師団長の奥様が女神だった話 後編
鍛錬場には、ラザロス様の隊と他、二つの小隊が集められている。ざっと六十名というところだろうか。
今日、これから簡易試合で使用する特別鍛錬場は楕円形のグラウンドを石造りの壁が囲んでいて、壁の上の一部は観覧席が設けられていて試合をここで行う場合もある。
綺麗に整列した彼らの前、台の上に立つ我らが師団長は、全体を見回し満足げに頷いた。
昼食を終えた昼下がり、今日は穏やかな秋の日差しが心地よく風もないので過ごしやすい。
「今日は、これから通常鍛錬の一環でもある簡易試合を行う訳だが、通常ではないことが一つだけある。私の愛しい妻と可愛い義弟が見学に来ているからだ」
師団長が後ろを振り返れば、観覧席に一斉に視線が向けられる。
観覧席に降り立った女神・リリアーナ様を一目見ようと誰も瞬きしないのがちょっと怖い。師団長が手を振るとリリアーナ様とセドリック様が手を振り返してくれて、何故か騎士が全員、手を振った。まあ、俺も振ったんだけど。
リリアーナ様の左隣にはエルサさんがいて、右隣にはセドリック様がいる。セドリック様の隣にはアリアナちゃんがいて、護衛に駆り出された女性騎士数名が背後と左右、前の席に二人ずつ配置されていた。男性を絶対に選ばない所に師団長の独占欲を見た。
「あの人が師団長の?」
「噂に聞いてたけど、離れてても美人って分かるな」
「ひぇ、すげー」
そんなささやきが聞こえて来て、師団長は心なしか得意げだ。団長の後ろに控えるフレデリック様はあきれ顔だ。
「そんな訳で、お前たちにこれから重要な話をする」
急に真顔になった師団長に騎士たちがすっと背筋を伸ばす。
何を言われるんだろうと俺たちは身構える。
「見ての通り、美しい私の妻だが彼女は私が知る人間の中で、最も心優しく慈愛に満ち溢れている。とても繊細で可憐で愛おしい女性だ」
いきなり始まった惚気に騎士たちが顔を見合わせる。
「そこで今日は流血沙汰は一切禁止だ」
「へ?」
誰かの間抜けな声が妙に響いた。
「怪我も禁止だ。私のリリアーナが心を痛めるからな」
「で、ですがこれから簡易試合をするんですよね?」
ラザロス様が首を傾げながら問う。
簡易試合とはその名の通り、公式なものではなく鍛錬の一環で行うちょっとした試合のことだ。ルールや形式は主催に応じて変更され、今日は、三つの小隊が集められているので三チームに分かれて、手のひらほどの素焼きの小さな皿を布で胸に括り付け、それを割られた者は負け、最後まで残った者が多いチームが勝ちという試合を予定している。俺たち師団長付きの事務官は、丁度三人いるのでそれぞれのチームで不正がないかの審判なので今日は試合には出ない。とはいえ、普段は鍛錬にだってきちんと参加しているのであしからず。
「ああ。セドリックが格好いい義兄上が見たいと言うからな。私も愛しいリリアーナに格好いいところを見せたい」
師団長が真顔で返した。
どちらかと言えば書類仕事より体を動かすほうが好きな方とはいえ、ただの鍛錬ではなく試合という点は不思議だったのだが、どうやらただただ奥様と弟君に格好いい姿を見せたいが為だけの催しらしい。寧ろ、欲望しかないのは気のせいだろうか。
「怪我なんてしたら私の愛しいリリアーナが心を痛めて泣く。それに私のリリアーナは、荒事は苦手だから流血沙汰など目にすれば卒倒しかねない。よって、今日は流血及び怪我は禁止だ。見るからに痛い体術も傷を隠せない顔への攻撃も禁止、この模擬剣一本で潔く勝負を決めろ」
木製の模擬剣を手に師団長は理不尽に宣言した。
未だかつてこんな観客優先のルールの試合が行われたことがあっただろうか。
「そしてチーム分けだが、自分で言うのも難だが私は強い。だからお前たちのどこのチームに入っても不公平になるので、私は一人でお前たちに挑む。手加減は不要だ。私も怪我こそさせないが、一切、手加減はしない。愛しのリリアーナに格好悪い姿だけは見せたくないからな」
全員の顔が見事に引き攣った。
俺たち師団長付き事務官はお互い顔を見合せ、諦めの微笑みを浮かべて仲間たちに向かって頷いて見せた。
「私の皿を割ったやつには、私の財布から特別にボーナスを出してやろう」
その一言に爛々と輝いた騎士たちの目がしかし師団長の獲物を狩る獅子の目を見て一瞬で死んだ魚の目になる。
ピーマンが苦手という子供みたいな弱点を持つ師団長は、普段から子どもっぽい面をお持ちなのだが、やっぱり英雄の名は伊達ではないのだと久々に実感する。最近、リリアーナ様とセドリック様にデレデレの師団長ばかり見ていたのでちょっと忘れかけていた。
多分、この顔は絶対にリリア―ナ様たちには見せない顔なのだろうなぁ、と俺は自分が審判であることに感謝しながら納得した。
「では、怪我の予防のためにも準備体操はしっかりな」
そう締めくくって、師団長は台から降りて、わき目も振らず奥様の下に向かった。
俺とキースさん、ミケロさんは、素焼きの皿とそれを括り付ける白い布、赤、青、緑のハチマキをそれぞれの隊に配っていく。師団長はどうしようかと悩み、黒いハチマキがあったのでそれを使ってもらうことにした。それらを受け取った騎士たちは、柔軟体操を始めて軽く打ち合いをして体の筋肉をほぐす。
「レックス、師団長に届けて来て下さい」
「分かりました」
師団長の分の皿とハチマキを受け取り、観客席へと向かう。護衛の女性騎士たちは、全員、外側を向いていて師団長たちに背を向けている。護衛なのだからそれは当たり前の光景なのだが、何故か全員、目が死んで遠くを見つめている。
どうしたんだろ、と俺はこの時、特に何も考えずに師団長の元へ行き、その理由を瞬時に悟る。
「ウィリアム様、頑張ってくださいね」
「ああ、私の愛しい女神様が見ていてくれるんだから、頑張るよ」
「義兄上、義兄上、僕も応援頑張ります!」
「そうか、ならなおさら負けられないな」
師団長は右膝に奥様、左ひざにセドリック様を乗せて盛大にイチャイチャしていた。
師団長は端正な顔立ちに、砂糖を煮溶かし蜂蜜を加えて煮詰めたような甘い笑みを乗せていて、リリアーナ様を見つめる眼差しも声も全てが愛おしいと盛大に惚気ている。セドリック様に向けられる笑顔や声はまだ父親が子供に向ける愛情なので微笑ましいが、リリアーナ様へ向けられるそれは独身には辛いものがある。護衛に立っている女性騎士も確か全員、独身だ。
「旦那様、レックス様が」
エルサさんに声を掛けられて師団長が顔を上げる。
「何だ?」
「あの、ハチマキとお皿を届けに参りました」
「ああ、それか。ありがとう」
師団長が、ほら、と声を掛ければセドリック様が嬉しそうに手を伸ばす。その小さな手に皿とハチマキを渡す。セドリック様はハチマキをリリアーナ様に渡すと皿の真ん中に空いている穴に布を入れて、師団長に言われたとおり左胸に当てる。残りはエルサさんが後ろでぎゅうと縛り上げて固定した。
「このお皿を割られた人が負けて、最後まで残ったら勝ちなんですよね?」
「流石、私の可愛いセディ。よく覚えていたな、その通りだ」
師団長に褒められたセドリック様は、えへへと嬉しそうに笑った。可愛い、本当に可愛い。
「ウィリアム様、このハチマキはなんですか?」
リリアーナ様がきょとんと首を傾げる。
「チーム戦だからな、一目で仲間と分かるように色分けしているんだ。今日は、赤、青、黄色だ。私は、私一人で戦うから特別に黒だ」
「義兄上、一人なのですか? あんなにいっぱいいるのに……」
途端にセドリック様が心配そうに師団長を見上げた。
師団長は、大丈夫、と自信たっぷりに笑って頷いて返した。
「そうですよ、セドリック様。旦那様はとてもお強いのですから」
エルサさんが言うとセドリック様は、心配そうにしながらも「うん」と頷きました。
「ウィリアム様がお強いのは知っていますが、無茶だけはなさらないで下さいね」
「もちろん。安心して見ていてくれ。さあ、リリアーナ、ハチマキを巻いてくれないか?」
師団長はリリアーナ様を抱き寄せて、瞼にキスを落とすとそうねだる。甘ったるい笑みにリリアーナ様は白い頬を淡く染めて「お外ですのに」と形だけ師団長を窘めた。もう俺の喉元まで砂と砂糖がせり上がって来てる。
リリアーナ様とセドリック様を膝から降ろすと師団長はリリアーナ様の足元に傅き、愛おしそうに妻を見上げ、リリアーナ様も同じように見つめ返す。
リリアーナ様は、ハチマキを両手で持つと徐にそれにキスを落とした。黒いハチマキにほんの僅かに彼女の淡いピンク色の口紅がうつった。
「……ウィリアム様が勝てますように」
そう告げて淡く頬を染めながら微笑んだリリアーナ様は、息をするのも忘れるほど綺麗で、本当に女神のように美しかった。
白く細い手が師団長の額にハチマキを巻く。きゅっと結ばれた瞬間、師団長の表情が甘いものから騎士のものへと変わる。凛々しく勇ましいその横顔は、まさしく女神の祝福を受けるに相応しい英雄のものだった。思わず俺は背筋を伸ばす。
師団長は、リリアーナ様の手を取り、甲に唇をそっと落とし、彼女を見上げる。リリアーナ様は真っ赤になって困っておられる姿が凄く可憐だ。
「私の愛する月の女神様に必ずや勝利をお約束します」
そう告げる師団長は、男の俺から見ても格好いいとしか言いようがなくて、リリアーナ様は真っ赤になりながらも「約束ですよ」と微笑んでいて、セドリック様は憧れの眼差しを師団長に向けていた。
師団長は、真っ赤なリリアーナ様にくすくすと笑いながら立ち上がり、彼女の頬とセドリック様の額にキスをすると「行ってくる」と告げて俺のほうにやって来た。
行くぞ、と言われて俺は慌ててその頼もしい背について行き、階段を降りる。
そして、リリアーナ様たちから丁度死角になっていて見えない壁際へ来ると、はぁぁあと唸るように息を吐きだして両手で顔を覆った。
「し、師団長!?」
「私の奥さんが今日もあんなに可愛くて綺麗で愛しい……っ」
噛み締めるように吐き出された言葉に俺は頬を引き攣らせる。
「そもそも最近はリリアーナへの愛しさが天井知らずで毎日毎日、愛しさの新発見をしている訳だが、あああああ、もう、可愛いっ。愛してるっ」
「……ソウデスカ」
俺は辛うじて返事をすることに成功した。
師団長はそれから暫く柔軟体操をしながらリリアーナ様とセドリック様について惚気て下さったが、深呼吸をして心を整え、ゆっくりと顔を上げた。
その顔に俺は足が震えそうになったのを咄嗟に誤魔化しながら背筋を伸ばして気をつけをする。
「さあ、さっさと試合を始めよう。愛しい女神様に勝利を捧げなければならないからな」
腹を空かせた獣のように獰猛に嗤って、師団長はいつの間にか傍に控えていたフレデリック様に腰に下げていた剣を渡し、模擬剣を受け取る。
そして、フレデリック様の集合を呼びかける笛の鋭い音が鳴り響き、師団長はくるりと背を向け颯爽と歩き出す。たったそれだけで騎士たちの表情が緊張と微かな恐怖に強張り、空気が一瞬で張りつめる。
六十対一、圧倒的に不利な立場の筈なのに、その大きな背にはこれっぽっちも恐れがない。あるのは、勝利への凄まじいまでの執念だ。
「レックス様、さあ、審判台へ。試合が始まりませんよ」
フレデリック様の声に俺は、はっと我に返る。振り返れば、つかみどころのない微笑みを湛えてフレデリック様は審判台を手で示していた。
「は、はい」
俺は、何だか力が入らないような気がする足を叱咤して、鍛錬場の四方に設置された審判台へと走りよじ登る。他の三つの台にもキースさん、ミケロさん、そして、フレデリック様が最後に上る。
「制限時間、三十分! 用意、始め!!」
ピィィィィ――っと高らかに笛の音が鳴り響いて、一気に喧騒が巻き起こった。
結果なんて言わなくても分かっていると思うけど、師団長が圧勝した。最終的に師団長以外に皿を残せたものはいなかった。
「リリアーナ! セディ! 勝ったぞ!!」
屍累々といった鍛錬場を振り返ることもなく、師団長はまるで褒めて欲しいとねだる子犬のような無邪気さで嬉しそうに観客席へと駆けあがって行った。
ほんの数分前まで、獅子の如き勇猛さで壮烈な剣技を駆使し騎士たちの皿を次から次に仕留めた凛とした姿がまるで幻だったかのようだ。
「俺たちだって、俺たちだってアルフォンス副長がいればっ」
手も足も出なかった地面に転がる騎士たちが悔しそうに呻く。
確かにいっそ師団長対アルフォンス副長率いるその他ならば、戦況は違っただろうが、生憎とアルフォンス副長は王城で王太子のお仕事中だ。
だが、アルフォンス副長の護衛であるカドック様は師団長のチームになりそうだ。何故なら彼は師団長の惚気を延々と聞き続けられるほど、リリアーナ様とセドリック様が大好きなのだ。もはやあれは恋愛とかそういう類ではなく、本当に信仰という言葉が相応しい。だが、実物を目にした今は、その信仰したくなる気持ちも分かる。何故なら師団長の奥様は女神だから。
「ほら、皆さん、起きて下さい。侯爵夫人がいらっしゃいますよ」
キースさんが声を掛けると屍たちが慌てて生き返り、立ち上がって整列する。
師団長がリリアーナ様に腕を貸し、ゆっくりとこちらにやってきた。セドリック様はエルサさんとアリアナちゃんと手を繋いで降りて来て、その後ろには護衛をしている女性騎士たちがついて来る。
近くで見るリリアーナ様のお美しさに騎士たちがたじろいでいる。
貴族のご令嬢はお美しい方が多いし、ここに並ぶ騎士たちだって貴族出身の者もいるしそうでなくとも護衛でお姿を見ることはあるが、リリアーナ様は別格だ。スタイルもそのお顔立ちも確かに美しいが、その雰囲気というか身に纏う空気がとても清らかで綺麗なのだ。
お二人は、皆の前にやって来るとセドリック様を呼んだ。師団長が良く見えるようにとセドリック様を片腕で抱き上げる。
「さあ、セディ」
リリアーナ様に優しく促されて、セドリック様が少々緊張した面持ちで口を開く。
「とっても格好良かったです! 見学させてくださって、ありがとうございました! お姉様たちも護衛をありがとうございました!」
にこぉっと無邪気な笑顔と共にセドリック様がお礼を言ってくれる。
騎士たちが、うっと呻いて胸を押さえた。我が子でも思い出したのか、既婚の騎士たちが「帰りてえ」と呟く声がちらほら聞こえた。ただ俺のすぐ近くに立っていたジョゼフ騎士(48)は「最近、娘(16)なんてパパ臭いしか言わないのにっ」と泣いていた。多分、セドリック様の可愛らしさに在りし日の「パパ大好き!」と笑ってくれていた娘さんを思い出してしまったのだろう。
ちゃんと言えて偉いぞ、と師団長に褒められて、上手に言えましたねとリリアーナ様に褒められてセドリック様は照れくさそうにはにかんでいる。
俺もあんな家庭が築きたい。もう本当、結婚してぇ。
「皆さま、本当に今日はありがとうございました。こうした皆様の弛まぬ努力がクレアシオン王国の平和を守っていてくださっているのだと改めて実感いたしました」
リリアーナ様の凛と澄んだ声が柔らかに言葉を紡ぐ。
「そして、皆様の剣、一本一本が私の旦那様を支えて下さっているのですね。今日は本当にお勉強になりました。ありがとうございました」
ふわり、と花開くように微笑んだリリアーナ様に思わず見とれてしまう。
スカートの裾を摘まみ、優雅に礼をしたリリアーナ様に騎士たちが一斉に騎士の礼を取った。もちろん俺も胸に手を当て頭を下げる。
しっかり数秒、頭を下げた後、体を起せばリリアーナ様はぱちぱちと長い睫毛を瞬かせていた。師団長は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めるとセドリック様を降ろして、俺たちを見回す。
「私の愛しい女神様の有難いお言葉を頂いたんだから……日々の鍛錬に、業務によくよく励め。片づけをしたあと、通常業務に戻れ。以上だ」
明らかに「私の愛しいリリアーナを邪な目で見た奴は殺す」と目で脅しながら師団長は笑顔で言い切った。リリアーナ様が「お外で女神は恥ずかしいからやめてくださいまし」と本当に恥ずかしそうに抗議しているが、師団長は聞く耳を持つ気はなさそうだ。
「さあ、リリアーナ、セディ、部屋に戻ろう。急いで仕事を終わらせるから、一緒に帰ろう」
そして師団長は、俺たちの目から隠すようにリリアーナ様の腰を抱くとセドリック様の手を引き、エルサさんとアリアナちゃんを連れさっさと執務室に戻っていく。簡易試合の片づけは敗者がすることになっているので、つまりここにいる俺たち事務官以外全員なので俺たちは仕事を終わらせたい師団長を追いかける。
部屋に戻った師団長は、「私は紳士で大人だ」と自分に言い聞かせ(ている時点で大人ではないと思うが)奥様を膝に乗せて仕事をしたいのをぐっと我慢して、その代わり自分の目の届くところにソファを移動させてリリアーナ様の様子をことあるごとに眺めながら仕事を片付け、リリアーナ様はそんな夫の視線にくすぐったそうに微笑みで応えながら刺繍を嗜んでおられた。セドリック様はフレデリック様とエルサさんと共に騎士団の見学に行っていて留守である分、師団長室は砂糖を煮詰め、黒糖を加えて、更に蜂蜜とチョコレートまで溶かし込んだような甘さに包み込まれ、俺たち事務官の肩身が狭かったのは言うまでもない話だ。
そしてこの日を境にウィリアム・ルーサーフォード師団長は、女神を手に入れた英雄と騎士たちの間で尊敬と羨望と妬みを込めて言われるようになったのも、言うまでもない話だった。
おわり