↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/20

03.知らない夫

 翌朝も、いつもと変わらない朝だった。


 昨夜、屋敷へ戻ったあと、ローレンスは私を部屋の前まで送ってくれた。


『おやすみなさい』

『おやすみなさい』


 交わしたのは、それだけだった。


 夫に、長く想っていた女性がいた。


 それを知ったところで、昨日までの結婚生活が別のものになるわけではない。ローレンスは私の夫で、それは今朝になっても変わらない。


「奥様、お目覚めですか?」


 扉の向こうから侍女の声がして、私は寝台から起き上がった。


「ええ。お願いします」


 侍女が窓辺のカーテンを開くと、朝の日差しが部屋へ差し込んだ。

 侍女たちに手伝われながら身支度を整え、一階の食堂へ向かう。


 ローレンスはすでに席についていた。


「おはようございます」


 私に気づくと、ローレンスはいつものように微笑んだ。昨夜、馬車の中であんな話をしたことなど感じさせない、見慣れた表情だった。


「おはようございます」

「よく眠れましたか?」

「ええ。あなたは?」


 向かいの席へ座ると、使用人が紅茶を注いでくれる。湯気とともに茶葉の香りが立ち上り、焼きたてのパンの匂いが食卓に広がった。


「私もよく眠れましたよ」


 ローレンスはそう答えながら、パンへ手を伸ばした。その様子も普段と何一つ変わらない。


「今日は午前中、西部の街道についてお父上と話す予定でしたね」

「ええ。先月お願いしていた資料も届いたそうです」


 昨日、父から届いたと聞いている。昨年の大雨で傷んだ区間について、今日は今後の整備方針を決める予定だった。


「あなたもご一緒してくださいます?」

「そのつもりです。資料には昨夜、一通り目を通しておきました」

「もう?」


 相変わらず仕事が早い。


「気になりましたので」


 そう言ってローレンスはカップに口づけた。


 いつもの朝だった。

 今日の予定を確認し、領地から届いた報告について少し意見を交わしながら、朝食を進めていく。


 昨夜の話を持ち出すこともなかった。

 私も尋ねなかった。


 考えてみれば、それで当然なのかもしれない。


 結婚前に誰を好きだったのかまで、夫婦だからといって話さなければならないわけではない。

 ローレンスが何も言わないのなら、私から聞く必要もないだろう。


「何か考え事ですか?」


 黙った私に気づいて、ローレンスが少し不思議そうに私を見た。


「少しだけ」

「昨夜のことですか?」


 思わず顔を上げた。

 ローレンスは変わらず穏やかにこちらを見ている。


「……いいえ」

「そうですか」


 それ以上は聞かれなかった。

 私も紅茶へ手を伸ばした。



 午前中は父の執務室で過ごした。


 話し合うのは、昨年の大雨で傷んだ街道の修繕についてだ。

 父の机には、街道周辺の地図と、現地から届いた報告書が広げられていた。


「先に、こちらを直したほうがよいでしょう」


 ローレンスが地図の一点を指した。


「商人が多く使うのは、こちらではないぞ」

「ええ。ですが、この道は近くの村にとって唯一の街道です。もう一方は、少し遠回りをすれば別の道を使えます」


 父は地図へ目を落とした。


「なるほど。アメリアはどう思う?」

「私も賛成です。先に村へ続く道を直しましょう。もう一方を使う商人には、しばらく迂回してもらうことになりますが」


 父は二つの道を見比べるように地図へ目を落とした。


「……そうだな。では、先にこちらを進めよう」


 その後も話し合いは続いた。


 ローレンスは父の意見に何でも賛成するわけではない。必要なら反対するし、その理由もきちんと説明する。

 それでも、話が険悪になることはほとんどなかった。


 相手の話を聞き、どこが問題なのかを整理して、自分の意見を伝える。

 昔からそういうことが上手な人だった。


「では、その方向で進めよう」


 父が頷き、話し合いは終わった。


 机の上に広げていた地図と報告書を片づけ、私たちも席を立つ。


「ローレンスは、このあと王宮でしたね」

「ええ。昼食を済ませたら向かいます」

「夕食には戻れそうですか?」

「そのつもりですが、少し遅くなるかもしれません」

「分かりました」

「遅れるようなら、屋敷へ知らせます」


 ローレンスとはそこで別れ、私は自分の執務室へ戻った。



 昼を過ぎ、ローレンスが王宮へ出かけたあとも、私は自分の執務室で仕事を続けていた。

 机には領内の収支に関する書類が積まれている。


 何枚か確認したところで、扉が叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのは侍女だった。


「奥様、お客様がお見えです」

「どなた?」


 告げられたのは、ローレンスの兄の妻の名前だった。


「お通しして」

「かしこまりました」


 残っていた書類をまとめ、客間へ向かった。



「突然ごめんなさいね」

「いいえ。お会いできて嬉しいです」


 義姉とは結婚前から何度も顔を合わせている。

 ローレンスより二つ年上で、明るく気さくな女性だ。今日は近くまで来る用事があり、その帰りに立ち寄ってくれたらしい。


 客間には午後の日差しが差し込み、窓辺に置かれた花瓶の影を長く床へ落としている。

 紅茶と焼き菓子が運ばれてくると、義姉がカップを手に取った。


「こちらでの暮らしはいかが?」

「私にとっては生まれ育った家ですから、特には」

「ああ、そうでした。聞く相手を間違えたわ」


 義姉が声を立てて笑う。


「では、ローレンスは?」

「すっかり馴染んでいますよ。父ともよく話していますし、使用人たちとも」

「それなら安心したわ。あの人、昔から外では要領がいいもの」

「外では?」


 思わず聞き返すと、義姉は意味ありげに眉を上げた。


「家ではもう少し適当よ。愛想よくしているのが面倒になれば、兄にはろくに返事もしないことがありますし」


 私は家でのローレンスを思い返した。

 さすがに返事もしないところまでは見たことがない。けれど、疲れて帰ってきた日は、いつもより静かになる。


「疲れているときは、少し口数が減りますよね」

「あら、そう?」


 義姉がカップを置き、少し意外そうにこちらを見た。


「ええ」

「よく見ているのね」


 そう言われるほどのことだろうか。


「昔から顔を合わせていますから、それくらいは」

「そうね。あなたたちは付き合いが長いものね」


 義姉は納得したように頷いた。


「昔からといえば、あの人、今でも夜更かしするのかしら」

「夜更かし?」

「本を読み始めたり、何か調べ始めたりすると止まらなくなるのよ。子供の頃なんて、朝まで起きていて母に叱られたこともあったわ」

「それは知りませんでした」

「あら」


 叱られるローレンスの想像がつかなかった。


「そんなことがあったのですね」

「家の中でのことだもの。知らなくて当然よ」


 そう言われれば、その通りだった。


 私はローレンスとは長い付き合いだ。

 幼い頃から何度も顔を合わせてきたし、成長してからも同じ夜会や舞踏会へ出ることは多かった。


 けれど、同じ家で暮らしていたわけではない。

 侯爵家でどのように過ごしていたのか、家族の前でどんな顔をしていたのか。知らないことがあって当然だった。


「今もそうなのかしら」

「少なくとも、朝食には毎日いらっしゃいますよ」

「なら大丈夫かしら。でも、あの人は平気な顔をするから」

「今夜、聞いてみます」

「お願いね」


 義姉が微笑む。

 その後もしばらく互いの家族や最近の王都の話をして、義姉は帰っていった。


 一人になった客間で、私は残った紅茶を飲んだ。


 ローレンスが夜更かしをすることも、家族の前では返事さえ億劫になることがあることも、私は知らなかった。


 けれど、それを意外に思うこと自体が少しおかしいのかもしれない。

 長い付き合いとはいえ、彼が侯爵家で過ごす姿を見てきたわけではないのだから。


 冷めかけた紅茶を飲み干し、私は仕事へ戻った。



 夕食の時間が近づいた頃、侍女がローレンスから知らせが届いたと伝えに来た。


「王宮を出るのが少し遅くなるそうです」

「どのくらいです?」

「半刻ほどかと」

「そうですか」

「先にお食事になられますか?」


 私は時計を見る。

 それくらいなら待っていてもいいだろう。


「いえ。戻ってからにします」

「かしこまりました」


 居間へ移り、本を読みながら待つことにした。


 しばらくすると、玄関のほうから扉の開く音と、何人かの話し声が聞こえてきた。

 どうやら帰ってきたらしい。


 私は本を閉じて立ち上がった。


 廊下へ出ると、ちょうど外套を従僕へ渡しているローレンスと顔を合わせた。


「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」


 ローレンスがこちらを見る。


「まだお食事ではなかったのですか?」

「ええ。もう少しで戻ると聞いたので」

「お待たせしてしまいましたね」

「それほど待っていませんよ」

「ありがとうございます」


 ローレンスはそう言って微笑んだ。


「では、ご一緒していただけますか?」

「もちろんです」


 並んで食堂へ向かおうとして、昼間の話を思い出した。


「そういえば」

「はい?」

「昨夜は何時にお休みになりました?」


 ローレンスが足を止めた。


「……急ですね」

「今日、お義姉様がお見えになりました」

「ああ」


 それだけで分かったらしい。ローレンスは小さく息を吐き、再び歩き始めた。


「余計なことを聞かれましたね」

「昔から、何かを始めると眠らなくなるそうですね」

「随分昔の話ですよ」


 否定するわけではないらしい。


「昨夜は?」

「昨夜ですか?」

「ええ」


 ローレンスは少し考え込んだ。すぐに答えないところを見ると、早く寝たわけではなさそうだ。


「いつもよりは遅かったかもしれません」

「何時です?」

「時計を見ていませんでした」


 私は足を止めかけた。


「では、今日は早くお休みください」

「善処します」

「善処では困ります」


 ローレンスが楽しそうに笑う。心配しているのに笑われるのは少し不満だった。


「分かりました。今日は早く休みます」

「そうしてください」


 食堂へ向かって、再び歩き出す。


「それにしても、兄嫁は何を話しに来たのでしょう」

「近くまでいらしたそうですよ」

「それだけですか?」

「ええ。あとは家族のことや、最近のことを」


 ローレンスがわずかにこちらへ顔を向ける。


「私についても随分聞かれたようですが」

「少しだけです」

「何を話したのです?」


 昼間聞いた話を思い返した。

 夜更かしのことも、家族の前では少し愛想がなくなることも、義姉から聞いたと知れば嫌がるかもしれない。


「内緒です」


 ローレンスが今度ははっきりとこちらを見た。


「教えてくださらないのですか?」

「あなたも昨日、教えてくださらなかったでしょう」

「仕返しですか?」


 そんなつもりで言ったわけではなかったけれど、否定するのもつまらない気がした。


「そういうことにしておきます」

「それは困りましたね」


 言葉とは裏腹に、ローレンスは笑っている。

 私もつられて口元を緩めた。


 廊下には等間隔に燭台が並び、二人分の影が壁の上をゆっくりと進んでいく。


 夫について、知らないことはまだたくさんあるらしい。

 長い付き合いとはいっても、これまでは互いに別々の家で、別々の生活を送ってきた。結婚して、まだ三か月だ。


 これから少しずつ知っていけばいい。


 そう考えたところで、昨夜の話を思い出した。


 ローレンスが、長く想っていたという女性。

 それもまた、私の知らないローレンスの一つなのだろう。


 私は隣を歩く夫の横顔を見た。


 それについても、今すぐ聞き出す必要はない。

 いつかローレンスが話したくなったときに、聞けばいいのだ。


 今はそれでいい。


 そう思って、私はローレンスと並んで食堂の扉をくぐった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。