第16話 いらいらのフレスベルグ
「ほう、なるほど。それで今日は晴れ晴れとした顔をしているのであるな」
翌日。闘技の時間、観衆場にて。エルンストが感心した様子で彩斗に言葉を投げかけた。
「はい、おかげでずいぶんと戦術の幅が広がりました。これで勝算はずっと上がると思います」
「うん。わたし、もっと強くなれる~」
あの後、スララの新たな可能性を見出してから、彩斗はリコリスの新たな可能性を開拓していった。
その結果として、戦力の大幅なアップが見込めるようになったのだ。
まだ完全には至っていない。最低でも数日の練習が必要だと彩斗は思っている。だが習熟すればスララの戦術はより多様性を増し、敵にとっては厄介で、自分たちにはこの上ない強力な技となるだろう。
「それは何よりであるな。彩斗やスララとは闘技で当たらないことを祈ろう」
「それは――そうですね。そうならないことを願っています」
一瞬だけ、想像したくない可能性を思い描いたが、考えても仕方がない。彩斗は、とりあえずスララの強化についてだけ、喜ぶことにした。
「それで――ベリアルについて、牢屋の文字の解読で新たに判明したことであるが」
「はい」
声音をやや硬く変えたエルンストに対して、彩斗とスララが身構える。
「どうやらベリアルは、約二十年前にエレアントを支配していた魔神らしいのである」
「二十年前……支配……」
呟きを洩らした彩斗にエルンストは軽く頷く。白衣がわずかに揺れた。
「性格は、残虐非道。敵にも味方にも容赦はなく、ひたすら快楽を得るために、人や魔物に襲いかかっていた恐るべき魔神。その魔力は圧倒的に強く、黒い大蛇のような業火を放って、いかなる巨人も、精霊も、竜ですら一撃のもとに倒していた。最悪なのは魔法の多様性で、黒い業火の他にも、石化の魔法、変身の魔法、召喚の魔法から魔法具の作製魔法にまで、かなりの分野に精通していた。そう牢屋の壁には書かれていたのである」
今日の闘技はすでに行われている。鞭とブーメランのぶつかり合う衝撃音が奔る中、エルンストの声は明瞭に響いていった。
「どんな魔物も倒す、黒い業火……やっぱり、ゲヘナと同じですね……」
「それに、石化の魔法も得意であったという記述。ベリアルの三つの異名のうち、『黒き大蛇』と『石像庭園』が何なのかは、これで確定した」
「あと残る『円環の鎧』だけは、やっぱりわからないんですか……?」
これにはエルンストはやや声音を低くした。
「うむ。今回の解読の中にも、それらしき記述はなかった。いったい、円環とは……鎧とは、ベリアルの何を示しているのだろう」
「そんなことどうでもいい」
急に不機嫌な声を出したのは、フレスベルグだ。彼女は体育座りでむすっとした顔のまま、
「いつまでもこんな方法じゃ埒が明かない。解読薬をもっと速く作るように、その辺のペアから材用になるもの奪えばいい。それでさっさと解読進めれば、ベリアルなんてすぐにわかる」
「それはできない」
エルンストは強い口調で反論した。
「それは危険である、フレスベルグ。考えてもみるのだ、今はワタシの手持ちの鋼材や魔物の血液、体毛から解読薬を調合しているが、他者から奪うとなると、反感を買う。歪を生むことになる」
一息間を空けて、
「ワストーやグルゲンの件を、知っているであろう。彼らはいつの間にか、何者かに氷漬けにされていた。ワタシはこれを好き勝手に行動した報いだと思っている。利己的な行動は必ず自分に跳ね返ってくる。フレスベルグは、奪われたペアが仕返しにやってきても平気なのであるか?」
その事件は事実だった。先日、彩斗のコンバットナイフを奪うべく襲ってきたワストーとグルゲンの二人は、全身を氷に覆われた状態で発見された。
パートナーの魔物共々、完全に氷の彫像となっての状態だ。不気味だった。コロシアムに無数に存在する石像と比べても、遜色ない異様さ。
一応、闘技で負けたわけではないので、今日もガーゴイルに氷漬けのまま運ばれて、コロシアムの隅に置かれている。
氷漬けにした犯人はわかっていないが、ペア間のバランスを崩した報いとして、いずれかのペアに襲われたと一同は思っていた。
「ふん」
けれど、フレスベルグはそんな言葉を鼻で笑う。
「別に奇襲なんて怖くない。だってフレスベルグはこの中で最強の魔物。相手が誰だろうと、鬼神だろうと、魔神だろうと、倒せる自信はある。こんなちまちました方法じゃ時間が掛かって仕方がない。帰りたくないの? エルンストは。自分の元いた世界に」
エルンストは眉を潜ませた。
「もちろん帰りたいである。ワタシにだって友もいれば家族もいる。機械神天使を倒さねばワタシの故郷は滅ぶ。ワタシは一刻も速く故郷に戻らねばならない」
「だったら話は簡単。解読薬の材料持ってるペアから、奪えばいい。それが一番楽で確実な方法。他のペアに下手に出て譲ってもらってるなんて、周りくどい」
「解読薬を作れば即座にアルシエル・ゲームが終わるわけではない。これはあくまでもゲームの裏を知るための行動である」
彼の語気は強くなっていく。
「これ事態が不確実な未来への行動だ。解読薬を作ればゲームがすぐ終わるというならば、ワタシも強攻策は考える。だが現状、解読薬を作って即時終結というわけにはいかない。……ゆえに、腰を据えて調査をし、アルシエル・ゲームを知り、その上でゲームを終わらせる方法を考えるべきである」
フレスベルグの柳眉が、みるみる逆立っていく。
「何それ。つまりもっと我慢して我慢して耐えろってことじゃん。焦れったい!」
「焦れるゲームなのだ、フレスベルグ、これは、アルシエル・ゲームは、闘技で他者に勝つだけではない。己との戦いなのである。油断や慢心、焦りや恐怖……それらの感情をうまく制御し、自らの力をできる限り保持し、闘技を勝ち抜かねば、明日はないぞ」
「臆病風に吹かれたの? 奪った相手が逆上してきても撃退すれば済む話。フレスベルグならそれができる。フレスベルグの風の呪字は最強の力。焦れてかったるい状態が続くより、フレスベルグはそっちを選ぶ!」
「フレスベルグは短絡的過ぎるのである」
「エルンストはのんびり過ぎ!」
「ま、ま、待ってください!」
慌てて、両者の間に入って彩斗は言葉を止めさせた。
「喧嘩してる場合じゃないですよ。二人が仲悪くなったら、調査も進まないです。大丈夫だから、フレスベルグ。エルンストはきちんと皆のことを考えてるはずだから……」
「うるさい」
フレスベルグの目は吊り上がっている。
「いきなり口挟まないで。そもそも誰だっけあなた。影が薄い顔して、話に割り込まないで」
「ひ、ひどい……じゃなくて!」
彩斗は精一杯落ち着かせようとした。
「いくら何でも、無理やり奪うのは乱暴過ぎるよ。それに、あんまり無茶をすればアルシエルが制裁を加えるかもしれない。ワストーとグルゲンは、アルシエルにやられたのかもしれない。フレスベルグのやり方だと、罰を与えてくる可能性が高いよ」
「別に構わない」
フレスベルグはあくまで強情だった。
「あっちが襲ってくるならフレスベルグは迎え撃つだけ。あの女、いつも偉そうに。自分は支配者だ、ゲームの皇帝だっていう顔して、気に入らない」
そして小さな声で付け加えた。
「大体、フレスベルグは自分より体の起伏がある女が気に入らない。なに、あの胸、あの腰。なに食べたらあんなになるの。許せない」
「確かに、フレスベルグはちょっと幼児体型であるな」
フレスベルグから、地獄の底のような寒々しい視線が、エルンストへと向けられた。
フレスベルグは美しいが、体のメリハリについては今一歩だった。
「一回死んでみる?」
「でも事実であろう」
「そ、それはともかくとしてっ」
新たな火種になりそうだったので、彩斗は慌てて叫んだ。
「だとしても、アルシエルが気に入らなくても、彼女にはガーゴイルもついているよ。忠実な石の下僕。あの軍勢にも囲まれて、さらにアルシエルに襲われて、フレスベルグは、勝てるの?」
「……」
そこで冷静に考えを巡らせるのか、フレスベルグは口を閉ざした。
てっきり売り言葉に買い言葉のまま、激昂するかと彩斗は思ったが、フレスベルグはバルコニーの上のアルシエルを見て、コロシアムの外周で佇立する石の番人たちを見て、じっと黙り込む。
「彩斗の言うとおりだと思う~」
スララが、おっとりとした声音でフレスベルグに語りかけた。
「闇雲にやっていっても危ないよ。アルシエルはきっと色んな事態に備えてゲームを開催してる。これは、一人や二人が好き勝手しようとしても、どうにもならないゲームだよ~。フレスベルグ、今は抑えて」
「……ふん。アルシエルの奴、一人だと怖いから、ガーゴイルに自分を守らせてる。あいつ、やっぱり気に入らない」
ふてくされて、しかめっ面のまま、フレスベルグは少し頬を膨らませた。
機嫌は悪いが、スララの言葉を否定することもなく、座ったままむっつりとする。
それで一応の収束となったようだった。彩斗はほっと息をつき、小声で、
「……ありがとう、スララ。フォローしてくれて助かった」
「どういたしまして~。誰かが喧嘩するを見るの、わたし苦手~。みんな笑顔でいられたらいいのに」
思わず苦笑する。スララのように皆が穏やかならば、なかなか他人同士の衝突もないのだろうが、実際にはそうはいかない。実力で闘技を乗り越えようとするペアもいれば、力づくで武器を奪うペアもいる。悩ましい問題だった。
そんなことを思っていると――。
「……今日はそれにしても、長い闘技であるな」
そのとき、ふと呟きを洩らして、エルンストは決戦場の方を見た。
振り返った先、激しい武技が衝突していた。今日の闘技は、鋼の鞭使いの少女と、燃えるブーメランを使うマントの男の戦いだった。パートナーは奇しくも同じ魔物、ゴーレムという土でできた巨人。
互いに実力が拮抗した激闘は、先ほどから激しい震動を生み出し、いくつもの魔法を飛び交わしていた。しかし切り札であるゲヘナは一発も撃たれておらず、膠着状態だった。
まだまだ中盤戦。闘技はすでに三十分を超え、なおも続きそうだった。
「そういえば、彩斗たちは食事をどうしてるであるか?」
たまには雑談も必要だと思ったのだろう、気安い口調で、エルンストは話を振ってきた。
「食事……ですか? そうですね、いつも豆のスープと硬い麦のパンとか、干し肉だけです」
「自分で少し手を加えたりはしないのであるか?」
彩斗は少し考えた。
「いえ……この前なんかは元の世界から持ってきたジュースをスララと一緒に飲んだりしたんですけど、そのくらいで……」
「あ、すごいんだよ~、彩斗」
スララが声を弾ませる。
「とっても美味しいジュースを出してくれたの。あれは、すごく甘くて、ほっぺが落ちそうだったな~」
まるで夢を思い返すように、瞳をきらきらさせて彼女は両手を組む。
「うん、ボクも美味しかった。――あ」
確かに美味しかった。パイナップルの缶ジュースは甘くて、いつにも増して美味しかったが……脳裏に浮かんだのは、スララと間接キスをしてしまった光景。彼女の桜色の唇。つい思い出してしまって恥ずかしくなる彩斗に、スララはひょこり、と顔を覗き込んだ。
「彩斗~」
「な、なに? スララ」
「顔が紅いよ~」
「なんでもないよ、あはは……」
いくら何でも、スララとの間接キスを思い出していたなんて言えるわけがない。やましい気持ちがバレたらスララは軽蔑する……かどうかはわからないが、黙っているに越したことはない。
「えへへ……」
そんな彩斗を、スララははにかみながら見つめていたのだった。
「それで、彩斗。話の続きであるが」
「あ、はい」
「大したことではないのであるが……彩斗たちは牢屋での食事のとき、食事を美味しくする方法を知らないであるか?」
「え? えっと、どういうことですか」
「いや、ワタシは牢屋でフレスベルグと食事をするとき、質素な食べ物ではつまらないだろうと、元の世界から持ってきた液体を入れようとするのである。しかし初日以来、いつもフレスベルグが止めるのであるな」
「当たり前。あんな怪しい液体入れた食事、食べられるわけない。何考えてるの、ばか」
「……どんな液体なんですか?」
「ふふ、よくぞ聞いてくれたっ」
エルンストは嬉々として白衣のポケットから、いくつかのガラス管を取り出した。
「例えばこのウネウネ草から取った紫の液体。肉類にかければたちまち肉の歯ごたえが数倍にも良くなるという、なかなかの逸品!」
「……でも常にうねうね蠢くとか肉食べたくない……」
食べたことがあるのだろう、フレスベルグが嫌そうに言った。
「もしくはこのビンカン草から抽出した錆色の液体。豆類にかければ栄養満点、肌も艶めくという最高の逸品!」
「豆が常にビクッ、ビクッ、とか動くのあり得ない。きもっ」
「さらにはこのムラムラ草から搾り取ったピンクの液体! スープに混ぜればどんなに苦い汁物もあら不思議。たちまち甘ーい味へ変化して至高の逸品へ早変わり!」
「それ最悪。それ飲んだエルンストが急に発情して、フレスベルグに迫ってきたときは本気で死ねと思った。マジ最低」
「彩斗、君はいらないであるか? 食事が少しでも美味しくなると思うのであるよ?」
「え、え、いやいいです。間に合ってます」
彩斗は顔を引きつらせた。
「そんなこと言わずに。じつはこれらの液体は量産したのだが、食事に混ぜるのをフレスベルグがちっとも許可してくれない。余っている。スララもどうであるか、半分くらいあげるである」
「面白そう~。うねうねだって。少しもらってもいいかも~」
「だ、ダメだよスララ、何かマズイよ、それ受け取っちゃダメっ」
「さらにはシクシク草というものもあってだな、パンにかければふんわりとした食感に加え、果物の味もするようになるというおすすめの逸品――」
「だから、それもだめだから」
フレスベルグが目を吊り上げる。
「あり得ない。それかけて食べると、一晩中涙が出て止まらなくなる。エルンストがしくしくベッドの上で泣きっぱなしなのはもう勘弁。二度と見たくない」
「ふむ? でも美味しいであるよ。さらにはこのヌメヌメ草などは、」
「ばかっ、この液体ばかっ」
「あ、あはは……」
もしかしてフレスベルグがいつも眠そうで、不機嫌なのは、エルンストのせいもあるのではと彩斗は思った。
魔神ベリアルについての談義を交わすときや、周りの強者について分析するときは、この青年は非常に理知的に話すが、根っこの方は研究欲で溢れている。
ぴーん、とエルンストは何かを思いついた顔をした。
「そうか、これらいくつかを混ぜあわせれば、更なる秘薬が生まれるのではないか? そうだ、そうだ、試しにビンカン草とムラムラ草とヌメヌメ草を調合して……」
何やらガラス管を取り出し、「フフ……おいしくなれ、おいしくなれ」と小声で液体を混ぜ合わせる白衣の青年に、フレスベルグは白い目を向け、スララは応援し、彩斗は顔を引きつらせて後ろに下がる。
「うわぁ……なんというか、マッドサイエンティスト……」
研究魂に火が付いてしまった科学者に、乾いた笑いしか出てこない。
「フフフ……ここへ来てから、ろくな調合ができなかったであるが、久しぶりに着想が浮かんだのである。それ、おいしくなれ……おいしくなれ……フフ……」
フレスベルグは呆れて半眼を向けている。
「なんであんなのがパートナーなの。変態。変人。液体フェチ。あーあ、早く故郷に帰りたい」
この時ばかりは彩斗も同感だった。スララがパートナーで本当に良かった、そう思っていたのだが――。
「(わくわく)」
スララはスララで、何やらエルンストの調合を興味深そうに眺めていた。
目を輝かせて「ねえねえ、それとそれと混ぜるとどうなるの~」「わからん。試してみるか?」「面白そう~、やってやって~」などとエルンストの持つガラス管を見てうきうき顔なのを見ると、あまり笑えない。
思わず、彩斗はフレスベルグに話しかけていた。
「エルンストさんって……頼りになるけど、大変なときもあるんだね」
しかし風使いの少女はむすっとした表情のままだった。声をかけても返事がない。
「えーと、フレスベルグ……さん?」
何となくさん付けしないといけないような気がしていた。歳はあまり変わらなさそうだが、フレスベルグはよく不機嫌になるし、気難しそうであるし、さん付けしないと怒りそうな雰囲気だ。
「……別に呼び捨てでいい。あなたは――ガヤトだっけ」
「ち、違うよ、彩斗だよ。……ど、どうして、ガヤ……?」
「ガヤガヤしてる人混みにいたら、全然気づかない影の薄い感じだから」
「そ、そんな、ひどい……」
否定できないのがまた悔しい。確かに自分でも平凡極まりない容姿だと思っているが、面と向かって断言されると少し辛い。
だからこそ、彩斗は少しでもフレスベルグと仲良くなりたいと思った。
「えっと……いつも、エルンストの調合物で、不気味なもの食べてるの……?」
「最初の頃はそうだった。でも最近は拒否してる。どうせろくなの作らないし」
「……うねうねとか、くねくねとか、そういうの食べたの?」
「そう。……ああ、思い出しただけでも嫌。お腹の中で、こう、肉とか豆とかが、うねねねとかやってる。マジ嫌。うう……」
軽く自分を抱きしめて、少し顔を青ざめさせる。
――チャンスだと思った。少しだけ距離を縮められるかと思った。フレスベルグは闘技を勝ち抜く上での協力者。できるだけ仲良くなりたいというのは、彩斗にとって自然な感情だった。
「えっと、美味しいものかどうかはわからないけど、こういうものがあるんだけど……」
彩斗はポケットからチューインガムを取り出す。十枚入りで、ストロベリー味の品だ。以前に学校帰りで買ったもので、ずっと鞄にあったものを今日は取り出してきたのだった。
「なにそれ? 食べ物?」
取り出した板状のチューインガムを、フレスベルグはまじまじと見つめる。
「ん、一応、お菓子……みたいなものかな。飲み込まない方がいいけど」
「変なの。飲んじゃいけないのにお菓子? 彩斗の世界は変なの」
スララとは違う意味ではっきり言うタイプだった。スララがふんわりとしたスポンジのような物言いなら、フレスベルグは触れれば斬れる日本刀。
「こう、一枚を取り出して、口の中に入れるんだ。それで、噛んでみるんだよ。すると、口の中で甘い味が広がっていくんだ」
言われても、フレスベルグはうまく想像できないらしい。怪訝そうな顔つきで見上げたまま、「へー」と呟くのみ。
だから、試しに彩斗はガムを噛んでみた。包み紙を剥がし、口を開け、放り込む。
甘く、口内で広がるストロベリーの味。小さく鳴るくちゃくちゃとした咀嚼音。
フレスベルグの眼が、興味深そうに揺れていく。
しばらく、ガムを咀嚼していると、
「……ん」
「え、あ、なに?」
「……ん」
座りながら黙って手を差し出したので、彩斗はゆっくりとした動作で一枚渡してみた。
フレスベルグは包装を解き、葡萄色のガムを見つめ、小さな鼻ですんすんと匂いをかいで、上目遣いになる。
「……美味しいの、これ」
「ボクは好きな味なんだ。フレスベルグに合うかはちょっとわからないけど」
「まあいいや。エルンストのよりはマシでしょ」
「あはは……」
さすがにビンカンだのムラムラだのよりはいいはず。
フレスベルグは、少し躊躇った後、両手ではむっ、と思い切ってガムを口に入れてみた。しばらく噛む。小さな口からくちゃくちゃと音がする。
「あ、おいしい」
目を丸くして、正直な感想が呟かれた。
「よかった。もっと噛むと味が出るよ」
「……ん」
しばらく、くちゃくちゃというガムの咀嚼音が二人の間で二重奏となって広がる。
フレスベルグは何度か瞳を瞬かせ、新鮮な感触に驚きの表情を浮かべ、自分の口内で広がる甘い味に困惑しているようだった。けれども困惑はすぐに安心へと移り替わり、次第に頬が緩くなっていく。
「おいしい。彩斗の世界のお菓子、とってもいいじゃん。フレスベルグはこれ気に入った」
「よ、良かった」
ほっとして、彩斗は胸を撫で下ろす。
これがまずいと言われたらどうしようと思ったところだった。協力関係でこれからも話す機会が多そうだったから、少しでも喜んでもらえるなら万々歳だ。
「こんなの初めて。噛んでも噛んでも甘い。噛みしめるときの感触がいい。世界樹のレレシアの実みたい」
体育座りのまま、故郷の懐かしい味を思い出したのだろう、嬉しそうにくちゃくちゃと響かせて彼女は言う。
気のせいだろうか。目元が少しだけ柔らかくなっている。体がリズムよく小刻みに横へ揺れ、一定感覚で繰り返されている。彩斗は、それが嬉しいときのフレスベルグの仕草なのだと気付いた。
誰であれ、やっぱり喜んでもらえると自分まで嬉しくなる。
「それでね、フレスベルグ」
「ん、なに?」
「このガム、風船みたいに膨らませることもできるんだ。こうやって……」
ぷわっと、彩斗は三センチほどの風船を作ってみせた。
フレスベルグの目が大きく見開かれる。
「なにそれ、すごい」
その言葉に彩斗は気を良くする。もっと風船を大きくしてみる。空気を送り込む。徐々に風船は大きさを増し、それに比例して、フレスベルグの目も驚きで見開かれていく。
「へえー、すごい、すごい。なにそれ、びっくり」
気づけばフレスベルグの目が、爛々と輝いていた。いつもの不機嫌さや眠気はそこにはなく、大きな興味が色とりどりの宝石のような色彩となって煌めいていた。
「もっと見せて。彩斗すごい」
そしてとうとう、拳大よりも二回り大きくなったところで、フレスベルグの驚きは最高潮になる。
同時に、膨らませられる限界も来た。彩斗はゆっくりと風船をしぼませ、全て口内へ収める。
「このくらいが限界。フレスベルグもやってみる?」
「うん」
膨らませるコツを彩斗は説明した。
何分かして理解したフレスベルグは、興味津々な表情で、風船作りに挑戦していった。
「そうそう、それで……今だよ、フレスベルグ」
ぷくーと、少女の口から葡萄色の風船が創りだされる。
ビー玉くらいの大きさが拳大ほどになる。それから徐々に徐々に丸い風船は広がる。さらにもっと大きな風船にしようとしたところで、
パンッ。
「うわぁ……」
可憐な顔へ見事に葡萄色の膜が張り付いていた。目元も鼻も葡萄色。唇も頬の一部も薄い紫で染まらせて、フレスベルグはむすっとした声で、
「……。なにこれ。べとべと」
「やばい、忘れてた。あまり膨らませ過ぎると、破裂しちゃうんだ」
「……すごくべとべと。やな感じ」
「ごめん、まず取って。フレスベルグ、そのままだと、」
騒ぎに気づいて、スララもやってきた。
「なにしてるの~。わ、フレスベルグが紫の変な顔になってる~。楽しそう~」
「ちっとも楽しくない」
むすっとしたフレスベルグは、くっついたガムを引き剥がした。
しかし手もべとべとっとした感触なので眉毛は段々斜めに釣り上がっていく。
「さっきの風船、彩斗のよりも小さかった。もっと大きいのにする」
納得いかない顔で、再挑戦しだした。
「え、まだやるの……?」
「(こく)」
しかしその後フレスベルグは何度か風船を膨らまそうとするのだが、彩斗のものより大きくはならない。それどころか同じ大きさも無理であり、何度もパンッ、パンッ、パンッと風船は割れて、そのたびにフレスベルグの顔が葡萄色でべとべとになっていく。あまりに失敗しすぎて段々口数が減っていった。
「ふ、フレスベルグ、もう終わりにしようよ、ね?」
「(ふるふる)」
「あのさ、ボクは元の世界でそれなりに膨らませてたから、大きな風船を維持できるけど……フレスベルグがすぐに真似するのは無理だよ」
「(ふるふる)」
「せめてもう少しコツを掴んでから大きなやつに挑戦しないと。ね? そうしよう」
「(ふるふるふる)」
「もしかしてフレスベルグって、結構な負けず嫌いーっ!?」
「(こくこくこく)」
その通りだった。
フレスベルグは何度も再挑戦を繰り返し、その度に顔をべとべとにして、それでも頑としてやめなかった。綺麗な顔はもはや葡萄のべとつきだらけだがそれでも止まらない。
しまいには、スララもチューインガムに興味を持ち、
「わたしもやってみる~。こうかな~」
彩斗から受け取って、スララも風船作りに挑戦し始めた。
彼女も始めは苦戦するだろう、そう彩斗は高をくくっていたが、以外や以外、スララは一発でフレスベルグよりも大きな風船を作り出してしまった。もうフレスベルグの面目は丸つぶれと言っていい。
「(怒)」
「わ~、すごく面白い~。見て見て彩斗、風船がこんなに大きくなるよ~」
「(怒)(怒)」
「うわあ、フレスベルグが怒ってる、も、もうやめて、スララはやめて、君のすごさはもうわかったから。うわ、フレスベルグがちょっと目に涙を溜めてるよ……っ」
白衣の青年もやってきた。
「……なんであるか? どれどれ……ほうっ、ガムであるか。彩斗の世界にも存在しているとはな。それなら、ワタシも挑戦してみよう」
不敵な笑みを浮かべながら、
「フフ、何を隠そう、故郷の世界ではワタシは、ガムの貴公子と呼ばれたくらい、上手に風船を作り上げることができるのである!」
「エルンストさんも挑戦しないでください! わ、フレスベルグが悔しさのあまり地団駄を踏み始めちゃった、ど、どうしよう、いったいどうすれば……っ、き、気を休めて、フレスベルグーっ」
顔を真っ赤にして、フレスベルグは風船を大きくしようとする光景、大変ではあったが、賑やかな光景だった。
† †
「楽しかったね~」
「いや、ボクは楽しいよりも疲れた……」
チューインガムの騒動から数分後。彩斗はぐったりとして座り込んだ。
フレスベルグの顔は元に戻っている。べとべとで葡萄の匂いばかりの顔はスララのリコリスで拭かれ、元と同じ、いやそれ以上につるつるの肌となっていた。
リコリスはひんやりとしている他に常に潤いも帯びており、それで拭けば、大抵の汚れは落ちるのだった。
「それにしても、チューインガムって美味しいんだね~。風船も楽しかった~」
唇をほころばせて上機嫌なスララだが、彩斗としてはフレスベルグが気にかかる。
というより、彼女は彩斗の方を見ている。じっと、ジト目で眺めるその姿からは結構な重圧が掛かってきていて、彩斗は身をすくませる。
「あの、フレスベルグ……?」
「誰が呼び捨てでいいって言ったの。尊敬語つけろ」
「口調が微妙に乱暴になっている!?」
思わず後ずさりした後、
「い、いや、あの、ごめん。まさかあそこまで負けず嫌いだとは知らなくて。その、今度からは気をつけるから。だから機嫌直して。フレスベルグ……さん」
「……。やっぱさん付けはいい」
「え?」
「あのお菓子……チューインガム? 美味しかったのは確かだし。まあそもそも彩斗が悪いわけじゃないから。別に気にしてない」
「そうなんだ……それなら良かった……」
「だから彩斗は、エルンストのウネウネ草と、クネクネ草と、ビンカン草を食べること」
「やっぱり機嫌が直ってなーい!? そ、そんな、エルンストさんの怪しい調合物なんて食べられないよ!」
「呼んだであるか? 美味しいぞ」
「い、いや、いいです、いりません。食べたくないです」
「食べたら許す。嫌なら彩斗の顔にガムくっつける」
フレスベルグは意外と、子供っぽい仕返しだった。
「いや、でも……っ。ごめん、スララ……助けて……っ」
思わず振り向いた彩斗だったが、スララはおっとりと、
「わたし、エルンストの調合興味あるから、彩斗と一緒に食べる~」
「そ、そういう問題じゃないよ、スララ……っ」
「? でもエルンストの調合物、美味しそうだよ? 一緒に、食べよう~」
「そうじゃなくて……っ、ああもうっ」
彩斗は慌てて、フレスベルグへと向き直った。
「その……勘弁してほしい。他にできることがあるならそっちをやるから。エルンストさんのは、勘弁してくれないかな」
「じゃあ、チューインガムのコツ、もっと教えて」
「え……?」
意外な物言いに、彩斗は目を瞬かせる。
「フレスベルグが誰かに負けるなんて許せない。負けたなら練習する。相手を上回る。そして、勝つ。――スララ」
「なぁに~」
スララののんびりとした返事に、フレスベルグはビシっと、指を差して宣言する。
「次は負けない。フレスベルグが、必ずあなたより大きな風船を作る。覚悟して」
長い髪を揺らめかせ、わざわざ体育座りを解いて立ち上がってから、フレスベルグは宣言する。
フレスベルグの眼がぎらぎらと光っている。よほど悔しかったのだろう、彼女の瞳は闘志そのものだ。
「わたしだって、負けないよ~。首を洗って待ってる~」
言葉は穏やかだがスララも瞳の奥では対抗心に燃えている。彼女もなかなか負けず嫌いな性格のようだった。フレスベルグが負けじと眼力を強める。
「フレスベルグは絶対にスララより大きな風船を作る。そしてスララの悔しい顔を見てやる」
「わたしも絶対負けない~。さっきみたいなフレスベルグの地団駄、何度も見る~」
「あ、あれは……っ」
急に、フレスベルグは頬を紅くしてキッと睨みつけた。
「一回だけだし。もう二度と醜態は晒さない。次からは絶対勝つ。だから――」
フレスベルグは、そうして彩斗とスララに断言した。強く、激しい声音で。
「闘技で負けるのは許さない。あなたたちは、絶対に勝ち残って」
一瞬だけ、彩斗はきょとんとした。けれど、すぐになんだか嬉しさが胸に広がっていく。
「それは――もちろんだよ。ボクたちはこれからも勝利する」
「わたしも同じだよ~。次も頑張ろうね、彩斗」
「ふんっ」
それっきり、フレスベルグはむっつりとした表情で顔をそむけてしまった。
それまでと同じような雰囲気で、少しだけ何かが変わった彼女の空気。
苦笑して、エルンストが彩斗に話しかけてくる。
「ワタシも、君たちには勝ち残ってほしいのである。このゲームは己の精神力との戦いだ。少しでも気の許せる相手がいれば、それに越したことはない」
「そうですね。ボクたちも、同じ気持ちです」
「みんなで勝ち続けられるよう、頑張ろう~」
可愛いえくぼを作り、手を上げるスララ。
戦友、という単語が彩斗の頭に浮かんでくる。これから先、闘技は激しくなるかもしれない。けれど彼らと助け合うことができるなら、困難は乗り越えられる。
エルンストが握手を求めてくる。彩斗がそれに応じる。スララがフレスベルグにも握手を求める様子を見ながら、彩斗はそう思っていた。




