16.好きです
次の夜、ローレンスが私の部屋を訪れた。
湯浴みを済ませた私は、長椅子に腰掛けて本を開いていた。けれど、読んでいるというよりは、頁へ目を向けているだけに近かった。
手にしているのは、ずいぶん前から読み進めている旅行記だ。同じ行を何度追っても、意味が頭に入ってこない。
どうしても昨夜のことを思い出してしまう。
ローレンスの手が頬に触れたことも、唇が重なったことも。そして何より、一度離れたローレンスに、自分からもう一度を望んだことも。
「まだ起きていました?」
聞き慣れた声に顔を上げる。
「ええ」
「入っても?」
「どうぞ」
ローレンスが部屋へ入り、そのまま長椅子へ近づいてきた。
以前なら少し離れたところへ座ることもあったのに、今夜は迷う様子もなく私の隣へ腰を下ろす。肩が触れそうな距離だった。
それだけで、昨夜の記憶がまた鮮明になる。
「何を読んでいるのです?」
「旅行記です」
「面白いですか?」
「ええ」
答えると、ローレンスの視線が開かれた頁へ落ちた。
「随分長い頁ですね」
「何がです?」
「部屋へ入ってから、一度もめくっていませんよ」
顔を上げると、ローレンスは少しだけ笑っていた。
気づいていたらしい。
私は諦めて本を閉じ、膝の上へ置いた。
「あなたのせいです」
「私?」
「昨日のことを思い出すので」
ローレンスの表情が止まった。
ほんの一瞬だったけれど、見逃さなかった。
「……嫌でした?」
「またそれですか?」
「大事なので」
「嫌なら、もう一度なんて言いません」
今度はローレンスが黙る番だった。
わずかに視線を逸らし、何かを言いかけるように唇を動かしたものの、結局そのまま口を閉じる。
いつもなら、こういうときでも何事もなかったように返してくるのに。
どうやら落ち着かないのは、私だけではないらしい。
そう思うと少しだけ安心した。けれど、これから言おうとしていることを思い出せば、胸の奥はまた重くなる。
昨夜から、ずっと考えていた。
ローレンスに振り向いてもらいたくて、私は少しずつ距離を縮めてきた。そして昨夜、ローレンスは私に口づけた。
妻だからというだけなら、もっと楽だったとも言った。
だったら、少しくらい期待してもいいのではないか。
何度もそう考えた。
それでも、確かなことは何一つない。
ローレンスには、長く想い続けてきた女性がいる。今でも好きだと、本人から聞いている。
私は、その人ではない。
私に少し惹かれてくれていたとしても、それがそのまま恋愛感情だとは限らない。妻だから大切にしてくれているだけかもしれないし、昨夜の口づけだって、私たちは夫婦なのだから、それだけで答えになるわけではなかった。
もし期待して告白して、それでも「あなたのことは、そういう意味では好きではありません」と言われたら、今まで通りこの人の隣にいられるだろうか。
そう考えると、急に怖くなった。もう少し待ってもいいのではないか。
せっかく今はうまくいっているのだから、わざわざ今、答えを出さなくてもいいのではないか。
そんな考えが次々と浮かんだ。
「どうしました?」
ローレンスの声で我に返る。
「何でもありません」
「そうですか?」
「ええ」
ローレンスはそれ以上問い詰めなかった。
ただ、静かにこちらを見ている。
その目を見ていると、やはり言いたいと思った。
振られるのが怖いからといって、何も言わずに待っているだけには戻りたくない。
私はこの人が好きなのだ。それだけは、もう分かっている。
「ローレンス」
「はい」
膝の上に置いた本の表紙を、指先でゆっくりなぞる。
一度、息を吸った。それでも声が震えそうだった。
「私……あなたが好きです」
言ってしまった。
口から出た言葉は、もう戻らない。
ローレンスの気配が止まった。
顔を上げられないまま待っていると、隣からかすかに息を呑む音が聞こえる。それでも返事はなく、膝の上の本へ落とした視線の端で、ローレンスの手が一度握られて、また開くのが見えた。
途端に、先ほどまでとは比べものにならないほど不安になった。
ローレンスの顔を見ることができない。
どうして何も言わないのだろう。
やはり困らせたのではないか。
ローレンスには別に好きな人がいる。分かっていたはずなのに、私は何を期待していたのだろう。
「……すみません」
気づけば、そう口にしていた。
「え?」
ようやくローレンスの声が返ってくる。
「困らせるつもりではなかったのです」
「待ってください」
「返事は、今でなくても――」
「違います」
言葉を遮ると同時に、ローレンスの手が伸びてきた。
膝の上で握っていた私の手を包み込む。
驚いて顔を上げると、ローレンスは私が想像していたような困った顔をしていなかった。
むしろ、何かを堪えるように私を見つめている。
「すみません。驚いてしまって」
「……驚いた?」
「ええ」
ローレンスの指が、私の手を握り直す。
「あなたから、そんなことを言ってもらえるとは思っていませんでした」
その声は、いつもより少し掠れていた。
ローレンスも緊張している。
そう気づいた途端、胸の奥に小さな期待が戻ってくる。
けれど、まだ怖い。
「では……」
その先を聞くのが怖くて、言葉が止まった。
ローレンスはしばらく私を見ていた。
それから、つないだ手をゆっくり持ち上げる。
私の指先へ、そっと唇が触れた。
「私も好きです」
頭の中が真っ白になった。
何も返せないまま見つめていると、ローレンスの目元がわずかに緩んだ。けれど、私の手を包む指には少しずつ力がこもっていく。
「……ずっと、言いたかった」
小さくこぼされた言葉に、胸が大きく鳴った。
「あなたが好きですよ」
聞き間違いではなかった。
ローレンスの声が、すぐ近くから聞こえる。
胸の奥に張りつめていたものが、一気にほどけていった。
安心した途端、目の奥が熱くなる。
泣くようなことではない。
そう思うのに、うまく声が出なかった。
「……よかった」
ようやく、それだけ言った。
もっと何か言いたかったのに、ほかの言葉が浮かばない。
ローレンスの手を握り返す。
温かい。
本当に、ローレンスが私を好きだと言ってくれた。妻だから大切にしているというだけではなく、私を。
ローレンスには、ずっと好きな人がいた。私がどれだけ近づいても、その人には敵わないのではないかと思っていた。それでも諦めたくなくて、少しずつ距離を縮めてきた。
そして今、ローレンスが好きだと言ってくれた相手は私だった。
あれこれ考えて、迷って、それでも諦めずに近づいてきてよかった。ようやく、好きな人に好きだと言ってもらえたのだという実感が湧いてきた。
「……何です?」
ローレンスに尋ねられた。
どうやら顔に出ていたらしい。
「何でもありません」
「先ほどまで泣きそうだったのに、今度は嬉しそうですね」
「嬉しいですから」
私はローレンスを見る。
もう、目を逸らす必要はなかった。
「あなたが私を好きだと言ったのですよ。嬉しいに決まっているでしょう」
ローレンスは一度目を伏せた。
つないだ手に少しだけ力がこもる。それから小さく息を吐いて、ようやく私を見た。
「……そうですね」
「何です?」
「いえ」
そう答えたものの、いつものような余裕のある笑みは戻らなかった。むしろ私より、ローレンスのほうが落ち着かなくなっているように見える。
けれど、私の手を離そうともしなかった。
私は少し迷ってから、その手へもう片方の手も重ねた。
「もう少し、近くに来ません?」
ローレンスが目を瞬く。
「……いいのですか?」
「私から言ったのですけれど」
「そうですね」
それでも、ローレンスはすぐには動かなかった。
だから今度は、私から少し身体を寄せた。
肩が触れる。
それを合図にしたように、ローレンスの腕がゆっくりと私の背中へ回った。
抱き寄せられ、私は抵抗せずその胸元へ頬を寄せた。
恐る恐る触れるようだった腕が、私が離れないと分かった途端、少しだけ強くなる。
「……苦しいです」
「すみません」
すぐに力が緩んだ。
そのまま離れてしまいそうになって、私は反射的に服をつかむ。
「離せとは言っていません」
自分でも随分わがままだと思う。けれど、ローレンスは何も言わず、もう一度私を抱き直してくれた。
今度は苦しくない。それでも隙間がなくなるくらい近く、胸元へ頬を寄せていると、服越しにローレンスの鼓動まで伝わってくる。
いつも落ち着いている彼からは想像できないほど速かった。
昨夜からずっと落ち着かなかったのは、私だけではなかったらしい。それが分かると、なんだか嬉しくなった。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
ローレンスの手が私の髪をゆっくりと撫でる。そのたびに身体から少しずつ力が抜けていき、私はますます彼の胸元へ身体を預けた。
これまで、ローレンスが隣にいることは当たり前だった。幼い頃から知っていて、結婚してからは毎日同じ屋敷で暮らしている。
それなのに、今は同じように隣にいるだけでも、以前とはまるで違って感じられた。
ローレンスは私の好きな人で、その人も私を好きだと言ってくれた。
たったそれだけで、こうして抱きしめられていることの意味まで変わってしまうらしい。
「……ローレンス」
「はい」
胸元から顔を上げると、すぐ近くにローレンスの顔があった。
昨夜なら、それだけで恥ずかしくなって目を逸らしていただろう。けれど、今はそのまま見つめ返した。
ローレンスも私を見つめたまま、頬へそっと手を添える。
その意味は、もう分かっていた。
ゆっくりと顔が近づいてきたので、今度は待たれるまでもなく目を閉じる。
唇が重なった。
昨夜よりも長い口づけだったけれど、不思議と昨夜ほど緊張はしなかった。
もう、夫婦だから交わす口づけではない。
私が好きな人と、その人も私を好きなのだと知ったうえで交わしている。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
やがて唇が離れても、ローレンスはすぐには身体を離さなかった。近い距離のまま目が合い、頬に添えられた親指がゆっくりと肌を撫でる。
「もう一度、しても?」
「聞かなくてもいいですよ」
ローレンスの目が揺れた。
次の口づけは、先ほどよりもゆっくりだった。腰へ回された腕に引き寄せられ、私もローレンスの肩へ手を置く。
昨夜はあれほど近さを意識していたのに、今はもう近すぎるとは思わなかった。むしろ、少しでも離れていくほうが嫌だった。
やがて唇が離れても、ローレンスは私を抱いたままだった。
額が触れそうな距離で、小さく息を吐く。
「……本当に、私でいいのです?」
思いがけない言葉だった。
いつものような余裕はなく、ほんの少し不安そうに私を見ている。
こんな顔もするのだ。
「あなたがいいのです」
迷わず答えた。
ローレンスの目がわずかに見開かれる。
「だから、こんなに頑張ったのですよ」
「頑張った?」
「あなたに振り向いてもらおうと」
ローレンスが動きを止めた。
「本を贈ったのも、二人で出かけたのも、自分から手をつないだのも」
思い返せば、どれも最初は恥ずかしかった。
それでも、少しでも私を見てほしくてしたことだった。
「全部、あなたに好きになってほしかったからです」
言い終えた途端、ローレンスの腕がぴたりと止まった。
何か返ってくると思ったのに、声がない。代わりに、私を抱く腕が少しずつ強くなっていく。
「……ローレンス?」
「少し待ってください」
「何を?」
「今、平静を装っています」
「どうして?」
そこでようやく、ローレンスは私の肩へ額を寄せた。
顔を隠すような仕草をされて、私は目を瞬く。
「あなたが、私に好きになってほしくてそんなことをしていたと聞かされて、平然としていられるほど器用ではありません」
低い声が、すぐ近くから聞こえた。
「……気づいていなかったのです?」
「まったく」
「あなた、人のことはよく見ているのに」
「あなたのことだから、分からなかったのかもしれません」
「どういう意味です?」
ローレンスはすぐには答えなかった。
私の肩へ額を寄せたまま、抱いている腕の力をわずかに緩める。
何かを言うべきか迷っているような沈黙のあと、ようやく低い声が返ってきた。
「自分に都合のいい期待は、しないようにしていたので」
私は首を傾げた。
「私があなたを好きかもしれない、とは思わなかったということです?」
「ええ」
「そんなに分かりにくかったでしょうか」
「私には」
それ以上は説明してくれなかった。
人のことにはよく気づくのに、自分へ向けられたものとなると、案外分からなくなるらしい。そう思うと、少しだけ可笑しかった。
ふと、あの木箱のことが頭をよぎる。
ローレンスの部屋にあった、小さな箱。
私には見せられないと言っていたもの。
きっと、長く想い続けてきた人に関わるものが入っているのだろう。
以前なら、それを考えるだけで胸がざわついた。
けれど今は、少し違う。
ローレンスが今、好きだと言ってくれたのは私だ。
それなら、少なくとも以前よりはずっと近づけたはずだ。
あの箱の中にあるものを捨ててほしいとは思わない。長く大切にしてきたものなら、簡単に手放せないことも分かる。
けれど、今だけは少しくらい自信を持ってもいい気がした。
長年ローレンスの心にいた人を相手に、ずっと勝ち目がないと思っていたのだから。
――もしかすると、私はあの人に勝ったのかもしれない。
そう思うと、また少し嬉しくなった。
「何を考えているのです?」
ローレンスの声が頭の上から降ってくる。
「秘密です」
「私には教えてくださらないのです?」
「ローレンスにも秘密があるでしょう?」
「……ありますね」
「なら、お互い様です」
髪へ柔らかな口づけが落ちる。
もう少しだけこうしていたくて、ローレンスの胸へ頬を寄せ直す。すると、それが伝わったように腕が私を抱き直してくれた。
言葉にしなくても応えてもらえたことが嬉しくて、私はそのまま彼の胸元で小さく笑った。
「ローレンス」
「はい?」
「好きです」
今度は、答えを求めるためではない。
自分から言いたくなっただけだった。
ローレンスの腕が一瞬止まる。
それから、抱きしめる腕にじわりと力がこもる。
「……もう一度言ってもらえます?」
「さっき言ったでしょう」
「足りません」
声は真面目なのに、抱く腕は先ほどより少し強い。
思わず笑ってしまった。
「欲張りですね」
「そうかもしれません」
ローレンスの顔を見上げる。
今度は恥ずかしくなかった。
「好きですよ」
ゆっくり言う。
ローレンスはすぐには答えなかった。ただ私の顔を見つめたあと、もう一度強く抱き寄せる。
「私もです」
耳元で返事が聞こえた。
それだけで、また胸が温かくなる。
長年の想い人のことも、木箱のことも、今夜は考えなくていい。
少なくとも今、ローレンスが好きだと言ってくれたのは私なのだから。
私はそう思いながら、もう一度ローレンスの腕の中へ身体を預けた。




