第10話 ジュースと間接キス
天空宮殿内において、食事は一日に三度運ばれる。
正確に同じ時刻に運ばれてくるわけではない。ガーゴイルが牢屋にまで持ってくる食事の間隔はおおよそ五時間ごとであり、毎回質素な内容の料理が、ガーゴイルの石のこすれるような声と共に届けられる。
「人間。ソレとスライムの娘。アルシエル様のありがたい気遣いダ。精々感謝をして、食べるがイイ」
牙を剥き出しにして、キキハハと笑う石の番人。
けれど、彩斗は、さすがに初めてほどの恐れは抱かない。
ガーゴイルの役目は、闘技のときはペアの先導。食事と湯浴みのための湯を運ぶ以外は牢屋のある回廊の見回り。よほどの騒ぎを起こさない限りは皮肉を言うだけの石像で、慣れれば耐えることは可能な口うるさい番人だった。
むしろ毎回運ばれてくる質素な食事を、どうやって美味しく食べるか、ということに、彩斗とスララは気を費やす。
「スープは、あんまり味が良くないね……」
「そうだね~。このパンも、硬いだけで美味しくない。飲み物も温いお水が一杯だけだよ~。もっと冷たい果実ジュースが飲みたいな」
木製の容器に木製のスプーン、錆びた鉄製の盆の上に並んだ食事は、豆や惣菜の入ったスープと、小魚、麦パンに、水が一杯だけ。小魚は場合によっては干し肉に変わる場合もあるが、質素な食事と言えた。
「ジュースって、エレアントにもあるんだ」
「あるよ~、集落には木の実が成る樹がいくつもあって、そこから作ってたの~」
「果実、果実のジュースか……」
ふと、彩斗は鞄の中に何かあったかと探してみる。
背負うタイプの鞄の底の方、硬い感触があったので、それを取り出してみた。
「これ、あるけど、飲んでみる……?」
「なぁに? 不思議な筒~」
取り出したのは缶ジュースだった。学校の昼休み、校内の自販機で買ったのはいいのだが、間違えて買ったために飲んではいなかったものだ。
パイナップルの果汁五パーセントと容器に書かれたそれを、スララに見せる。
「これはね、缶ジュースって言って、開けると中にジュースが入ってるんだ。ちょっと温くなってると思うけど、美味しいと思う」
「わー、すごい~。飲みたいな」
彩斗はプルタップを開けて見せた。シュワっという軽い音に、スララは目を丸くして、
「いい匂い~。美味しそう~」
「半分くらいまで、スララが飲んでいいから。その後はボクが飲むね」
目をきらきらとさせるスララに、彩斗は手渡しする。
一瞬、全部は飲まずにとっておくべきかと考えたが、確かあと一本だけ別のジュースも鞄に入っていたはずだ。そっちを大事に飲めばいいだろう、と彩斗は考えていたが――。
「わ~、とっても美味しいよ。良い匂い、舌に染み渡る甘い味~。すら~、こんなに美味しいジュース、初めてっ」
ほっぺがこぼれ落ちた笑顔で、彼女は缶を差し出してくる。
「はい、残りは彩斗の分だよ~」
――あれ? これってもしかして、間接キスなのでは……?
硬直する。もしかしなくともこれは、噂に聞く間接キスではないか。だとしたら、素直に受け取ってはまずい……?
いや、しかしと彩斗は煩悶する。そんなこと考えてはダメだ。スララにはやましい考えなんて一切ない。心から嬉しそうな表情で、彩斗も美味しいと言ってくれないかな、一緒にジュースを満喫したいな、とうきうき顔で見つめているのだ。
それは純粋な共有感で、下心なんてもってのほかで、大きな期待だけを寄せる彼女に、きちんと応えるべきだ。
それでも彩斗の視線は、はにかむスララの桜色の唇に吸い寄せられてしまう。くりくりっとした大きな瞳。ほのかに覗く真っ白な鎖骨。彩斗の胸がどきどきする。顔が徐々に赤くなる。あまりに純真な眼差しに、思わず視線を逸らしてしまう。
「あれ、彩斗。少し顔が紅いよ~。大丈夫?」
スッと手を額に伸ばしてきたので、慌てて仰け反っていく。
「ぜ、全然平気だよ。何か変だったかな? ボク飲むよ、そのジュースっ」
深く考えても仕方がない。彩斗は缶を受け取った。そして雑念を吹き払うように、一気に全部飲む。
「間接キスだね~」
「ぶほっ!」
げほごほげほっと、彩斗は咳き込んだ。
「す、スララ! 何てこと言うんだ!」
「あははは! やった~、彩斗の怒った顔、見ることができたよ~」
「スララ、もう、まったく君ってやつは!」
お腹を抱えて、楽しそうにスララは笑う。それでもう、何か彩斗も馬鹿らしくなって、釣られて頬を緩ませてしまった。
おかしくて、楽しくて、スララの笑顔を見るだけで、彩斗は幸せな気持ちに浸れていった。この瞬間が何よりも大切な一瞬に思える。今、この時の記憶を、大事に仕舞っておこう、ずっとずっと、忘れないと思った。
小さな声で、スララが口にする。
「……わたし、男の子と、間接キスしちゃった~。恥ずかしいな」
「え? スララ、何か言った?」
「ううん、なんでも~」
リコリスは陽気に躍る。スララの照れを、隠すかのように。
くすくすと少女はくすぐったそうな表情で、いつまでも歌うように声を弾ませていたのだった。
† †
コロシアムの大きさは、ざっと見て直径は二キロ近くある。
階段状の観衆場は数万人が闘技を見られる規模があり、灰色と硬質な外観が無骨 な印象を抱かせる。
その観衆場で、いくつも点在しているのは石像だ。
剣を持った戦士の像、牙を剥く魔獣の像、天を仰いで誰かに助けを乞う老人の像、さらには悲しみの表情を浮かべる人魚の像がある。
あまりにも多い数の石像だった。
そしてそれらに共通点はない。若々しい剣士の像も、魔獣の像も、老人の像も、どれもが精巧であるという点だけは一致しているが、単なる調度品というのには作り込まれ過ぎ、景観を良くしようという意図ならば、悪趣味過ぎる風景だった。
まつ毛の形から服のしわに至るまで、石像はあまりに精巧だった。今にも動いて声を発しそうなその様子。しかもそれが、数百体以上もあるのだから、不気味にも程がある。
「うわっ」
つい憤怒の表情を浮かべる石像と目が合ってしまった。彩斗はスララの隣を歩きながら、小さな悲鳴を洩らす。
「平気だよ~、彩斗。これ全部、石像だもの。動かないよ」
「でもさ、妙にリアルというか……うまく出来過ぎだよ。まさかとは思うけど、これ全部、アルシエルが魔法で石にした人たちじゃないよね……?」
自分で言った言葉に、彩斗はごくりと唾を飲み込む。
スララとの穏やかな時間が、嘘のようだった。彩斗とスララは、あの後、腕輪が光り、ガーゴイルにコロシアムへと連れて来られていたのだった。
薄暗い牢屋を抜けて長い廊下を歩かされ、しばらくした後の大きな扉を潜り、数多の石像があるコロシアムへ。
闘技の時間となったのだ。
しかし、今回は彩斗たちが戦うのではない。別のペアが闘技を行うことになっている。
アルシエル・ゲームは毎日一回、ランダムに二組が選ばれて戦わされるルール。腕輪が紅く光れば闘技者として戦い、黄色く光れば、観衆場で闘技を見守ることになる。
今回は、腕輪は黄色に光った。
残りのペアの数は、八十八組。その数からして、彩斗たちが連続で戦わされる可能性は少なかった。
しかし、コロシアムにある石像の光景に、彩斗は身が縮こまってくる。
最初の闘技と前回の闘技において、敗北したペアは石化させられ、観衆場の片隅に置かれてしまっている。カーバンクルとその相棒の少年、殺人鬼夜津木とサイクロプスは石化したまま、ずっとコロシアムの景観の一部となっているのだ。
だから連想してしまう。アルシエルは以前にも同じゲームを行い、多くの敗北者を生み出し、数百体もの石像を創りだしたのではないかと。そう彩斗は思ってしまう。
しかしスララはすぐさま振り向いて、
「それはないよ~。あのね、魔素のことを前に少しだけ話したけど、その魔素から、いつ頃魔法が使われたのか、ある程度はわかるの」
「え、そうなの?」
「うん」
スララは歩いてすれ違った石像を指さした。
「例えば、今すれ違ったユニコーンの石像の近くの魔素はね、昨日とか、一昨日とかできたものじゃないよ~。もっと前のものだよ~」
彩斗は石像をじっと見て観察した。極めて薄いが、よく見れば石像の周囲に、親指の爪ほどの大きさの光る円球が浮いている。
それが魔素だろう。同じものが周囲全ての石像の周りにも浮遊していた。
「そうなんだ……どのくらい前にできた魔素なのか、正確な時間はわかる?」
「ううん、わたしは魔法が使えないから、そこまではわからない~。でもかなり前だと思うよ~。ひょっとしたらアルシエルが生まれるより前かも」
彩斗は少し考えた。その内容は、黒いウェディングドレスのような衣装を着て、このゲームの支配者として君臨している魔神。
「……アルシエルって、人間なら二十歳は確実に超えてると思うけど……魔物の、というか、エレアントの住人の見た目と年齢って、人間と変わらないのかな」
「わたしは何歳に見える~?」
ふわり、とスカートを翻してスララは軽く微笑んだ。
「えっと、見た目だけならボクと同じくらい。……十五歳前後?」
「うん。わたしは十六歳だよ~。でもね、集落ではもう少し下だと思われてたよ。いつも十歳ちょっとの子たちと、遊んでたからかな~?」
「あはは……」
なんとなく花より団子という言葉が浮かんだ。くるくる変わって、素直な感情表現が多いスララにはぴったりの言葉かもしれない。少しだけ、彩斗は微笑ましくなった。
「魔物も、人間と同じ外見年齢……少なくとも、人型の魔物はそうなんだ。ということは……周りの石像は、アルシエルがやったわけじゃない可能性もあるのかな」
「そうだね~。でも結局は、よくわからない~」
「いったい、何なんだろ……本当に誰がこんなものを……? 怖い話だ」
「うるさいゾ、人間。魔物の娘。黙って歩ケ」
「う……」
ガーゴイルが、振り向いて牙を剥く。
とりあえず今日は戦わされる心配はないと知って、安堵していた彩斗だったが、前を歩くガーゴイルに怒鳴られると恐れで身がすくむ。
「着いたゾ。あとはどこでも勝手に観衆すればいい。もしもコロシアム外部へ出ようとしたら、制裁が加えられることを知レ。オマエたちは狂乱の宴の肴に過ぎない。ソレを、忘れるナ」
怪鳥じみた笑い声を発しながら、先導したガーゴイルが離れて行く。
他のペアも、同じようにしてガーゴイルたちに連れて来られたのだろう。すでに観衆場のあちこちには、石像の間を縫うようにして、何人もの人間や魔物が立ち尽くしていた。
彩斗が小刻みに震えていたからだろう、そっと、スララが彩斗の手を握った。大丈夫、わたしがいるよ、怖くなんかないよ、と言うかのように。
彩斗はその手を握り返した。
柔らかい手だった。彩斗よりも少し小さく、ややひんやりとしたスララの手は、きゅっと力を込めてくる。
スララがいて本当に良かったと彩斗は思う。不気味な石像、威圧的なガーゴイル。さらには武装した人間や爪牙を持つ数多の魔物たち。そんなものに囲まれていて、彩斗一人だったら、耐えるなんて無理な話だった。
けれどスララが隣にいるだけで救われる。胸が暖かくなる。手を繋いで力を込め合っていると、それで不安はサアッと霧が晴れるように吹き飛んでいった。
「ありがとう、もう大丈夫」
彩斗は感謝の気持ちを込めてスララを見つめた。
「良かった~。彩斗が震えてると、わたしもちょっと悲しいよ。だからね、笑顔、笑顔が一番だよ~」
「……なんか強張った笑みになっちゃうな……。うーん、もう少し度胸があればいいんだけど……」
「じゃあわたしが笑顔にしてあげる~。ほっぺにチューでいい?」
「え、え、ええっ!?」
驚愕して彩斗は少し飛び上がった。
「冗談だよ~」
いたずらっぽい表情でスララは小さく微笑んだ。
「えへへ、また彩斗の新しい顔が見れたよ~。今度は跳びながら驚く顔~」
「……あ、あのねえ、スララ。君ってやつは……」
「わー、彩斗がちょっと怒った~。拳を上げて襲ってくる~」
くるくる回って、くすりとスララは笑う。
リコリスが楽しそうに揺れる。スカートが小さく舞った。白い手を口元に添えて、楽しげにクスクスと彼女は笑顔をこぼれさせる。
彩斗は胸に太陽が宿ったかのような感覚を覚えた。
気持ちが浮き立ってくる。何かかけがえのないものが灯った気がした。ふわふわとした幸福感。思わず、妖精のように逃げるスララに、声をかけようとして。
「おい兄ちゃん、いいナイフを持っているな」
彩斗の背後から、野太い声がやってきた。
「――っ!」
振り返って見てみれば、彩斗よりも頭二つ分は大きい髭面の男だった。
片手には短槍。腕は太く、目は淀んでおり、黄色い歯が髭の奥から見えた。男は彩斗の腰に下げたコンバットナイフと、その鞘を見て、
「前の闘技で、あの夜津木とかいう青年からもらったやつだよな、それ。戦いの様子を見ていたが、なかなかいい得物じゃねえか。ちょっと、おれにくれねえかな」
「だ、ダメです……」
「そんなこと言わずにさ。頼むよ。兄ちゃん」
「ダメなものは、ダメです。これは、ボクが夜津木から託された物で――」
「くれねえのなら、力づくで奪うんだよ。それでもいいかね?」
「彩斗、下がって!」
スララの声に走ろうとした彩斗だったが、寸前、男は太い腕を振るわせる。
短槍が弧を描く。
彩斗の肩へ目掛けて、叩き下ろされる。
とっさに後ろへ跳んでかわした彩斗だが、男は下卑た表情で短槍を薙ぎ払う。切っ先が彩斗の前髪をかすめた。額すれすれを鋭い刃が通り抜けていく。冷や汗と共に床へ転がろうとした彩斗は、しかし、ここが階段状の足場だったことを思い出し、心臓が跳ねた。
「危ないっ」
とっさにリコリスを伸ばして、スララが彼を受け止めた。急いで彩斗を後ろへ庇う。半透明の房で牽制するかのように、二房とも漂わせたスララは、
「いきなり何をするの~。こんなことしたら、ダメだよっ」
「ナイフを寄こせ。そうすれば、攻撃はやめてやるっ!」
蛮声を上げながら、一直線、体重を乗せた刺突がスララを襲う。
リコリスが鞭のように振るわれた。
だが柔らかいリコリスでは、男を一瞬仰け反らせることしかできない。すぐに男は雄叫びを響かせ、短槍を、スララの頭へ振り下ろす。
とっさにスララはリコリスの鎧を発動。半透明の膜が全身に行き渡る。短槍の叩き付けは無力化したが、男は下卑た笑いを浮かべる。
「やっぱりだ。斬撃や打撃は効かず、軌道も読みにくい能力を持っているが、肝心の攻撃力がない。おい、ワストーっ! 小僧のナイフを奪うぞ、やれ!」
ハッとして彩斗たちが後ろを見てみれば、やや離れた位置に、鎖鎌を振り回す小男がいた。
天井の照明を反射して、煌々と鎌の刃が光っている。
その小男の眼は、短槍の男と同じ凶悪なものを感じた。
「彩斗、逃げてっ」
スララが叫ぶが、鎖鎌の男は巧妙だった。階段の足場を駆け上がろうとする彩斗へ鎖鎌を投げつけると、鎖を足首に絡ませ、彼を転倒させてしまう。
「あっ」
小さな悲鳴が洩れ、肘が硬い床に当たる。
「くはは。元の世界では妖魔狩りだった俺から、逃げられると思うなよ」
鎖鎌のうち手元に残した分銅を、小男は引っ張り上げる。鎖がぴんと張った。絡まった鎖に引っ張られ、彩斗が小男の方へと引き寄せられていく。
スララがリコリスを伸ばして助けようとするが、刹那、短槍の男が短い詠唱を唱え、手から電撃の矢を放つ。
「あぁっ」
鋭い黄色の矢がスララの脚に突き刺さる。眩い光。舞い散る紫電。リコリスの鎧では防げない電撃を直撃され、スララが痛みに顔を歪める。
「邪魔をしようとするからそうなる。ワストー! 早く小僧からナイフを奪え!」
「おうよ!」
ワストーと呼ばれた鎖鎌の小男の足元にまで引き寄せられた彩斗が、それでもナイフは守ろうと必死に鞘をかばう。だがダメだ。膂力の差は歴然で、ワストーはやすやすと彩斗をうつ伏せにし、ナイフの鞘に手をかける。
瞬間、彩斗の中で炎のような怒りが湧き上がる。
「くそ……っ、簡単に、取らせるか!」
「うぐあっ!?」
彩斗の膝蹴りが、小男のあごに直撃する。さらに拳を一発。顔面にパンチを打ち込んだ彩斗は、距離を取るべく階段状の足場を駆け上がろうとして、
「このクソガキがっ!」
「うわわっ!?」
巻き付いたままの鎖に引っ張られ、あえなく転倒してしまう。
ワストーが彩斗の元へと歩み寄る。今度は膝蹴りもパンチも警戒して、密着してはこない。代わりに詠唱をする。小男の空いた左手に向かって、凄まじい勢いで空気が吸い込まれていく。
鞘の留め具が、吸引風に負けそうになり、外れかける。
「そのナイフ、それなりの切れ味を持っているな。武器はいくらあってもいい。お前の代わりに、俺たちが使ってやる!」
「だめ、やめて!」
スララが彩斗のもとへ駆け寄ろうとするが、短槍の男が牽制して動けない。
吸引風でナイフの留め金が外れかける。彩斗は必死で押さえようとするが、転んだ拍子で手を強打したせいか力が足りなかった。
「く、こんな、こんな奴らにっ!」
彩斗はぎりっと歯ぎしりした。イチかバチか、ワストーに飛び掛かろうと脚に力を込めて――。
「加勢しよう。見るに耐えん光景である」
ぼさぼさの髪と、汚れた白衣をなびかせながら、長身の青年がワストーの隣に降り立った。
「あ? なんだてめえ――」
青年の動きは一瞬だった。白衣のポケットからガラス管をワストーへ投げつけると、途端に、中から溢れた橙色の液体が男へこびりついていく。
「な、なんだあ!?」
液体が男の服にこびりついた瞬間、がくりと床に縫い付けられたように、ワストーが崩れ落ちた。何が何だかわからないまま手足を動かそうとするが、無駄な行為だった。
どれほど形に力を込めても、顔を真っ赤にして逆らおうとしても、叶わない。まるで、床に吸い寄せられるかのよう。
ワストーは血走った目で白衣の青年を睨みつける。
「てめえ! 何をしたっ!」
「君の服に『意思』を与えただけである。付与した命令は、『床に伏せる』こと。なに、ほんの十分くらいである。それまで大人しく、這いつくばっていればいい」
「何だくそ、体が重い!? 違う、服が勝手に――動いて……っ!?」
見ればワストーの装束が、わずかにうごめきながら床に張り付いていた。まるで生き物のようだった。起き上がろうとして腕を立たせるワストーに逆らうように、彼の服は床に伏せようとする。
「無駄である。それは対巨人用の捕縛薬だ。人では絶対に脱出できぬよ。大人しくしているがいい」
言って、白衣の青年は、スララと対峙する短槍の男の方へと振り返る。
「さて。相棒は倒したのである。続けるか?」
「はっ、舐めやがって。ぶっ飛ばしてやるよっ!」
「仕方ない。フレスベルグ。頼んだのである」
その瞬間、ゾッとするほどの殺気に気づき、短槍の男が硬直する。
「面倒くさい。ばかみたい。なんでフレスベルグがこんなことするの。関係ないのに」
「な」
男が振り向いた先にいたのは、髪の長い少女。だるそうに座り、ぞんざいな様子で手をかざしながら、不機嫌そうな声音を響き渡らせる。
「面倒だから消えて。一発で」
次の瞬間――少女の手のひらから、膨大な勢いの風が放たれた。
短槍の男が、いとも容易く吹き飛ばされる。
避ける間も構える間もない。悲鳴すらも吹き飛ばされ、男は観衆場の遥か向こうへと消えていった。
弾かれた短槍が、円を描きながら落ちてくる。
それを少女は、蝿でも払うような仕草で弾いた。
ミシリ――と小さな音を立て、短槍が半ばから折れて砕け散る。
撃ち放った風の余波が周囲に荒れ狂う。何人かのペアたちが振り向き、どよめきを発した。長い髪の少女はそんな視線は何でもないかのように、髪を掻き上げる。
「はあー、だるい。眠い。なんであんな下衆までいるの。ベッドで寝ていたい」
「そう文句を言わないでほしいである、フレスベルグ。君のおかげでひどい目に遭っていた二人たちを助けることができた。良かったではないか」
不機嫌に愚痴る少女に、白衣の青年が語りかける。その直後、ふと青年は彩斗とスララに向けて、気遣わしげな視線を寄越した。
「大丈夫であるか? まったく、散々な目に遭ったな」
助かった。
そんな安堵の思考を浮かべさせ、彩斗とスララは、ほっとお互いに顔を見合わせ、破顔したのだった。




