15.戻れない
父上が領内の貴族を招く夜会は、年に何度か開かれる。
結婚してから初めて出席するわけでもない。それでも今夜は、いつもより少しだけ支度に時間をかけていた。
「奥様、こちらでよろしいでしょうか」
「ええ」
侍女が最後に髪を整え、鏡越しに一礼する。
今夜選んだのは、淡い青のドレスだった。胸元には細かな襞が寄せられ、柔らかな布を幾重にも重ねた裾は、身体を動かすたびにゆるやかに揺れる。普段の私なら、もう少し簡素なものを選んでいただろう。
鏡の中の自分を眺めながら、私は少しだけ落ち着かない気持ちになった。
ローレンスを振り向かせようと決める前なら、自分の立場にふさわしい装いであれば、それで十分だった。けれど今夜は、それだけではない。
ローレンスにも、綺麗だと思ってもらいたい。
そんなことを考えるようになった自分が、少しくすぐったい。
ローレンスには今でも好きな女性がいる。先日見つけた木箱に、その人との思い出が入っているのかもしれないと思えば、簡単にこちらを向いてもらえるはずがないことくらい分かっている。
それでも、少しくらい彼の目に留まりたいと思う。
鏡の中の自分をもう一度確かめたところで、扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはローレンスだった。
「そろそろ――」
途中まで口にした言葉が、不自然に途切れる。
ローレンスは扉の前で足を止めたまま、しばらくこちらを見ていた。いつもならすぐに浮かぶはずの笑みもなく、珍しく何を言えばいいのか迷っているように見える。
「どうしました?」
「……いえ」
一度視線を外したあと、ローレンスは小さく息を吐いた。それから改めてこちらを見る。
「よくお似合いです」
「ありがとうございます」
たったそれだけの言葉なのに、時間をかけて支度をしたことまで報われたような気がした。
「ローレンスも」
「私も?」
「その礼装、よく似合っています」
ローレンスが一度目を瞬いた。
「……ありがとうございます」
返事をしながら胸元へ視線を落とし、襟へ触れる。別に乱れているわけでもないのに、一度整えるように指先を滑らせた。
もう一度こちらを見たときにはいつもの笑みが戻っていたけれど、口元は普段より少し緩んでいた。
以前なら気づかなかったかもしれないけれど、最近はこういう小さな変化まで分かるようになってきた。
差し出された手を取る。
「行きましょうか」
「ええ」
◇
大広間には、すでに多くの招待客が集まっていた。
壁際にはいくつもの燭台が並び、その前を着飾った客たちが行き交っていた。広間の奥では楽団が演奏の準備を整え、開け放たれた扉からは涼しい夜風が入り込んでいる。
父上へ挨拶したあと、ローレンスとともに客を迎える。
私はまだ当主ではないけれど、いずれこの家を継ぐ。領内の収穫や街道の補修について尋ねられれば答え、父上へ取り次ぐべき話があれば覚えておかなければならない。
そうして何人目かの客との挨拶を終えた頃、楽団が最初の曲を奏で始めた。
「行きましょうか」
ローレンスが手を差し出す。
「ええ」
夫婦で出席した夜会では、最初の一曲をローレンスと踊る。
結婚してから何度か同じように踊っている。だから、何も特別なことではないはずだった。
広間の中央へ進み、ローレンスと向かい合う。片方の手を重ね、もう片方を肩へ置いた。
ローレンスの手が腰へ添えられると、いつもと同じはずなのに、その手を今日は妙に意識した。
向かい合って踊るのだから、これくらいの距離になるのは当たり前だ。それなのに、顔を上げればすぐそこにローレンスがいることまで、今夜は落ち着かない。
目が合いそうになり、私は思わず彼の胸元へ視線を落とした。
ちょうど楽団の演奏が始まり、ローレンスに導かれるまま最初の一歩を踏み出す。
「どうしました?」
「何がです?」
「先ほどから、こちらを見てくださらないので」
「見る必要があります?」
「いつもは見てくださるでしょう」
「今日はそういう気分ではないのです」
「そうですか」
素直に引き下がったような返事だったけれど、ローレンスの口元はわずかに緩んでいた。
けれど次の瞬間、その視線が私の顔へ落ちたまま動かなくなる。
気づかれている。
それどころか、私が顔を上げないことまで楽しんでいるように見えて、ますます視線を合わせづらくなった。
曲に合わせて身体の向きが変わり、ローレンスの手に支えられて再び距離が縮まる。先ほどより近くなったような気がして、思わず身じろぎした。
「……少し近くありません?」
思わず口にすると、腰に添えられていた手の力がすぐに緩んだ。
「すみません」
ローレンスはすぐに距離を取った。
それでいいはずなのに、離れてしまった温もりが惜しく感じられる。
自分で言ったのに、何を考えているのだろう。
結局、一曲が終わるまで、私はほとんどローレンスの顔を見ることができなかった。
◇
最初の曲を終えると、私は何人かの夫人たちのところへ挨拶に向かった。ローレンスとも一度離れる。
領内の近況や、近々王都で開かれる夜会について話しているうちに、ようやく頬の熱も落ち着いてきた。
少し意識しすぎただけだと思っていたところで、次の曲が始まった。
何気なく広間へ目を向けると、ローレンスの姿があった。若い令嬢と向かい合っている。
誘われたのだろう。ローレンスが手を差し出し、令嬢がそれを取った。
何もおかしくない。
夜会なのだから、夫婦以外の相手と踊ることもある。私だって結婚前には、何人もの男性と踊った。
そう分かっているのに、ローレンスの手が令嬢の腰へ添えられた瞬間、そこから目が離せなくなった。
つい先ほどまで、私の腰にあった手だ。
令嬢がローレンスを見上げて何かを話し、ローレンスが穏やかに笑う。
嫌だ。
そう思ったことに、自分でも驚いた。
ローレンスが誰と踊ろうと、何も問題はない。以前なら、本当に何とも思わなかったはずだ。それなのに今は、ほかの女性へ触れていることも、その相手へ笑いかけていることも面白くない。
「どうかなさいました?」
隣にいた夫人から声をかけられ、私はようやく広間から目を逸らした。
「いいえ。少し考え事を」
そう答えて会話へ戻る。
もう一度ローレンスのほうを見る気にはなれなかった。
◇
「アメリア様」
しばらくして声をかけられた。
振り返ると、以前にも何度か顔を合わせたことのある若い男性が立っている。領内に土地を持つ家の子息で、父親や兄が公爵家と取引をしていた。
「お久しぶりです」
「ご無沙汰しております」
挨拶を交わしたあと、先日公爵領から届いた葡萄酒の話になった。
「今年のものですか?」
「ええ。父が随分気に入っておりまして」
「それは嬉しいですね。今年は葡萄の出来がよかったと聞いています」
「昨年より香りが強かったように思います」
そこから収穫の話になり、やがて輸送に使う街道へと話題が移った。
「北の街道をお使いなら、秋までに橋の補修が終わる予定です」
「それは助かります。あの橋を避けると随分遠回りになりますから」
「雨季の前には終えると聞いています」
「随分お詳しいのですね」
「私の領地ですから」
そう答えると、男性が笑った。
「以前お会いした頃とは、少し印象が変わりました」
「そうです?」
「ええ。あの頃は本のお話をしていた記憶のほうが強いので」
「それは随分前でしょう?」
「私には、つい最近のようですが」
「では、あなたの時間は止まっているのかもしれませんね」
「それは困りました」
男性が笑い、私もつられて笑う。
「こちらにいらしたのですね」
すぐ近くから聞き慣れた声がした。
振り返ると、ローレンスが立っている。
「おかえりなさい」
「ええ」
「公爵領の街道についてお話ししていたのです」
「そうですか」
ローレンスは男性へ向き直り、いつも通り穏やかに挨拶した。
言葉も表情も普段と変わらない。けれど、ごく自然に私のすぐ隣へ立ち、肩が触れそうな距離に収まったと思った次の瞬間、背中へ手まで添えられた。
近い。
思わず横を見ると、本人は何事もなかったように男性と話していた。
「秋頃には一度、領地へ伺うことになると思います」
「その際は、ぜひ私にもお声がけください」
「ええ。もちろん」
男性が一礼し、別の客のもとへ向かっていく。
その姿が離れてからも、ローレンスの手は背中に残ったままだった。
「……ローレンス」
「はい?」
「手」
「手?」
「ここです」
言うと、ローレンスはようやく自分の手へ目をやった。
「ああ」
「離れないのです?」
「嫌ですか?」
「……嫌ではありませんけれど」
「では、このままで」
あまりにも当然のように言われて、返す言葉に困った。
ローレンスの顔を見る。
いつもと変わらないように見えるけれど、先ほどまでより少しだけ口数が少ない。
「あの方がお嫌いなのです?」
「いいえ」
「では、どうしてそんなに近いのです?」
ローレンスは答えない。
「さっきから少し変です」
「そうですか?」
とぼけるように返しながら、背中へ添えた手をほんの少し動かした。
むしろ先ほどより近くなり、肩が触れる。
「……本当に近いですよ」
「そうですね」
「認めるだけなのですね」
「離れたほうが?」
尋ねられて、私は少し迷った。
「……嫌ではありません」
「なら」
ローレンスの手はそのままだった。
もしかして、私が別の男性と話していたことが面白くなかったのだろうか。
一瞬そんな考えが浮かんだけれど、ローレンスには今でも好きな女性がいる。まさか、そんなはずはない。
そう思ったところで、先ほどローレンスと踊っていた令嬢が視界に入った。胸の奥に残っていたものが、また顔を出す。
「ローレンスは楽しそうでしたね」
「私が?」
「先ほど」
「先ほど?」
「踊っていたでしょう」
ローレンスがこちらを見る。
「見ていたのですか?」
「……見えただけです」
一瞬だけ、ローレンスの目が見開かれた。
「そうですか」
平静を装った声だったけれど、口元は隠しきれずに緩んでいる。
「何です?」
「いえ」
「嬉しそうですね」
「そう見えます?」
「ええ」
「それなら、気のせいでしょう」
絶対に違う。
「随分楽しそうにお話ししていましたね」
「彼女と?」
「ええ」
ローレンスは一度瞬きをしてから、すぐに言った。
「初めてお話しした方ですよ」
「……そうなのです?」
「ええ。今夜初めてお名前を伺いました」
そこまで聞いていない。
「別に、どなたでも構いませんけれど」
「そうですか」
「夜会なのですから」
「ええ」
ローレンスは穏やかに答えている。けれど、背中から手は離れない。
やはり、よく分からない。
そのとき、楽団が次の曲の準備を始めた。
広間へ目を向けると、先ほどの令嬢もまだいる。
ローレンスがまた誰かと踊るかもしれない。
それは嫌だった。
なら、私が誘えばいい。
「ローレンス」
「はい?」
「もう一曲、踊りません?」
ローレンスが一瞬だけ目を見開いた。
「私と?」
「ほかに誰がいるのです?」
返事はすぐには返ってこなかった。
ローレンスは私を見たまま、ほんの少し唇を開き、それでも何も言わない。やがて堪えるように一度目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……ローレンス?」
「すみません。嬉しくて」
差し出された手を取ると、ローレンスの指がいつもより少し強く私の手を包んだ。
「喜んで」
◇
二度目に広間へ出る。
今度は、夫婦だから踊るのではない。
私がローレンスと踊りたくて、自分から誘った。
そう思うと、一曲目より緊張した。
ローレンスの手が腰へ添えられ、身体が近づく。
「離れなくてもいいのです?」
小さな声で尋ねられた。
一曲目のことを言っているのだろう。
「……ええ」
答えると、ローレンスの動きが一瞬止まった。
それから、腰へ添えられた手にほんのわずか力が入る。
音楽が始まった。
「今度は見てくださるのですね」
「見ないと、また何か言うでしょう?」
「言うでしょうね」
「面倒な人」
「昔から知っていたでしょう?」
「そうでした」
思わず笑う。
ローレンスも笑った。
今度は目を逸らさなかった。
すると今度は、こちらを見つめ続けるローレンスの視線が気になってくる。
「ローレンスこそ、見すぎでは?」
「そうですか?」
「ええ」
「では、どこを見れば?」
「ほかにもあるでしょう」
「今はあなたを見ていたいので」
心臓が跳ねた。
ローレンスは何でもないことのように言う。
思わず目を逸らしかけて、やめた。
この人に見てほしいと思って、今夜のドレスを選んだのだ。
なら、今さら逃げるのもおかしい。
曲が終わるまで、今度はどちらも目を逸らさなかった。
◇
二曲目を終えたあと、ローレンスが小さく声をかけた。
「少し外へ出ませんか」
「庭へ?」
「ええ」
大広間から続く扉を抜ける。
夜の庭にはところどころに灯りが置かれ、昼間とは違う静けさがあった。広間から流れてくる音楽も、石造りの露台まで出ると少し遠く聞こえる。
夜風が頬を撫でた。
「涼しいですね」
「ええ」
自分から誘ったローレンスは、それきり何も言わない。
「どうしました?」
「……少し、落ち着こうかと」
「何を?」
「いろいろと」
また曖昧な答えだった。
「また濁すのですね」
「すみません」
「最近、そればかりです」
思わず言うと、ローレンスがこちらを見る。
「言いかけて、何でもないと言うでしょう」
「……そうですね」
「箱のことも」
ローレンスの表情がわずかに変わった。
「先ほども」
「先ほど?」
「私があの方と話していたときです」
今度は何も返ってこない。
「どうしてあんなに近くにいたのです?」
「夫婦なのですから、おかしくはないでしょう」
「それはそうですけれど」
もっともらしい答えだった。
でも、納得できない。
今夜だけではない。湖から帰って以来、ローレンスのほうから手を取ることも増えた。私が離れれば近づいてくる。
それなのに、肝心なところでは何も言わない。
「ローレンスは、私のことをどう思っているのです?」
ローレンスの表情が止まった。
広間から聞こえてくる音楽だけが、途切れずに続いている。
しばらくして、ローレンスは私から視線を外した。手すりの向こうへ目を向けたまま、小さく息を吐く。
「大切ですよ」
「妻だから?」
今度はすぐには答えなかった。
ローレンスの指が、手すりの縁を一度だけ強く握る。
「……それだけなら、もっと楽だったでしょうね」
私はローレンスを見つめた。
少なくとも、妻だからという理由だけではないように聞こえた。
胸の奥がまた騒ぎ始めたけれど、それが恋愛感情だとは限らない。幼い頃から知っている相手で、今は同じ家を支える伴侶なのだから、義務以上の情があっても不思議ではない。
そう思おうとした。
「どういう意味です?」
「今は、それ以上言えません」
「またですか」
「すみません」
「ずるいですね」
「自覚はあります」
少し腹が立つ。それでも、それ以上に気になった。
妻だからというだけなら、もっと楽だった。それなら、ローレンスにとって私は何なのだろう。
今でも好きな人がいるはずなのに。
「ローレンス」
「はい」
もう一度聞こうとしたけれど、その前にローレンスの手が動いた。
私の頬へ向かって伸びてきた手は、触れる直前で止まる。
指先がわずかに揺れた。触れることをためらっているようだった。
それでも引っ込めることはなく、ローレンスはただ私を見ていた。
その視線の意味に気づいて、心臓が大きく鳴る。
ローレンスと口づけたことがないわけではない。結婚式の日、誓いを交わしたあと、大勢の前で一度だけ、ごく短く唇を重ねた。
あのときは何も考えなかった。儀式の一つだったし、夫婦になったのだからそうするものなのだと思っていた。
けれど、今は違う。
ここには誰もいないし、決められた手順でもない。ローレンスは自分から私に触れようとして、それでも頬へ伸ばした手を止めている。
私がどうするのかを待っているのだと分かった。
逃げようとは思わなかった。むしろ、その手に触れてほしかった。
私はほんの少しだけ顔を上げる。
ローレンスの目が揺れた。
それから、止まっていた手がゆっくりと頬に触れる。指先は、思っていたよりずっと慎重だった。
少しずつ顔が近づき、唇が重なった。
結婚式のときとは、まるで違った。
ほんのわずかな時間のあと、唇が離れる。ローレンスはすぐに身体まで離そうとし、頬に触れていた手からも力が抜けた。
「……すみません」
「どうして謝るのです?」
「少し、余裕がなくなっていました」
意外な言葉だった。口づけは短く、触れ方も慎重で、少なくとも私には余裕を失っていたようには見えなかった。
「でも、すぐに離れたでしょう?」
ローレンスは答えるまでに、ほんの少し間を置いた。
「だからです」
「……?」
意味が分からず見つめると、ローレンスは一度目を伏せた。
「……いえ。何でもありません」
小さく息を吐いたローレンスは、いつもの笑みを浮かべようとした。
けれど、うまくいっていない。
視線が一度だけ私の唇へ落ち、すぐに逸らされた。
その様子を見ているうちに、胸の奥が妙に熱くなる。
ローレンスは、私に触れたかったのだ。そう思った途端、先ほどとはまた違う意味で胸が騒いだ。
それなのに、もう終わってしまったことが、少しだけ物足りなく感じる。
もう少し触れていてほしかった。
「……もう終わりです?」
口にしてから、自分が何を言ったのか理解した。
ローレンスも動きを止めた。
目を見開いたまま、しばらく私を見つめている。いつもなら何かしら返ってくるはずなのに、今度ばかりは言葉が出てこないらしい。
「……今のは忘れてください」
急に恥ずかしくなって、両手で顔を覆った。
「無理です」
「え?」
「忘れられません」
ローレンスの声が、先ほどより低い。
顔を上げられずにいると、手首へそっと指が触れた。
「アメリア」
名前を呼ばれて、恐る恐る手を下ろす。その手をローレンスに取られ、顔を隠すものがなくなった。
すぐ近くで目が合う。
先ほどまで浮かべようとしていた笑みは、もうどこにもなかった。
それでもローレンスはすぐには触れてこなかった。私が離れないことを確かめてから、もう片方の手を頬へ添える。
二度目の口づけは、一度目より長かった。
今度は私も目を閉じた。
頬に触れていた手が耳の後ろへ移り、もう片方の手が腰へ添えられる。それでも、触れ方は慎重だった。
やがてローレンスのほうから唇を離す。
額が触れそうな距離で、小さく息を吐いた。
「……これ以上は、戻れなくなりそうです」
「広間へ?」
尋ねると、ローレンスが目を閉じた。
「そういうところですよ」
「何がです?」
「いえ」
また濁された。
けれど、今は追及する余裕がなかった。
私だって、すぐに広間へ戻って何事もなかったように客と話せる気がしない。
ローレンスが私の手を取る。
「少ししてから戻りましょうか」
「……ええ」
しばらく二人で夜風に当たった。
やがて広間へ戻る。
つないだ手は、扉の前まで離れなかった。
◇
夜会を終えて部屋へ戻ってからも、なかなか眠る気にはなれなかった。
鏡台の前に座り、侍女に髪を解いてもらう。
鏡の中に映る自分は、夜会へ向かう前と何も変わらない。
同じドレスを着て、同じ顔をしている。
それなのに、今夜起きたことを思い返すだけで、また頬が熱くなった。
ローレンスがほかの女性と踊っているのが嫌で、自分からもう一曲誘った。見つめられるのが恥ずかしかったのに、目を逸らしたくなかった。
口づけられたときには、もう一度してほしいと思った。それだけではなく、ローレンスが私を大切だと言ってくれたことも嬉しかった。
『……それだけなら、もっと楽だったでしょうね』
あの言葉が、ずっと頭から離れない。
ローレンスには今でも好きな人がいる。
それは変わらない。
木箱の中身だって分からないし、その人をどれほど長く想っているのかも知らない。
それでも今夜、期待してしまった。
私のことも、妻だからというだけで大切にしているわけではないのではないか。
いつか本当に、私を好きになってくれるのではないか。
けれど、そこまで考えたところで気づく。
もう「いつか」では足りない。
最初は、時間をかけて振り向いてもらえればいいと思っていた。今でも好きな人がいるのなら、少しずつこちらを見てもらえれば、それで十分だと。
けれど、ほかの女性と踊るローレンスを見たとき、私は嫌だと思った。
あの人ではなく、私を見てほしい。
好きだと答える相手が、私であってほしい。
鏡の中の自分を見つめる。
いつから、こんなに欲張りになったのだろう。
それでも、もう誤魔化せない。
ローレンスの一番になりたい。




