おかえり
午後六時十二分。
佐藤健一は、スーパーのレジに並んでいた。
カゴの中には、牛乳、食パン、それからイチゴのショートケーキが二つ。
別に何か特別な日というわけではない。
ただ、娘の彩花が好きだから買った。
六歳になる彩花は、イチゴが大好きだった。
ケーキの上に乗っているイチゴだけを先に食べて、最後に残ったクリームをスプーンですくう。
妻の由佳は、いつもそれを見て笑っていた。
『イチゴだけ先に食べたら、最後クリームしか残らないでしょ』
『だってイチゴが好きなんだもん』
『じゃあ、パパのイチゴもあげようか』
『ほんと!?』
そんな何でもない会話を思い出し、健一は少しだけ笑った。
スマートフォンが震えた。
由佳からだった。
『牛乳もお願い!』
「買ったよ」
『あと、彩花がパパに早く会いたいって』
健一はレジを進みながら返信した。
『もうすぐ帰るよ』
送信時刻は午後六時十四分。
それが、妻との最後のやり取りになった。
事故が起きたのは、それから七分後だった。
自宅近くの交差点。
横断歩道を渡っていた由佳と彩花に、大型トラックが突っ込んだ。
信号は赤だった。
トラックの運転手は、交差点の手前で意識を失っていた。
ブレーキが踏まれることはなかった。
目撃者の話によれば、由佳は最後の瞬間、彩花を抱きかかえるようにしていたという。
衝突音は、近くの住宅にまで響いた。
道路には買い物袋が散乱していた。
割れた卵がアスファルトに広がっていた。
少し離れた場所には、彩花が履いていたピンク色の靴が片方だけ落ちていた。
救急隊員が到着したとき、由佳はすでに意識を失っていた。
彩花は、かすかな呼吸をしていた。
「女の子、まだ呼吸あります!」
隊員の声が飛ぶ。
由佳の身体を確認した隊員は、一瞬だけ動きを止めた。
その後、無線で何かを伝えた。
誰も、彩花に母親のことを尋ねなかった。
尋ねられる状態ではなかった。
午後七時三十一分。
健一のスマートフォンに電話が入った。
知らない番号だった。
「佐藤健一さんのお電話でしょうか」
「はい」
「警察の者です。奥様とお子さんが交通事故に遭われまして」
健一は、手に持っていた買い物袋を落とした。
「……え?」
「現在、病院に搬送されています。すぐにこちらへ来ていただけますか」
「妻は? 娘は?」
「詳しい状況は病院でご説明します」
「二人とも生きてるんですよね?」
電話口の警察官は、少しだけ間を置いた。
「とにかく、急いで来てください」
健一は走った。
タクシーを捕まえるまでの数分間、何度も電話をかけ直した。
誰も出なかった。
病院に到着したとき、由佳はすでに亡くなっていた。
医師から説明を受けた。
何を言われたのか、ほとんど覚えていない。
ただ、妻の顔を見せてもらったとき、健一は思った。
どうして寝ているんだろう。
どうして起きないんだろう。
もう帰ろうよ。
彩花が待っているよ。
そんな言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
「娘さんは、現在手術中です」
その言葉で、健一はようやく顔を上げた。
「助かるんですか」
医師は答えなかった。
「先生。お願いします。娘だけは」
健一は頭を下げた。
「お願いします」
手術室の前で、ずっと祈っていた。
妻を失ったことを悲しむ時間さえ、与えられなかった。
冷たいベンチに座り、両手を握りしめていた。
向かいの壁には、子供向けのポスターが貼られている。
『明日も元気に笑おう!』
その下には、赤いクレヨンで描かれた太陽と、三人の家族の絵。
健一はそれを見ていた。
見ているというより、そこから目を離せなかった。
手術室の赤いランプは、もう三時間も点灯していた。
────────
四か月が経った。
由佳の葬儀は終わった。
事故の事情聴取も終わった。
警察から何度も説明を受けた。
運転手は事故当時、急性の意識障害を起こしていたらしい。
飲酒も薬物もなかった。
故意でもなかった。
ただ、突然意識を失った。
それだけだった。
健一には、その説明が何の意味を持つのか分からなかった。
由佳は帰ってこない。
彩花は、まだ病院にいる。
それだけが現実だった。
午前十時二十六分。
病院から電話があった。
「佐藤さん、娘さんの意識が戻りました」
健一は仕事中だった。
電話を切ると、上司に何も説明せず会社を飛び出した。
病室に入る。
ベッドの上で、彩花の目がゆっくり動いていた。
「彩花……?」
娘の瞳が、父親の方を向いた。
「パパ……?」
その声を聞いた瞬間、健一は泣いた。
何度も娘の手を握った。
「よかった……本当によかった……」
彩花はぼんやりと天井を見ていた。
しばらくして、小さな声で尋ねた。
「ママは?」
健一の手が止まった。
「……ママはね」
言葉が出なかった。
「ママ、どこ?」
健一は娘の手を握り直した。
「お空に行ったんだ」
「いつ帰ってくるの?」
「……帰ってこないんだ」
彩花は黙った。
少しして、もう一度尋ねた。
「じゃあ、パパは?」
「パパはここにいるよ」
「ずっと?」
「うん。ずっといるよ」
健一はそう答えた。
そのときは、本当にそう思っていた。
妻は死んだ。
それでも娘は生きている。
それだけでよかった。
家に帰り、二人で暮らそう。
毎朝、朝ご飯を作ろう。
保育園にも送り迎えをしよう。
今まで仕事を理由に断っていた遊園地にも連れて行こう。
彩花が欲しがっていたピンク色の自転車も買おう。
何も特別なことはいらない。
ただ、二人で生きていければいい。
────────
医師から説明を受けたのは、その日の午後だった。
彩花には重度の脳損傷が残っていた。
手足の運動機能に障害があり、自力で身体を動かすことは難しい。
言葉を理解する力や、意思を伝える能力にも大きな影響が出ていた。
今後、どこまで回復するかは分からない。
食事にも介助が必要になる。
長期的なリハビリと介護が必要になるだろう。
「以前のような生活に戻ることは、難しいと思います」
健一は資料を見つめていた。
文字が目に入ってこない。
「それでも、生きているんですよね」
「はい」
「だったら、いいです」
医師が顔を上げた。
「生きていてくれれば、それでいいです」
健一は何度も頷いた。
その夜、病室で眠る彩花の髪を撫でた。
「大丈夫だよ」
返事はない。
「パパがいるからな」
窓の外では、車が行き交っていた。
四か月前と何も変わらない街だった。
────────
退院したのは、事故から一年近く経った頃だった。
健一は会社を辞めていた。
長期間の休職は難しかった。
有給休暇も使い切っていた。
上司は最後まで引き止めてくれたが、最終的には退職を選んだ。
彩花を一人にするわけにはいかなかった。
自宅には介護用のベッドが設置された。
リビングの家具をいくつか処分し、車椅子が通れるようにした。
由佳が使っていた化粧台もなくなった。
壁に飾ってあった家族写真だけは残した。
そこには、三人で遊園地に行ったときの写真があった。
彩花は健一の肩車に乗り、由佳は隣で笑っている。
健一はその写真を、毎日見ていた。
最初の一週間は、何もかもがうまくいかなかった。
食事を与えるだけでも時間がかかる。
飲み込みがうまくできず、むせることもあった。
看護師から教わった方法を何度も確認しながら、慎重に食べさせる。
それでも失敗する。
口元から食べ物がこぼれる。
服が汚れる。
何度も着替えさせる。
入浴も簡単ではなかった。
身体を支える方法が分からず、腰を痛めた。
夜中には何度も目が覚めた。
彩花が泣いている。
何かを訴えている。
でも、何を求めているのか分からない。
「どうした?」
返事はない。
「お腹痛い?」
違うのかもしれない。
「暑い? 寒い?」
彩花は泣き続ける。
健一は娘の手を握った。
「ごめんな。パパ、分からなくてごめんな」
朝になっても、答えは見つからなかった。
ある日の夕方。
健一は彩花に食事を食べさせていた。
その日は調子が悪かった。
何度も口に入れたものを吐き戻してしまう。
服も、エプロンも、ベッドのシーツも汚れていた。
健一は着替えを取りに行き、戻ってきた。
また吐いていた。
「……もう」
声が漏れた。
「もう、頼むから……」
彩花は父親を見ていた。
健一は汚れたシーツを剥がした。
「どうして、食べてくれないんだよ」
言ってから、すぐに後悔した。
彩花の身体が小さく震えた。
健一は手を止めた。
娘は何も悪くない。
食べたくても食べられないのかもしれない。
苦しいのかもしれない。
怖いのかもしれない。
分かっている。
分かっているのに。
「……ごめん」
健一はその場にしゃがみ込んだ。
「ごめんな、彩花」
娘の目から涙が一筋流れた。
それが悲しかったのか、痛かったのか、偶然だったのか。
健一には分からなかった。
その夜、由佳の写真の前に座った。
「俺、ちゃんとできてるかな」
返事はない。
「お前なら、もっと上手くできるんだろうな」
写真の中の由佳は笑っていた。
健一はしばらく、その顔を見ていた。
そして、声を殺して泣いた。
それから健一は、介護の記録をつけるようになった。
食事の量。
睡眠時間。
薬を飲んだ時間。
排泄の回数。
体調の変化。
最初は看護師に言われたからだった。
やがて、それが日課になった。
ノートには細かな数字が並ぶ。
午前六時四十分、起床。
午前七時十分、朝食。
午前八時、薬。
午前十時、訪問看護。
午後零時、昼食。
毎日、同じことの繰り返しだった。
カレンダーの予定は、病院と訪問看護とリハビリで埋まっていった。
健一自身の予定は、一つもなかった。
────────
それから数か月が過ぎた。
健一の貯金は、少しずつ減っていた。
退職金も、生活費と医療費で消えていった。
役所に相談し、利用できる制度を調べた。
訪問介護や福祉サービスも使った。
それでも、すべてを補えるわけではなかった。
何より、夜は健一一人だった。
眠れない日が続いた。
ある朝、洗面所で鏡を見た。
頬がこけていた。
髪には白いものが混じっていた。
まだ三十六歳だった。
ある日、担当のケアマネジャーが施設入所の話を持ちかけた。
「お父さんも、少し休む時間が必要だと思います」
健一は黙っていた。
「施設に入ることは、決して悪いことではありません」
「分かってます」
「専門的なケアを受けられますし、ご本人にとっても良い環境になる可能性があります」
「……はい」
資料を受け取った。
費用。
空き状況。
入所条件。
必要書類。
帰宅後、健一はそれをテーブルに広げた。
署名欄に目を落とす。
ペンを持った。
名前を書こうとした。
だが、書けなかった。
彩花を手放すような気がした。
そんなことではないと分かっている。
自分が介護できなくなれば、彩花は困る。
専門家に任せることも、父親としての責任なのかもしれない。
それでも。
「パパがいるからな」
そう約束した。
あの日の病室を思い出した。
健一は資料を折り畳み、引き出しの奥にしまった。
そのまま、二度と開かなかった。
友人から電話が来たのは、その数日後だった。
「久しぶり。元気か?」
「まあな」
「今度、みんなで集まるんだけど来ないか?」
健一はカレンダーを見た。
翌日はリハビリの日だった。
「悪い。彩花がいるから」
「ああ、そっか」
少し沈黙があった。
「大変だよな」
「まあな」
「また今度誘うよ」
「うん」
電話は切れた。
その後、連絡はなかった。
友人たちはそれぞれ家庭を持ち、仕事を続け、休日には旅行に行ったりしていた。
SNSを開くと、子供の運動会や誕生日の写真が流れてくる。
健一はそれを見ることをやめた。
羨ましいと思う自分が嫌だった。
誰も悪くない。
誰も健一の人生を奪おうとしたわけではない。
ただ、みんな普通に生きているだけだった。
自分だけが、同じ場所に取り残されていた。
────────
それでも、幸せな時間はあった。
ある日の午後。
健一は彩花の手を握っていた。
窓から日差しが差し込んでいる。
テレビでは動物番組が流れていた。
画面の中で、小さな子猫が母猫にじゃれついている。
健一は何となく娘に話しかけた。
「かわいいな」
彩花は画面を見ていた。
「彩花も猫好きだったよな」
返事はない。
「今度、見に行こうか」
そのときだった。
健一の指を握っていた彩花の指が、わずかに動いた。
「……彩花?」
もう一度、指が動いた。
健一は息を止めた。
「パパ、分かる?」
娘の手を握り直す。
指先が、ほんの少しだけ動いた。
健一は笑った。
そして泣いた。
「そうか。分かるか」
医学的には反射かもしれない。
偶然かもしれない。
それでも、その日だけは違った。
健一には、娘が自分に応えてくれたように思えた。
その日から、健一は毎日話しかけるようになった。
スーパーで安かった野菜のこと。
近所の猫が子供を産んだこと。
テレビで見た面白い番組のこと。
由佳のこと。
「ママ、料理上手だったよな」
「彩花が小さい頃、ママのご飯ばっかり食べてたもんな」
返事はない。
それでも話し続けた。
ある日、昔の写真を見せた。
遊園地で撮った写真。
彩花が健一の肩車に乗っている。
「覚えてるか?」
健一は笑った。
「この日、すごく暑かったんだよ」
「彩花、途中で疲れちゃってさ」
「帰りの車で寝ちゃったんだよな」
写真の中の彩花は、笑っていた。
その顔を見ていると、胸が苦しくなった。
もう二度と、あの頃には戻れない。
それでも健一は、スマートフォンを取り出した。
娘の顔を撮影する。
何枚も撮った。
その中の一枚。
彩花の口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。
健一は画面を拡大した。
「……笑った?」
もう一度見る。
やっぱり、笑っているように見えた。
健一はその写真を保存した。
お気に入りに登録した。
そして、毎晩のように見返した。
それは、事故以来初めて撮れた、娘の笑顔だった。
その頃、リハビリの一環として、彩花は音声入力を練習するようになっていた。
うまく言葉を発することはできない。
一つの単語を伝えるだけでも、何度もやり直す必要があった。
健一がスマートフォンを持ち、音声入力を起動する。
彩花が短い言葉を発する。
機械がそれを文字に変える。
間違った文字が表示されることも多かった。
それでも、少しずつ言葉が残るようになっていた。
健一は、彩花が何かを伝えようとするとき、いつも時間をかけて付き合った。
「ゆっくりでいいよ」
「パパ、待ってるからな」
その練習は、いつしか二人の日課になっていた。
────────
彩花の七歳の誕生日。
健一は朝から少しだけ忙しかった。
近所のケーキ屋で、小さなショートケーキを買った。
本当はホールケーキを買いたかった。
でも、食べられる量を考えると、一つで十分だった。
帰宅すると、部屋を少し片付けた。
テーブルにケーキを置く。
ろうそくを一本立てた。
火をつける。
「彩花」
娘の顔を覗き込む。
「誕生日おめでとう」
返事はない。
「七歳だぞ」
健一は笑った。
「もうお姉さんだな」
スマートフォンを取り出し、昔の写真を見せる。
そこには、五歳の誕生日の彩花がいた。
イチゴのケーキを前に、満面の笑みを浮かべている。
「これ、覚えてるか?」
「イチゴいっぱいがいいって、いつも言ってたよな」
健一は、今の彩花を見る。
「また一緒に食べたいな」
しばらくして、ろうそくの火を吹き消した。
健一が代わりに息を吹きかけた。
火が消える。
「上手だな」
そう言って、笑った。
その日の夜、彩花は熱を出した。
最初は、いつもの体調不良だと思った。
しかし、夜になっても熱が下がらない。
呼吸が浅くなっている。
健一は訪問看護の連絡先に電話した。
指示を受け、救急車を呼んだ。
病院に到着すると、彩花はすぐに処置室へ運ばれた。
検査の結果、重い感染症が疑われた。
誤嚥などのリスクを抱えていた彩花の身体は、弱っていた。
医師は説明した。
「非常に厳しい状態です」
健一は何度も頷いた。
「お願いします」
それしか言えなかった。
「どうか、助けてください」
手術室の前で、健一は祈った。
妻を失った夜と同じように。
ただ、今回は違った。
あの頃とは違い、もう何も残っていなかった。
彩花だけだった。
その彩花まで失うわけにはいかなかった。
────────
午前九時三十二分。
医師が出てきた。
健一は立ち上がった。
「先生」
医師は一度、目を伏せた。
「残念ですが……」
健一は何も言わなかった。
「できる限りの処置を行いましたが、心拍を戻すことができませんでした」
「……そうですか」
それだけだった。
病室に通された。
彩花は静かに眠っているように見えた。
健一はベッドの横に座った。
娘の頬に触れる。
冷たかった。
「彩花」
返事はない。
「パパだよ」
当然、返事はない。
「帰ろうか」
健一は娘の手を握った。
「お家に帰ろう」
その言葉を最後に、健一はしばらく動かなかった。
葬儀は小さく行われた。
由佳のときと同じように、棺の中に花を入れた。
健一は彩花が好きだったイチゴを一つ置いた。
「いっぱい食べろよ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
葬儀が終わったあと、健一は一人で自宅に戻った。
玄関を開ける。
「ただいま」
返事はない。
当たり前だった。
リビングには、彩花の車椅子が置かれている。
食事用のエプロン。
薬の袋。
リハビリの記録。
ベッドの横には、使いかけの保湿クリーム。
すべてが、そのままだった。
健一は部屋の中央に立ち尽くした。
そして、妻の遺影を見た。
「由佳」
写真の中の妻は笑っていた。
「俺、約束守れなかった」
彩花に言った言葉。
ずっといるよ。
パパはここにいるよ。
その約束を守る相手は、もういない。
健一は写真の前に座った。
「疲れたよ」
それだけ言った。
一週間後。
近隣住民からの通報を受け、警察がアパートを訪れた。
健一は自宅で亡くなっていた。
発見時には、すでにかなりの時間が経過していた。
詳しい死因は特定できなかった。
事件性は低いと判断された。
警察官が室内を確認していると、テーブルの上にスマートフォンが置かれていた。
画面には、古い通知が表示されていた。
『おかえりなさい。今日も一日お疲れさまでした』
差出人は、由佳の名前だった。
事故の前、家族で使っていたスマートホームアプリからの自動通知。
午後六時になると、家族の帰宅を知らせる設定になっていた。
由佳が帰宅する時間。
彩花が帰宅する時間。
健一が帰宅する時間。
三人が揃っていた頃の、いつも通りの時間。
アプリは、まだ三人を家族として認識していた。
警察官は画面を見つめた。
その下に、小さな通知があった。
未送信メッセージ。
送信者は、佐藤彩花。
────────
それから数か月後。
その部屋に、新しい住人が入居した。
若い夫婦だった。
引っ越しの荷物を運び終え、妻がスマートフォンを操作していた。
「ねえ、これ便利そうじゃない?」
画面には、以前の住人が使っていたスマートホームアプリが表示されている。
『家族の帰宅をお知らせ』
『離れていても、家族をいつもそばに』
夫は笑った。
「いいじゃん。入れようよ」
二人はアプリをインストールした。
以前の端末から引き継がれたデータが、クラウド上に残っていた。
初期設定の途中、古いアカウントに紐づいた未送信データが一件だけ表示された。
送信者:佐藤彩花。
作成日時:事故から数か月後。
本文:
『パパ、ママがいないのさみしいけど、わたしはパパがいるからだいじょうぶだよ』
その下には、もう一文あった。
『パパ、いつもありがとう』
音声入力で作成されたメッセージだった。
ところどころ認識されていない言葉もあった。
何度も言い直した跡が残っていた。
それでも、最後には文章として保存されていた。
彩花が伝えようとしていた言葉だった。
送信されていなかった。
画面には、小さな文字が表示されている。
『送信に失敗しました。再試行しますか?』
選択肢は二つ。
「はい」
「いいえ」
誰も、その画面を開かなかった。
午後六時。
新しい住人の妻が、玄関のドアを開けた。
その瞬間、スマートフォンが鳴った。
『おかえりなさい。今日も一日お疲れさまでした』
妻は笑った。
「わあ、便利!」
夫も笑った。
「いいね、これ」
二人は夕食の準備を始めた。
部屋には明るい声が響いていた。
かつて、そこに三人家族が暮らしていたことなど、誰も知らない。
壁紙は張り替えられ、家具も入れ替わった。
彩花の車椅子が置かれていた場所には、新しいソファが置かれていた。
由佳の写真が飾られていた壁には、若い夫婦の旅行写真が掛けられていた。
すべてが新しくなっていた。
ただ一つ。
サーバーの中に残された、古いメッセージだけは消えていなかった。
送信先:佐藤健一。
送信状態:未送信。
最終更新日時:事故から四か月後。
送信先のアカウントは、すでに利用されていなかった。
それでも、システムは定期的に再送信を試みていた。
『送信に失敗しました』
『再試行しますか?』
選択肢は二つ。
「はい」
「いいえ」
そのどちらかを選ぶ人間は、もういなかった。
そして今日も、午後六時になると通知が届く。
『おかえりなさい。今日も一日お疲れさまでした』




