第3節:書き換えられる事実――3/3
――7. 奪われた居場所――
「なに、これ……」
サツキの足がガタガタと震え、その場にへたり込みそうになるのを、キシは寸前で支えた。
サイバーブルーのLEDに照らされた店内は、大勢のオタクたちの熱気と歓声で満ちている。皆が口々に『アルカディア』の作中のセリフを言い合い、限定メニューのフードを笑顔で写真に収めている。壁の大型モニターに映し出されているのは、キシがジャンク屋で見た、あの2話目、3話目の映像だった。
「サツキさん、しっかりしてください……!」 「キシくん、ここ、本当に『シャ・ノワール』なの? 私が10年間、毎日磨いてきたあの茶色いテーブルはどこにいっちゃったの……?」
サツキは涙を浮かべ、メタリックに変貌したカウンターを爪で引っ掻くように触った。しかし、いくら触っても冷たい金属の感触しか返ってこない。
後輩メイドたちは、怯えるサツキの様子を「どうしたんですか?」と不思議そうに見つめている。彼女たちにとって、この店は『最初からこういうコンセプトの店』なのだ。書き換えられた現実に疑問を持つ人間は、この空間にキシとサツキしかいなかった。
――8. アオイの選択、世界の肯定――
「居心地が悪いなら、僕と一緒に外に行こう?」
背後から、鈴の鳴るような声が優しく二人を包み込んだ。 振り返ると、入り口のドアの前にアオイが立っていた。サイバーな店内の光を浴びて、その中性的な美しさは、まるでこの新しく塗り替えられた世界に祝福されているかのように神々しかった。
アオイは一歩、キシに近づき、上目遣いでその大きな瞳を覗き込んできた。高校生特有の、瑞々しく、どこか甘えるような、めちゃくちゃ可愛い笑顔。
「ねえ、お兄さん。大学のサークル、つまらないんでしょ? 誰も本当のオタクの話をしてくれない世界なんて、寂しいよ。でも、今のこの街を見てよ。みんながお兄さんと同じものを愛して、熱くなってる。これって、すごく素敵なことじゃない?」
アオイの細い指先が、キシの手にそっと触れる。その手は、驚くほど冷たかった。
キシの脳裏に、サークルの飲み会で孤立していた自分の姿がよぎる。今の洗練されて、どこか冷めた秋葉原に絶望していた自分。アオイの言う通り、この『アルカディア』に支配されたアキバは、オタクとしてのキシを100%肯定してくれる、最高に心地いい「理想郷」のはずだった。
(このまま、この波に呑まれてしまえば、どれだけ楽だろう――)
キシの心が、アオイの可愛らしい誘惑に、じわりと傾きかけたその時。
――9. 剥がれ落ちる「2026年」――
「だめ……っ!!」
サツキが声を振り絞り、キシとアオイの間に割って入った。彼女はキシの肩を強く掴み、その目をまっすぐに見つめた。いつものメイドの「サツキちゃん」ではない。30代後半の、一人の大人の女性としての、痛切なまでの必死さがそこにあった。
「流されないで、キシくん! 確かに今の大学はつまらないかもしれない。今のアキバは退屈かもしれない。でもね……それを偽物の『歴史』で埋めたら、私たちが今まで泣いたり笑ったりして生きてきた、本物の時間が全部消えちゃうのよ!!」
サツキの目から、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。 その言葉が、キシの胸の奥底にくすぶっていた「リアルなオタクの意地」を激しく叩き起こした。
「……っ、そう、だ。俺が好きなのは、過去のデータじゃない。あの、埃っぽくて、泥臭いジャンク屋で、自分の手で面白いものを見つけるワクワク感だ……!」
キシがアオイの手を静かに、しかし毅然と振り払った。 アオイは一瞬、目を見開いたが、すぐに酷く寂しそうな、胸が締め付けられるような表情を浮かべ、一歩後ろに下がった。
「そう……お兄さんも、サツキさんと同じなんだね。本物の現実の方がいいんだ」
アオイがそう呟いた瞬間。 びりびり、と空間が震えた。
キシが手元のスマホを見ると、画面の時刻表示『2026年5月25日』の数字が、バグったように激しく明滅し、一瞬だけ『1997年』『2005年』と過去の年号を表示しては元に戻るのを繰り返している。
店内の窓の外を見下ろすと、秋葉原の中央通りを歩く人々の服装が、現代のカジュアルな服から、一世代前のダサいチェックシャツやケミカルジーンズへと、歩く一歩ごとにチラチラと変貌していた。
「街が……崩れていく……?」
闇の組織なんてどこにもいない。ただ、ネットの住人たちの「ノスタルジーの暴走」が、この世界の時間の枠組みを物理的に引き裂き、巨大な濁流となって現実を飲み込もうとしていた。
その狂騒の真ん中で、キシ、サツキ、そして謎の少年アオイの、本当の『歴史を取り戻す戦い』の幕が上がろうとしていた。
(第1章・終)




