【Program2】2
空がよく晴れている。周囲に建物はない。見えるのは木ばかりだ。道らしきものはなく、まさに道なき道を慣れているようにひとりの少年が歩いている。
無造作に伸びている琥珀色の髪。年齢に不釣り合いな大きな眼鏡。──この少年は、どうやら若いころの克主のようだ。
足早に歩く光景が、どことなく知っている風景に忒畝には見える。木ばかりなのに、場所を特定させるには充分だった。克主が向かっている場所さえも。
──ここは、克主研究所から緋倉に向かう道だ。
知っている場所であるのに、見る景色が違う。言い表せない違和感は、年代が遥かに異なるという証明。年代を合わせるなら、琉菜磬が神父から教会を譲り受けるころだろうか。
忒畝の思考を置き去りに、景色はどんどん変わっていく。森を抜け、視界は開け。港街、緋倉に克主は辿り着いていた。古めかしい雰囲気が漂っているものの、人々で賑わっている。
しかし、大きく異なる点がひとつ。──緋倉は、港街ではなかった。
交易が盛んで、華やかな街であるはずの緋倉。けれど、それは忒畝が見知っている緋倉だ。過去の記述も、忒畝は知っている。
『その昔、大陸はすべて繋がっていた。大陸はひとつだけだった』
記述を見て、知識として持っていたもの。誰かに話したことがあったが、実際に見たのは忒畝も初めてで息を呑む。いや、本来なら忒畝が体験することはなかったはずで。
ふと、雑多な音で忒畝の視線は動き始める。そう、場面が克主から始まっていたのだから、克主を見失うわけにはいかない。
克主は、緋倉の賑わいに圧倒されていたのか。街全体を見渡していた。そして、どこか呆然と、フラフラしながら歩き出す。一点を見つめて歩く姿は、何かに取り憑かれたように。その視線の先には──。
白緑色の髪を持つひとりの少女がいた。少女が歩く度に揺れて、美しく髪はなびく。さほど太陽の光はないのに、その髪は光をきれいに反射させて。
克主は、少女の後ろ姿に惹かれるままに市場に足を向かう。
市場は人であふれていた。人で何もかもを隠してしまいそうだが、少女の美しい髪は特別な煌めきをまとって輝く。
「ありがとうございます」
少しの食材を買い、にこやかに笑っている。礼を言う少女の横顔はやわらかい。──その横顔を見て、瞬時に忒畝は少女が『誰』かと見当が付いた。
克主は彼女の横顔を見つめている。少女は気づいていない。克主は心ここにあらずだ。完全に心を奪われている。
彼女が歩き出せば、またフラフラとその背を追っていく。結局、克主は街にきた目的を忘れたように、街外れへと歩いていく少女の後ろ姿を佇んで見つめた。
再び、景色は森の中。
琥珀色の無造作に伸びた髪の少年、克主は緋倉へと歩いている。そうして、あの少女を探す。フラフラと付いていく。街外れへ行く姿を見送る。──それが何度か繰り返された。
その行動は、少女と会いたい。ただ一目だけでも少女の姿を見られれば、それでいいと言うように。時には少女を見つけられずに、背を丸くして用件を済ませて帰ることもある。いや、その方が多いようだが、少女は見かける度に、四季を服装で伝えてきた。
少女の姿を見られた日は、それだけで克主は幸せそうに微笑み、見届ける。そんな月日は続き──運命の歯車は悪戯に回り始めたのだろう。初めて少女を見たのと同じ季節に、ふたりは言葉を交わす。
それは、緋倉の一角にある本屋だった。克主は少女を見かけられずにいたが、折角街に来たのだからと思ったのか、本屋に立ち寄っていた。
何かを探しているように、本を手に取る。手に取っては頁をパラパラとめくり、戻す。同じ動作は何度か繰り返され、そこへ──。
「すみません、その上の本を取っていただけますか?」
左側から聞こえた、聞き覚えのある上品な少女の声。克主の動きは止まる。
数秒後、やっと動き始めたものの、緊張しているのか。克主の動作はぎこちない。呼吸をするのに必死になっているのが伝わる。
到底、声の発せられた方を向けないのか。ただ、言われたことを行動に移そうと必死に手を伸ばす。
「あ……この本、ですか?」
克主の声に、少女は克主の方へスッと近づく。
「その右……の本です」
少女のところからでは見えにくかったのか、言葉が返ってきたのは遅い。けれど、その間は克主にとっては幸福だったのだろう。あっという間に顔が赤くなっている。
「は、はい」
言われるがままに克主は慌てて本を取る。タイトルさえも見ずに差し出す。
一方の少女は、克主が緊張していると思うこともないのか。笑顔で本を受け取り、微笑む。
「ありがとうございます」
克主に向けられた初めての笑顔。克主は直視することができずに、恥ずかしさのあまり目を逸らす。
少女はそのまま克主から離れ、会計を済ませている。店員にも『ありがとう』と笑って。
少女と離れた克主は、どこかオドオドしている。目を逸らしたとき、少女が重たそうな荷物を持っていることに気づいたらしい。克主がまごついている間にも、少女は本屋を出ていこうとしていた。
その刹那、克主は走る。
「待って!」
振り返った少女は驚いていた。いや、声をかけた克主自身も驚いている。
「あ……いや、その」
克主の声は次第にちいさくなる。しかし、少女は声が聞こえなくても、口が動いていると唇の動きを見ていた。
「いえいえ! とんでもありません」
少女の声に克主が視線を向ける。
少女は目をつぶって手を広げて素早く振っていた。どうやら、克主が少女を気遣い、荷物を持つと申し出ているのを唇で読み取ったらしい。
「でも、貴女が持っているには……あまりにも重そうに見えて」
断っても尚、控えめに言う克主に対し、
「あ……じゃあ」
と、少女は甘える。その表情は困ったように、けれど、どこかうれしそうに笑っていた。
ふたりは特に何も話さないまま、しばらく歩いていた。ふと、街の景色が寂しくなってきたころ、買った本を両手で大事そうに持っていた少女が口を開く。
「私は街外れに住んでいるから」
克主は少女を気遣いつつ荷物を返す。──その姿は名残惜しそうだ。それはそうだ。一年近く、遠くから見つめるだけで、やっと話せたというのに。気の利いた話どころか、名も聞けず。まして、想いを伝えることもできかった。
荷物を渡す手を克主がなかなか離せず、一時ふたりで荷物を持つ。少女はふしぎそうな表情を浮かべる。それを克主もわかったのか。荷物から離さなくてはと、ゆっくり離す手が寂しい空間を生んだ。
ようやく手が離れて、少女は両手で荷物を持つ。嫌そうな顔ひとつもせず、にっこりと笑って。
「甘えてしまいましたね。……ありがとうございました」
少女は軽く一礼をする。
克主は慌てて頭を下げた。少女はまだ立ち止まっている。克主が顔を上げ、一瞬、目を丸くした。それを本人も自覚したようで、慌てて表情を変える。
「あ、いいえ。その、大したことはしていないので……」
やや早口だ。動揺は、初めて少女の瞳を直視したからだろう。その瞳の色は、アクア。
白緑色の髪を持っていても、尚且つ、瞳の色がアクアであっても、買い物に出るのはやむを得ない事情があるからかもしれない。もしくは、特殊な血を継ぐ者の象徴だという知識がない者が、まだ一般人には少なかったのか。
克主の動揺に反応せず、少女は再び一礼する。そうして少女は、人の少ない方へと歩いていった。