シグナス・ルミナス ブルー ヴァリアブル Append 北海道の夏休み(前編)
藍色の重苦しい雲に覆われた空と、緑色の瑞々しい夏草が風になびく草原を、赤色の輝く帯がくっきりと分断している。
『麦秋鮮烈』と名付けられたその風景写真は、美瑛の丘に広がる、麦秋を迎えた赤麦の畑を写したものだった。
フォトギャラリー『拓真館』に飾られたその写真に、一組の父娘が見入っていた。
「ねえ、まるで……」
父親に手を引かれた女の子が、きらきらと輝く大きな瞳をまっすぐその写真に向けている。
「絵本のなかの景色みたい」
無邪気な娘の声に、父親は頬を緩める。
「そうだね。ほんとうに絵画のような色彩の奔流だ。気に入ったかい」
女の子は、うんと言って、大きくうなずいた。
「あたしもいつか、こんな写真……」
繋いだ父親の手を、女の子はぎゅっと握った。
「撮りたいな」
***
インディペンデンス・ディが終わって間もないころ、春日綾乃はジャーナリズム・スクールの指導教官であるジョセフ・クロンカイトから呼び出しを受けた。
研究室に出向いた綾乃に、ジョセフは一枚のパンフレットを差し出した。それは、北海道の日高地方でサラブレッドを育てている相川厩舎という牧場で、短期のアルバイトを募集するという内容のものだった。
「課題ですか」
問いかけた綾乃に、ジョセフは軽くかぶりを振った。
「本学のフォールセメスター(秋学期)にはすこし遅れることになるが、それでも君にとって赴く価値があるイベントだと思ってね。行くのなら、特別にペナルティなしで十日間の休暇を認めよう」
綾乃が天体物理学を学んでいるコロンビア大学の本学は、六月から長い夏休みに入っていたが、報道関係者を育成するための専門大学院であるジャーナリズム・スクールには、基本的に休講期間はなかった。土曜日と日曜日以外の休暇は欠席として扱われ、欠席が多ければ単位の取得に響いた。それを十日間も大目に見る、と指導教官は言っているのだ。
ジョセフのトレードマークであるメガネが光を反射して、その表情は読み取りにくかった。あいもかわらず言葉は少なく、説明不足だった。厳しいのか優しいのか、冷たいのかお節介なのか、いまだによくわからない男だ。
だが、ジョセフからの指示は、いつもなにがしかの収穫を与えてくれるものばかりだった。偶然だとしか考えられないが、今回もまた綾乃が悩んでいることに対して、ひとつの方向性を示唆していた。
今年の春、綾乃はかねてから狙っていた、前田真三賞という写真コンテストのクオリファイ(予選)に挑戦した。
前田真三賞は、風景写真を志す者ならばプロでもアマチュアでも参加することができる、新人写真家の登竜門とされているコンテストだ。門戸は広いが選考は厳しく、予選として十枚一組の組写真の出品が求められていた。
組写真といっても、ただ美しい写真を並べればいい、というわけではない。一貫したテーマを追って、撮影されたものでなければならなかった。
難関ではあるが、写真家としての綾乃にとっては、どうあってもとりたい賞だった。
綾乃は、コンテストへの挑戦を決めてから、半年をかけてマンハッタンの人々と風景を撮影し、十点を厳選して出品した。しかし、撮影技術は高い評価を得たが、テーマの評価が芳しくなく、結果は落選だった。
自分の写真に、なにが足りないのか。綾乃は、その答えを見つけられずにいた。
そんな折にジョセフから示された北海道という場所は、綾乃の心を激しく揺り動かした。
あの日あの場所から、すべては始まった。
プロカメラマンである父を追い抜き、いくつかのコンテストに入選した。しかし、どれほど多くの写真を撮っても、どれほど多くの人から褒められても、綾乃は満足できなかった。いつでも目を閉じれば、あの写真が鮮明に思い浮かぶのだ。
そう、あれからずっと走り続けてきた。あたしは、あの一枚にどれだけ近づけたのだろう。それを確かめたくなった。
「わかりました。では行ってきます。先生……」
綾乃の呼びかけに、ジョセフはすこしだけ顔を上げた。メガネの反射が消えて、その厳しくも深い眼差しが綾乃に向けられた。
「ありがとうございます」
綾乃の謝礼に、ジョセフは黙ってうなずいた。そして、その眼差しは再び光るメガネの奥に消えた。
**
ジョン・F・ケネディ国際空港から成田国際空港を経由して新千歳国際空港に降り立った綾乃は、ターミナルビルの地下に降りてJR北海道のホームに立った。
自動車の運転免許を持っていない綾乃が、浦河にある相川厩舎に行くには、日高本線の大部分が不通になっている今では、いったん札幌に出てから高速バスに乗るのが唯一の方法だった。
だが綾乃は、回り道になることを承知のうえで、旭川行のL特急スーパーカムイに乗り、富良野線に乗り継いで美瑛に向かった。
美瑛は、北海道のほぼ中央部、上川盆地と富良野盆地の間に広がる町だ。広大な丘陵に広がる牧草地や耕作地の風景が人気を呼び、年間百二十万人もの観光客が訪れる北海道を代表する観光地だ。訪れた人のなかには、その風景に惹かれて移住する人も少なくないという。
美瑛駅に着いた綾乃は、駅前のレンタルショップでスクーターを借りた。重い機材を持って広大な丘陵を巡るには、原動機が付いた乗り物は必須だった。
真夏とはいえ、北海道の空気は冷涼だった。風を切るというほどの速度ではなかったが、心地よい風を全身に受けながら、青空にスカイラインを描く丘の風景の中を駆けるのは、それだけで心が躍ることだった。ましてや、そこは綾乃にとって「聖地」だった。
「パッチワークの道」を走り、綾乃は「ケンとメリーの木」に近い駐車場にスクーターを停めた。美瑛の風景を撮れると思うと、綾乃の胸は高鳴った。
しかし、押し寄せる観光客が途切れた一瞬を狙って撮影する写真は、とてもではないが満足のいくものではなかった。被写体に応じた光線の差し込み具合なども、限られた時間で理想を求めることなどできなかった。
「ケンとメリーの木」だけでなく、タバコのパッケージに使われた「セブンスターの木」や「マイルドセブンの丘」も同じだった。
空しい気持ちを抱きながら緩やかな登り坂を走っていると、牧草地の外れに建つアーリーアメリカン調の農舎と小屋が見えてきた。
それは小さなベーカリーで、木の看板を掲げた駐車場には、乗用車が三台ほど停まっていた。
もうお昼はだいぶ過ぎていたから、お腹はすいている。ランチはパンにしようと思い、綾乃は砂利の駐車場にスクーターを停めた。
重いヘルメットを脱ぐと、髪を揺らす風が心地よかった。
白樺が植わった前庭を抜け、可愛らしい造りの木のドアを開けて店内に入る。それほど広くはない店だったが、大きく開いた窓からは、緩やかにうねる畑や牧草地が見渡せた。
木製のテーブル席には三組の客がいて、楽しそうに食事をしている。 レストランも兼ねているようで、ランチメニューも充実していた。時を忘れそうな雰囲気が気に入った綾乃は、窓際のカウンター席に座ってチーズフォンデュセットを注文した。
運ばれてきたチーズフォンデュは、天然酵母パンの器にたっぷりと溶けたチーズが入り、ソーセージとじゃがいものほかに、ニンジン、カリフラワー、カボチャ、ブロッコリーにパプリカなどの色鮮やかな温野菜が添えられていた。メインの他に、トマトとサニーレタスのサラダに、ポタージュのスープとアイスティーもセットされていた。
溶けたチーズをまとったソーセージや温野菜が、空腹を満たしていく。天然酵母パンも、もっちりとした食感がたまらなかった。そうとうなボリュームだったが、窓の外に広がる丘の景色が食欲を刺激し続け、気が付くときれいにたいらげていた。
食事でお腹が満たされると、落ち込んでいた気持ちも持ち直した。
あらためてメニューを見ると、店主のメッセージカードが添えてあった。そこには、美瑛の風景に惹かれて二十数年前に移住してきたことが、飾り気のない文章で記されていた。
席を立ち、相川厩舎に持っていくお土産用のパンを買い込んだあとで、綾乃は店内を撮影していいかとレジの女性店員に尋ねた。
女性店員が厨房に声をかけると、エプロンをかけた店主が出てきた。 メッセージの文面から受けた印象のとおり、素朴な印象のする四十台くらいの男性だった。
「素敵なお店ですね。風景にも、自然な感じで馴染んでいるし」
人気のある店のようだから、そんな言葉は何度も聞いているのだろうが、店主はほんとうに嬉しそうな笑みで答えた。
「ありがとうございます。まあ、こうなるまでには、それなりに時間はかかりましたがね……」
カラフルな外観の店が、風景に溶け込むようなたたずまいを得るまでには、相応の時間が必要だっただろう。しかし、店主の言葉には、それ以上の意味が込められているように感じた。
店主は、綾乃が持つフィルム式一眼レフカメラのオリンパスOM-1に目をやると、感心したように言った。
「これはまた、ずいぶんと年代物ですね。驚いたな。若いのに、こんな難しいカメラを使うんですね」
「フィルムカメラを使うのは、あたしのこだわりなんです。いつか、現像から焼き付けまで、自分の手でやりたいから。それでこそ本当に写真を撮ったと言えるんじゃないかと、思っているんです」
「こだわり、ですか。私も昔はバイクのメカニックをやっていましたし、今はこの美瑛の地にも、パンや料理にもこだわりがある。なるほど、よくわかりました。そういうことでしたら、どうぞお好きなだけ撮影してください」
店主は、客を被写体にしないことを条件に、店内の撮影を許可してくれた。
店内をひとわたり撮影したあと、礼を告げて店を出ようとした綾乃を、店主が引き止めた。
「白金の『青い池』が、この時期にしては珍しく良い色を出していると聞いています。知り合いの写真家の話なので、信用できますよ」
『青い池』は、その写真がスマートフォンやノートパソコンの画面を飾ったことで有名になった場所だ。美瑛からは少し離れた白金温泉の近くにあり、綾乃のスクーターなら小一時間はかかるはずだ。しかも『青い池』がほんとうに美しい色を見せるのは、季節、時刻、気象などの条件が揃ったときだけだ。だから綾乃は、今回の目的地からあえてそこを外していた。
だが、店主の言葉を聞いているうちに、行ってみたいという気持ちが強くなってきた。あるいはそのせいで、札幌からの高速バスに間に合わなくなるかもしれない。しかし、風景写真はチャンスを逃したら終わりだ。たとえ一分でも時間がとれるのなら、チャンスに賭けてみようと思った。
情報を提供してくれたことに、あらためて礼を告げて、綾乃は店を出た。地面に落ちる影はまだ短かかった。急げば、光線の具合のいいうちにたどり着けるだろう。
綾乃はスクーターに跨り、『青い池』までの地図を思い描いてからアクセルを開いた。
*
『青い池』は、綺麗なコバルトブルーの水をたたえていた。
OM-1で何枚かの写真を撮ったあと、綾乃はカメラをデジタル一眼レフのキャノンEOS Kiss Digitalに持ち替えた。
青い色が出やすいようにホワイトバランスを設定し、思いつくままにスナップ写真を撮っていく。
思っていたよりもいい写真が撮れた。無理をしたが来てよかったと思いながら、綾乃はまたシャッターを切った。
そのときだった。背後から、よく通る男性の声がした。
「そなたは何をしているのだ」
流暢な日本語だったが、その言葉づかいやイントネーションは、日本人とはすこしだけ違っていた。
振り向くと、そこには常識の存在を疑うような、二人の男が立っていた。一人は、オールバックになでつけた長い黒髪を後頭部でひとつ括りにした男で、いかにも意志の強そうな顔つきと体格の持ち主だった。もう一人は、ライトブラウンで自然なウェーブのかかった髪を肩口まで伸ばした男で、髪と同じブラウンの瞳が優美な印象を添えていた。どう見てもヨーロッパ系の人種の男たちだったが、なぜかその身にまとっているのは、アイヌの伝統的な衣装である白布切抜紋衣だった。
そのギャップに混乱した綾乃は、話しかけられたのが流暢な日本語だったということより、男たちが外国人だという現実を優先した。
「May I help you?」
英語で答えた綾乃に、こんどは男たちが驚いたような表情を浮かべた。
二人の奇矯な男たちと綾乃のすれ違いは、急ぎ足でやってきた日本人のカップルの仲立ちで解消した。
山口正志と白石千絵と名乗った二人は、爽やかという表現が似合うカップルだった。黒い短髪でオリーブのシャツと黒いカーゴパンツといういでたちの正志は、言動に優しさがにじみ出るような男性だったし、茶色がかったストレートヘアに、コットンのピンクのキャミソールと白いボレロを合わせ、紺のフレアスカートを履いた千絵は、品の良さと真面目さが同居したような印象の女性だった。
綾乃に声をかけてきた二人は、グランドロン王国から来た国王レオポルドと、フルーヴルーウー伯爵マクシミリアンであると名乗った。この二人は、その身なりや言動の奇抜さに加えて、カメラを知らなかったり天体物理学を占星術と混同したりするような、いささか時代遅れな知識と感覚の持ち主だった。正志の説明では、屈斜路湖畔の宿に同宿したことがきっかけで、四人は同行することになったらしい。国連加盟国にグランドロンという名の国家はないから、綾乃は正志たちに事情を聴きたくて目を向けたが、二人は曖昧な笑顔で肩をすくめるだけだった。おそらくは、どこかの王族か貴族がお忍びで旅行をしているのだろう。綾乃は、それ以上の追及はしないことにした。
お姉さん、と呼びたくなるような柔らかな雰囲気の千絵と話をするうちに、一行が綾乃と同じ相川厩舎へ行く予定だということがわかった。こんな場所で偶然にも、同じ目的地に向かう人々と出会うなんて、世間は広いようで狭いものだと綾乃は驚いた。
一行には、他にも同行者がいた。ミツルというナギという名前の中学生の兄弟で、ヒッチハイクをしながら相川厩舎をめざして、偶然通りかかった正志たちと同行することになったのだという。ミツルは、短髪で背が高くどこかしっかりした印象があり、ナギは、柔らかそうな明るい色の髪がふわりとした印象を与える少年だった。
レンタカーにはまだ空席があるので、一緒に乗っていかないか、という正志の誘いは、これから札幌に戻ってもバスに乗れそうもない綾乃にとっては、まさに渡りに船だった。綾乃は、迷うことなく、正志の好意に甘えることにした。
「ぜひ、お願いします」と答えた綾乃を見て、なぜかレオポルドとマックス、それにミツルが嬉しそうな表情を浮かべた。
美瑛駅前でスクーターを返却し、綾乃は正志の運転するミニバンの最後部座席の窓側に乗せてもらった。綾乃の隣、つまり中央には小柄なナギが座り、反対側の窓際にはミツルが座った。二列目に陣取った大の男二名と同席せよ、というレオポルドの誘いは、断るまでもなく物理的に不可能だった。
正志の運転は終始おだやかで、ミニバンの乗り心地もよかったせいか、ほどなくナギがゆらゆらと揺れ始めた。そして、綾乃の肩にその頭がふわりともたれかかってきた。
まだ出会ったばかりだというのに、無邪気に身体を預けて眠るナギを見ていると、もしあたしに弟がいたらこんなこともあったのかなと、綾乃は自分でも驚くほど優しい気持ちになった。そして、そんな気持ちになった自分がどうにも可笑しかった。
綾乃が漏らした含み笑いで、ナギが眠っていることに気づいたらしいミツルは、あわててナギを起こそうとした。綾乃が「このままにしておいてあげましょう」と制すると、ミツルはなぜか残念そうな表情を浮かべて、小声で「すみません」と告げた。
運転席の正志と助手席の千絵は、ことあるごとに優しい言葉を掛け合っている。お互いを思い合う心が、その会話の端々に感じられた。
綾乃はふと、高校まで一緒だった幼馴染のことを思い出した。いつまでも手をつないで歩いていけると思っていたのに、気が付いたらアイツとあたしとでは歩く速さが違ってしまっていた。そのこと自体に後悔はなかった。けれど……。
この速さで歩いているあたしは、もしかしたら、なにかを無くし続けているのかもしれない。
そんな疑問を、綾乃は漠然と感じ始めていた。
富良野盆地を抜けたミニバンは、国道二三七号線をひたすら南下していた。目的地の浦河は、遠くに見える日高山脈の彼方にある。今のスピードなら、到着するのはきっと日が暮れる頃になるだろう。




