですね」
「随分昔の話ですよ」
否定するわけではないらしい。
「昨夜は?」
「昨夜ですか?」
「ええ」
ローレンスは少し考え込んだ。すぐに答えないところを見ると、早く寝たわけではなさそうだ。
「いつもよりは遅かったかもしれません」
「何時です?」
「時計を見ていませんでした」
私は足を止めかけた。
「では、今日は早くお休みください」
「善処します」
「善処では困ります」
ローレンスが楽しそうに笑う。心配しているのに笑われるのは少し不満だった。
「分かりました。今日は早く休みます」
「そうしてください」
食堂へ向かって、再び歩き出す。
「それにしても、兄嫁は何を話しに来たのでしょう」
「近くまでいらしたそうですよ」
「それだけですか?」
「ええ。あとは家族のことや、最近のことを」
ローレンスがわずかにこちらへ顔を向ける。
「私についても随分聞かれたようですが」
「少しだけです」
「何を話したのです?」
昼間聞いた話を思い返した。
夜更かしのことも、家族の前では少し愛想がなくなることも、義姉から聞いたと知れば嫌がるかもしれない。
「内緒です」
ローレンスが今度ははっきりとこちらを見た。
「教えてくださらないのですか?」
「あなたも昨日、教えてくださらなかったでしょう」
「仕返しですか?」
そんなつもりで言ったわけではなかったけれど、否定するのもつまらない気がした。
「そういうことにしておきます」
「それは困りましたね」
言葉とは裏腹に、ローレンスは笑っている。
私もつられて口元を緩めた。
廊下には等間隔に燭台が並び、二人分の影が壁の上をゆっくりと進んでいく。
夫について、知らないことはまだたくさんあるらしい。
長い付き合いとはいっても、これまでは互いに別々の家で、別々の生活を送ってきた。結婚して、まだ三か月だ。
これから少しずつ知っていけばいい。
そう考えたところで、昨夜の話を思い出した。
ローレンスが、長く想っていたという女性。
それもまた、私の知らないローレンスの一つなのだろう。
私は隣を歩く夫の横顔を見た。
それについても、今すぐ聞き出す必要はない。
いつかローレンスが話したくなったときに、聞けばいいのだ。
今はそれでいい。
そう思って、私はローレンスと並んで食堂の扉をくぐった。




