ロンドンの休日 - フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス ep.1.1
「服を買いたいの……」
携帯電話から、エミリーの澄んだ声がした。
「ハロッズに案内して」
自宅に近いカフェで朝食をとっていたマイケルは、飲みかけのコーヒーカップをソーサーに置いた。
――たしか、今日の警護は午後からだったはずだ。
マイケルは、あらためて周囲を見回した。平日なら、通勤途上のビジネスマンやオフィスガールで賑わうこのオープンカフェだが、日曜の今朝はマイケルのほかには、東洋人の観光客らしい若い男女が数組見えるだけだった。
通常の警護任務中は、交代で休暇を取るのが原則だが、エミリー警護の任務は特殊な単独任務なので、マイケルはずっと休暇を取っていない。それは、任務のためだけでなく、自身が追い続けている連続猟奇殺人事件解決の糸口を見つけるためでもあるので、休暇がないことに対する不満はなかった。とはいえ、日曜日である今日の午前中には、どうしても行っておきたいところがあった。
「午後からでいいか?」
マイケルの返答に、携帯電話から不満げなエミリーの声がした。
「午前中に済ませたいから、すぐに行きましょう」
「今からって、おまえ、今日は日曜日だぞ」
「ええ、そうよ。それがどうかしたの」
当然でしょうとでも言いたげなエミリーの声に、マイケルは怪訝そうに眉を寄せる。腕時計を確認すると、午前九時だった。
「俺は、これからちょっと用事があるから、そのあとにしてくれないか。それに、ハロッズは、そこからすぐ近くのナイツブリッジにある。今ごろから行っても、まだ開店していないぞ」
「どういうことなの、それ。わたしが買い物をしたいときに店を開けていないなんて、そんなことだから、王室御用達から外され……」
おそらく、電話の向こうのエミリーは、細めた青と赤のオッドアイの端を上げていることだろう。また過激な発言を聴かされそうな気がして、マイケルは早めにエミリーの話の腰を折る。
「それなら、ハロッズで待ち合わせにしよう。たまには、自力で行ってみるのもいいんじゃないか。それとも、ひとりじゃ行けないか?」
くっ、と電話口のエミリーが言葉に詰る。
「い、行けるわよ。せっかくあなたにエスコートさせてあげようと思って、いやいや誘ったのに。なによ、その言い方」
いかにも不機嫌そうなエミリーに構わず、マイケルは話しをつける。
「なら、そうしよう。お昼ちょうどに、ハロッズのカフェ・フローリアンでいいか?」
「いいわ。あとで、お返しはしてもらうわよ」
ロンドンでも屈指の歴史と伝統を持ち、かつては王室御用達も務めたハロッズは、ナイツブリッジのブロンプトン・ロードに面して、ネオゴシック様式の宮殿を思わせる重厚で豪勢なたたずまいを見せていた。
その玄関先で、屋上から突き出したドームを見上げて、エミリーはほっとひとつ息をついた。
彼女が滞在しているドーチェスター・ホテルからここまでは、パークレンーンを南下してナイツブリッジに入れば、歩いて十分ちょっとというところだ。しかし、エミリーは、なぜかホテル・リッツやバッキンガム宮殿を再び観光することになった。約二時間に及んだ小さな冒険の末に、待ち合わせ時刻より前にここに来られたのは、じつのところ奇跡としか言いようがなかった。
炎天下に長時間の散歩をしたせいで、エミリーはほんのりと汗ばんでいた。
香水を持ってこなかったことを思い出したエミリーは、一階のコスメ売り場にある「フローリス」に立ち寄って「リリー・オブ・ザ・バレー」のオードトワレを買い、髪の先と手首に少し吹き付ける。ハンカチで手首を軽く押さえから離すと、夏向きの爽やかなスズランの香りに包まれた。
待ち合わせをしている「カフェ・フローリアン」は、三階にあった。ベネツィアのサンマルコ広場に本店があることでも有名なカフェで、買い物客と観光客で店内は混んでいた。
豪勢なフリルをあしらった白いアンダードレスの上に、クリーム色の生地に花柄とリボン飾りを配したジャンパースカートを重ね、レースのハイソックスとクリーム色のストラップシューズといういでたちのエミリーに、一瞬だけ目を丸くしたウエイトレスは、彼女を店の中央に近い二人がけのテーブルに案内した。
ダージリンティーとミルフィーユをオーダーしたエミリーは、隣の席の男が、さきほどから落ち着きのない様子でポケットを探っていることに気付いた。
もじゃもじゃした柔らかそうな茶髪に眼鏡をかけた、優男を思わせる顔つきの若い男で、連れはいないようだった。ひょろりとした細い体に、水色のポロシャツと茶色のチノ・パンツというスタイルは、男の雰囲気によく合っていたが、どこか頼りなげな印象も受けた。
男がポケットから手を出した拍子に、はらりとはらりとなにかが床にこぼれ落ちた。それは、その男が持つには荷が勝って見える、金箔の施されたタロットカードだった。
表を上にして床に散らばった何枚かのカードが、エミリーの目に止まる。豪華な作りのカードに相応しく、ボッティッチェリの名画「プリマヴェーラ」や「ヴィーナスの誕生」をアレンジした図柄だった。
男は、さらにあわてた様子で、床に散らばったカードを拾い集める。しかし、その狼狽ぶりとは裏腹に、カードを扱う手つきは手馴れていて、集め終わったタロットカードの端を鮮やかに揃えて見せた。
エミリーは、感心したような表情を浮かべた。
「ねえ……」
言葉を発してから、エミリーは何かに驚いたように、青と真紅のオッドアイを泳がせた。
声をかけられた方の男は、その声に気づかないかのようにカードを弄っていた。
エミリーは、男の方に視線を定めて、はっきりとした口調で話しかけた。
「あなた、占い師なの?」
一瞬の間があって、男は、カードから上げた視線をエミリーに向けた。ブラウンの瞳は呆けたように見開かれていたが、そえはすぐに柔らかな笑顔に変わった。
「いえ、本職は違うんですが、でも、占いもします。友だちにはいつも一枚だけ引いてもらいます。よくあたるって言われますよ……ああ、僕はレネ・ロウレンヴィルといいます」
「わたしは、エリザベート・フォアエスターライヒよ。……一枚引かせてくれる?」
レネがセットしたタロットカードの山に指を伸ばしたエミリーは、わずかに躊躇したあと、一枚のカードを抜き取った。
表を返すと、その図柄が現われた。
中心に車輪が描かれていて、その周囲を四人の色鮮やかな服を着た人物たちが囲んでいる。
「これは?」
「『運命の輪』。正位置ですね」
「どういう意味かしら?」
エミリーが問うと、レネはわが意を得たりとばかりに答えた。
「どんなことも必然というカードです。必要な時に、必要なことが起こり、必要な時に必要な人と出会う」
レネからぎこちなさがすっかり消えて、その説明は流暢になっていた。簡潔だが要領を得た解釈は、見かけとは裏腹に一人前の占い師ぶりだった。
ふっと笑ったエミリーの唇が、なにかを言いかけたときだった。
「失礼」
はっきりとした口調のキングス・イングリッシュの男声が、ふたりの間に割って入った。
声の主を見たエミリーは、小さなため息を落とす。
ここで待ち合わせをしていた相手、マイケル・ステューダーは、夏場なのに、きっちりとジャケットを着込んでいた。
ぴんと伸ばした背筋の上から、俳優を思わせる金髪碧眼の整った顔がエミリーとレネを見下ろしている。
「こちらの紳士は、おまえの知り合いなのか?」
マイケルの口から、およそ遠慮というものを感じさせない言葉が発せられた。
エミリーは、『運命の輪』をタロットカードの山に戻す。マイケルの視線が、一瞬だけカードの行方を追ったのを見止めて、エミリーは口の端を軽く上げた。
「さあ、どうかしら」
突き放したようなその返答に、マイケルの眉が上がり、その目が値踏みをするようにレネを見る。そして、マイケルはレネの正面の席に腰を下ろした。
「すこし、話を聞きたい。あんた、エミリーとは、どういう関係なんだ」
挨拶のひとつもなく、いきなり詰め寄るマイケルに、レネは怪訝そうな表情で応える。
「エミリーって?」
その名前は、この場では初めて口にされたものだった。それが、目の前の女性を指していることは想像に難くないだろうが、レネは確認するように聞き返した。
マイケルは、そんなレネの反応を、何かをごまかしていると受け取ったようだった。
「とぼけるなよ。もしかして、あんた薔薇十字……」
腰を浮かせたマイケルの足が、テーブルにぶつかる。テーブルが揺れて、ガチャンという甲高い音がした。
「あ」
三人が、三様に同じ声を上げる。
レネの前にあった水の入ったグラスが、テーブルの上に倒れていた。テーブルから零れ落ちた水は、レネのズボンを少し濡らせていた。
一瞬のお見合いのあと、最初に動いたのはエミリーだった。バッグからすばやくハンカチを取り出すと、レネに差し出した。
「これを使って」
マイケルは、慌てて倒れたコップをもとに戻す。
「ほんとうに、がさつで役立たずなひとね。このひととは、たまたま席が隣になったので、すこしお喋りしていただけよ」
エミリーの明快な言葉に、レネとマイケルは揃って落胆したような表情を浮かべる。
席を立ったマイケルは、レネに向かって深いお辞儀をした。
「すまない、失礼をした」
マイケルの謝罪に、レネは穏やかな笑顔で、いいですよ、と答えた。
「それは、返してくれなくていいわ。ごめんなさいね」
そう言って、エミリーはレネをそのオッドアイに映す。目が合ったレネに、軽い会釈をしてから、エミリーはなにかを振り切るように歩き出した。
「おい、どこに行くんだ」
その背中に、マイケルは問いかける。
エミリーは、ジャンパースカートの裾を翻して振り向くと、澄んだ笑顔を浮かべた。
「ここはハロッズよ、買い物に決まっているでしょう。さっさと、つき合いなさい」
§
その日は、アーサー・ウイリアム・ハノーヴァー公爵にとって久しぶりの休日だった。
夕方から、簡単なブリーフィングが予定されているが、それまでは誰にも邪魔されない時間がある。
ふたつ持った仕事の双方で、気になることがないわけではなかったが、当面の問題が片付いたこともあって、アーサーは個人的な理由で大英博物館に赴くことにした。
社会的な地位もあり、人には言えない仕事でも要職についている関係で、アーサーが単独で外出できることは、ほんとうに珍しいことだった。
大英博物館は、世界的に名の通った博物館であり、またロンドンを代表する観光地でもあるから、観覧する人は多かった。
グレートコートを通り抜け、リーディングルームで、お目当ての本を何冊か閲覧したあと、 コート・カフェで遅めのランチを済ませる。待ち合わせ時刻まで、まだ少し時間があったので、それまで展示を見て時間を潰すことにした。
ギリシャ関連の展示スペースに足を踏み込んだところで、アーサーの足は止まった。
エルギン・マーブルの前にたたずむ女性を一目見て、目が離せなくなったのだ。
神秘的な漆黒の艶を放つセミロングの髪、彫像にも劣らぬ美しい顔の中で静謐なたたずまいを見せるガーネットの瞳、そして肌理の細かそうな素肌は、東洋の島国日本の女性に特有の美を体現していた。
そして、鮮やかな白いサマーウールのボレロと、紺のタイトなノースリーブ・ワンピースという装いは、まるでパーティに出向く前のような着こなしだった。タイトなスカートから伸びた足は、白いハイヒールの上で見事な曲線美を描いている。
その立ち姿には、ドイツ系貴族の女性に共通する寸分の狂いもない礼儀作法を身につけていることを窺わせる雰囲気があった。
アーサーは、ふと、今日これから会うことになっている人物を思い浮かべる。その娘は、凛としたコケティッシュさを持ちながら、ある一線を越えた途端に氷像のように透徹した拒絶を示す。それが、アーサーにとっては、ずっと気がかりなことであった。
その追憶を破るように、突然の喧騒が起きた。
東洋人の観光客たちが、声高になにかを話しながら、アーサーとエルギン・マーブルの間に割って入ってきた。
彼等はアーサーの存在など眼中にないかのように、エルギン・マーブルの彫像と同じポーズをとり、その様子を写真に撮っている。
アーサーは、不快だった。
ここは、静かに展示物と向き合う場所だ。教育に携わる者として、彼らの親や教師がパブリックスペースでのマナーを躾していないことが、許せなかった。
現われたときと同じように喧騒とともに彼等が去り、ふたたび静寂が訪れた展示室には、かの女性とアーサーだけが残されていた。
ふと彼女の方を見やったアーサーの目が、彼に向けられていた女性の視線と合った。
女性の顔に浮かんだ微笑に、アーサーの心は鷲づかみにされた。
媚やへつらいのない気高さとともに、男を魅惑する艶やかさが宿っていた。女優あるいは芸術家か、いずれにしても相当な経験を積んでいることは、明らかなように見えた。
アーサーは、険しくなっていた表情を緩める。
「困ったものですわね」
女性のほうからかけられた言葉は、くしくも先ほどアーサーが感じたことと合致していた。この女性とは、話せそうだとアーサーは感じた。
「本当に。マナーのなっていない者には、芸術を鑑賞する資格はない」
アーサーは歩を進めて、彼女との距離を詰める。
彼女が、長方形のケースを大切そうに持っているのを見止めたアーサーは、それが楽器を納めたものだと直感した。
「全く同感ですわ。でも、幸い、あの手の人たちは長居はしません。静かになりましたから、これからゆっくりと鑑賞することにしましょう」
その言葉で、アーサーは彼女が音楽家であろうと確信した。
「申し遅れました。私は、アーサー・ウイリアム・ハノーヴァーといいます」
「四条蝶子です」
彼女の名前が、バタフライを表す日本語であることを、アーサーは知っていた。
「エルギン・マーブルに興味がおありですか?」
アーサーの問いかけに、蝶子はうなずいた。長い黒髪が、さらりと揺れる。妖艶なクロアゲハが、音もなく飛翔する姿がアーサーの脳裏をかすめた。
「ええ。一度観てみたいと思っていました。こんなに大きなものだったなんて。よくイギリスまで運んでこれたと思いますわ」
まったくです、と相槌を打ってから、アーサーは続けた。
「エルギン伯爵トマス・ブルースがパルテノン神殿から略奪してきたものだ、と言われています。いちおう時の領主であったセリム3世の許可はとったらしいが……まあ、略奪といっていいでしょう」
それならば、と蝶子の口が動いたように見えた。
「ギリシャに返却すべきものだとはお思いになりませんか?」
うむ、とアーサーは顎をなでる。これは、彼が考えをまとめるときの癖だ。
「もちろん、本来なら、パルテノン神殿と一体となった状態で評価されるべきものだ。しかし、あの時代のギリシャに放置していたら、もうとっくに崩れて風化し、ただの瓦礫となっていた事でしょう。ここに置いてあるかぎり、このレリーフは安泰です。芸術というものは、それにふさわしいところにあってこそ、その本来の輝きを放てるものだと思いませんか」
アーサーの言葉を聞いて、蝶子は沈思したように見えた。
「……。おっしゃる通りかもしれませんわね」
蝶子の美麗な顔に、かすかな陰りのようなものが浮かぶ。
その理由を尋ねようとしたとき、アーサーの携帯電話が震えた。
「失礼……」
アーサーは、蝶子に一言断ってから、携帯電話の画面を見る。そこに表示されているのは、緊急時以外にはかかってこないはずの番号だった。
着信を保留にしておいて、アーサーは蝶子に向かって会釈をした。
「貴女とは、もっと親交を深めたいところだが。あいにく、今日は時間の持ち合わせが少なくてね。じつに、残念だよ」
それは、アーサーの本心だった。
蝶子と交わした会話は多くはなかったが、堂々と意見を述べる芯の強さと、こちらの言葉を一瞬で自身に取り入れるしなやかさが見て取れた。彼女がどのような楽器を奏でるのかは分らないが、もし世に出ないことになるとしたらそれは大きな損失だと感じた。
「お話が出来て、光栄でした……」
蝶子が、さらりと告げた。
だが、アーサーには、その言葉のニュアンスのなかに、こちらに悟られまいとする感情がわずかにだが紛れ込んでいたように思えた。
「……閣下」
蝶子の挨拶は、ごく自然に出てきた敬称で締め括られた。こちらの身分など告げてもいないのに、まるで最初からアーサーの立場を知っていたかのようだった。
その言葉は、蝶子自身にとっても意外だったようだ。
アーサーは、蝶子が貴族階級と縁のある女性だと感じた第一印象を思い出した。本人が自覚するとしないとにかかわらず、彼女には、そういう種類の人間に対する直感ともいえる嗅覚が備わっているのだろう。
そして、アーサーはこう思った。
蝶子は、こちらの身分を知っても、それで態度を変えるような女性ではないだろう。ならば、あえて認めたり訂正したりするような野暮な真似はすまい、と。
アーサーは、なにも気付かなかった振りをした。
「では、これで。芸術の神の祝福が、貴女の上にあらんことを……」
それで名残を振り切り、アーサーは展示室の出口に向かって足を踏み出した。
展示室を抜けてグレートコートに出たアーサーは、再び携帯電話を取り出した。そして、待たせていた相手から、用件を聞き出す。アーサーの顔から笑みが消え、眉間に皺を寄せた厳しい表情が浮かぶ。
大英博物館まで迎えの車を寄越すように指示をしてから、アーサーは電話を切った。
そして、「彼女」の電話番号をコールする。
無言で電話に出た相手に、アーサーは話しかける。
「私だ。エリザベートか?」
電話の向こうで、ため息が漏れるのが聞こえた。アーサーは、それで相手がエリザベートであると確信する。
「すまないが、今日の予定はキャンセルしてもらえないか。……どうやら、おまえが心配していたとおりになったようだ。……ああ。それと、ブリーフィングは予定どおりの時刻に実施するから、本部に顔を出してくれ」
電話を切ったアーサーは、気持ちが高揚するのを感じていた。自分が最も輝ける場所、それはいうまでもなく戦場だ。
『敵には死を、味方には愛を』
あの日、あの剣を手にしてから、それはゆるぎない信念として常に彼とともにあった。しかし……。
その胸中に、さきほどエルギン・マーブルの前で出会った四条蝶子という女性が、一瞬だけ去来する。
彼女は、自分の居場所を決めかねていたのかもしれない。なにに対する苦悩なのか知る由もなかったし、なんの根拠もなかったが、アーサーはそんなふうに思った。
黒い髪とガーネットの瞳の女性の姿が、白い髪とオッドアイを持つ少女に代わる。
「芸術だけではない。人もまた、居るべき場所にいてこそ輝けるのだ。おまえは、いったいどこへ行こうとしているのだ……」
一瞬だけ、憂いに目を曇らせたアーサーだったが、すぐに自嘲するかのごとく薄い笑いを浮かべた。
「それは、神のみぞ知ること、だったな」
§
「やはり、オーダーしないと無理みたいね。ウエストに合わせると、胸がきついわ」
贅沢な悩みを口にしながらブティックで服を選ぶエミリーの横に並んで、マイケルは気になっていたことを尋ねた。
「ところで、さっきの男って、ほんとうは何者なんだ」
「知らないわ。でも、気がついたら話しかけていた。不思議なひと……。あの、人と人とを和ませて呼び集めるような雰囲気のせいかしら」
エミリーが話をしているという時点でローゼンクロイツのエージェントだと思い込んでしまったが、そうでないと分ると、マイケルにはただの弱気な青年だとしか思えなかった。
「そういえば、おまえたち、なんだか妙に豪華なタロットカードを触ってなかったか。あの絵柄、なにか意味があるのか」
「あのカードは『運命の輪』。すべては、あるべくしてあり、起こるべくして起こる必然のことなのだそうよ。幸運も不運も、すべてはあまねくこの世を統べる三世六界の理の一部ということね。どう受け止めるかは、そのひと次第だけれど……」
突然、エミリーの言葉を遮るように、『ワルキューレの騎行』が鳴り響いた。ハンドバッグから取り出した携帯電話に出たエミリーの表情が、わずかに曇る。
「……えっ、どうして。……そう、それならしかたないわ。……ええ、わかっているわ」
電話を切ったエミリーは、パチンと音を立てて携帯電話機を折りたたむ。短いため息をひとつ、そして、ふと何かに気づいたようにオッドアイを見張る。
「『運命の輪』、すべては必然のこと……か。あのひと、あの豪華なタロットカードを扱うだけのことはある占い師だったということね」
エミリーは、レネ・ロウレンヴィルと名乗った青年のことを考えていた。
レネは、見かけどおりの優しい男だった。けれど、たんに気が弱いだけの男にも見えなかった。強い自己主張がなく自然体で、なにか人を安心させ、その周囲に呼び集めるような、そんな雰囲気を身にまとっているように見えた。戦闘と殺生の世界に生きるエミリーにとって、それは得ようとしても得られない、すこし眩しいものだと思った。
さきほどレネに渡したハンカチは、フォアエスターライヒ家の紋章である双頭の鷲とともに、エミリーの御印であるエーデルワイスの花と、本名のイニシャルが刺繍されているフルオーダーメイド品だ。エミリー自身が考案したデザインに従って、スイスのザンクトガレンにある御用達の工房で、一枚ずつすべて手作業で作られている。工房の職人たちの生活がすこしでも豊かになればという思いもあって、使い捨てにすることは多かったが、人に贈ったことは数えるほどしかなかった。
返さなくていいと言った以上、使い終わったあとそれをどうするかは、レネの自由だ。たまたま隣に座った女から渡されたハンカチなど、捨ててしまうのが当たり前かもしれない。しかし、それでも、レネにはそのハンカチをずっと持っていて欲しいとエミリーは願った。
瞼を閉じて、深呼吸をひとつしたエミリーは、再び見開いたオッドアイにマイケルを映す。思えば、ロンドンに来てからというもの、こうして人と触れ合うことが多かった。この不調法で無作法な男と過ごす時間も、それほど捨てたものではない。そんなふうに思い始めている自分に気づき、エミリーは自然に口の端に笑みを浮かべていた。
「買い物は、もういいわ。お腹が空いたから、ランチにしましょう。わたしたちが食事をする間くらい、『運命の輪』も回り始めるのを待ってくれるでしょうから……」
2012.10.17 書き下ろし




