★【45】過去からの使者
「お……はよう。え……忒畝? 体調悪いんじゃない?」
図星だ。けれど、できればごまかしたい。
「まぁ、少しね」
「少し? ……なわけないわ!」
馨民が勢いよく動く。両手で持ったお盆をサッとちいさなテーブルに置くと、忒畝の机にある電話に手を伸ばす。
「もしもし? あ、丞樺ちゃん? ごめんね、充忠いる?」
「困ったなぁ」
ゆるりと呟いた忒畝の独り言は、馨民の耳には入らない。
「あ、充忠? すぐ来て、早く!」
「大丈夫だよ? 大袈裟……」
「何言ってるの! 忒畝より大事な仕事なんてあるわけないでしょ!」
ガチャン! と受話器を置いた馨民は、言葉を途中で止めた忒畝と目が合う。
妙に噛み合ってしまった言葉。忒畝に苦笑いが浮かぶ。一方、馨民は忒畝の言葉が耳に入っていたわけではなく、自らの言動を恥じて苦笑いしている。
そうしているうちに、充忠が姿を現し、一言。
「忒畝、お前さ。そんなに顔面蒼白で仕事していいわけねぇだろ」
充忠の姿を見て、更に白くなっているのは説明するまでもないだろう。忒畝の横では、馨民が激しく首を縦にしている。
「大丈夫だよ」
「それは、同じ医学博士を持つ者としての見解か?」
するどい言葉に、忒畝は暫し言葉に迷う。
「わかった。聞き方を変える。もし、こんなに顔面蒼白な患者を見たら、お前は医師として何て言うんだ?」
白衣から手鏡を出した充忠は、忒畝に自身の顔色を見せる。それは、お世辞にも血が通っているとは言いにくいほどに白くて。
「『今日は、ゆっくり休みなさい』」
苦笑いしてでも正論しか言えない。
忒畝の回答に、充忠はにっこりと笑う。
「大変よくできました」
かくして、忒畝は一日休むことになった。だが、ひとつ問題を起こしてしまった。それは、素直に従うしかなく、仕事に手をつけるのをやめてベッドに体を横たえたあとのこと。
「忒畝、腕」
充忠だ。続けて馨民に、
「採血の準備」
とも言う。
忒畝は慌てて腕を振り払う。充忠は目を見開いて、忒畝を疑うように見た。
「採血くらい、自分でできる」
「何だよ。採血くらい、俺がしてもいいだろ?」
「断る」
断固拒否を貫く。充忠とも、馨民とも──誰とも同じではないと、知られたくない一心で。
「じゃあ、私が……」
「置いておいて」
忒畝のいつになく強い口調は続く。理由が言えないのだから仕方ないが、充忠と馨民からすれば理不尽この上ない。
「わかった」
充忠は立ち上がり、
「そんなに信用されてないとは思わなかったよ」
と、忒畝に強い口調で返す。扉に歩いていき、途中にいる泣きそうな馨民の肩を叩く。
信用していないのではないと言える状況ではない。忒畝にとっては、跳ね除けるしかない状況なだけで。
充忠は大きなため息をついた。そして、あと一歩で部屋を出るというところで足を止め、背を向けたままこんなことを言う。
「言いたくないなら、今はそれでいい」
今度は忒畝が目を見開く。その言葉は──。
「お前が昔、俺に言った言葉だからな」
今度は振り返って言うと、充忠は『貸しだ』と言いたげに口角を上げる。──つまり、言えるときがきたら話せと言われたも同然。
「だから、何も気にせずにゆっくり休めよ」
「ご飯、ちゃんと食べてね。あ、でも、無理はしないで……」
「どっちなんだよ、お前は」
廊下と部屋の境界線で始まったそんなやりとりを眺め、忒畝は笑う。すると、ふたりの会話は静かになった。
「ありがとう。ゆっくり休んで、ご飯も食べられる限り食べます」
返答に満足したのか、
「おう」
「おやすみなさい。またね」
と、ふたりは部屋を出ていく。
忒畝は脱力し、親友に心から感謝する。
夕方には体調も顔色も回復した忒畝は、夕食に向かい食堂でふたりを探し、
「ありがとう」
と、きちんと礼を言えた。それだけでわだかまりは残らず、平穏な空気が流れる。
採血の結果は、著しく悪い──とは言えない。一般的な青と表現する範囲を超えて、群青と呼ぶべき色まで一気に加速した。
竜称の言っていたことは正しい。忒畝の体にとって正常な時は動き出し、決して止まることなく、進んでいくだけなのだから。
回復といっても、慣れて動けるようになった範囲であって、だからこそ顔色も戻っただけであって。これからも、忒畝自身が不調に慣れていくしかない。
採血はしたのか、結果はどうだったのかと詮索も追及もされず、他愛のない日常会話で時は流れる。やがて悠穂も顔を見せ、何もなかったかのような気にさえなる。何もなかった、何もないと言えて日常に戻れたなら──。
話してくれるときがくるまで待つ。それがどんなにありがたいのかを充忠も馨民も知っている。今度は、忒畝がそれを抱えているだけだ。いつもそばにいてくれるみんなが、どんなときも普通に接してくれるからこそ、忒畝も忒畝でいられる。
翌朝。話せない事情を抱えたままなら仕事で返そうと、忒畝は研究を一旦停止して仕事に励む。自他ともに研究オタクと認める忒畝が、研究の手を止めるのは珍しい。
慌ただしく日々は過ぎた。一通りの仕事を終えたころ、体調の悪さにふとあの夜のことを思い出してしまう。──あの夜から竜称の気配を感じることはない。何よりも、悠穂は母を忘れたかのように、日常に戻っている。
またしばらく四戦獣は影を潜めるのか。そうだとしたら、目的が余計にわからない。忒畝に余命をより意識させ、尚且つ、過去生まで思い出させてきた。竜称の口調からすれば、竜称の生きていたころ──およそ六百年前の同じ時代に、忒畝は過去生である琉菜磬として生きていたと考えられる。
竜称は忒畝の幼少期から接触し続けてきたこともある。つまり、竜称は、何かを伝えようと? ──竜称に会った最初のときにさかのぼり考え始めるが、次第に恐怖心が強まる。植え付けられた恐怖に、思考は何度も中断する。それでも、抗うように──だが、恐怖に包まれた中での抵抗は、体調の悪さに止まることを余儀なくされる。
仕事に没頭していた昨日までは、あの夜がなかったかのように思えていた。しかし、思い出してしまえば気になることがある。
「子どもには、きちんと会わせてやろう」──妊娠期間は一般的な長さのおよそ半分。
──半年後。
忒畝は暦を眺め、漠然と脳裏に浮かぶ。それまでの間か、そのころには何かが起きると。
そのときだ。面会があると、馨民が顔を出す。
「心当たりがない人だから、職場に連れてくるのはどうかなと思って。応接室で待ってもらっているんだけど……」
行くと告げ、忒畝は職場を出る。応接室までの道のりが妙に長く感じ、歩くことにも不調が表れていると思ってしまう。いや、こうして負の感情を募らせてしまうことこそ──と、忒畝は大きく息を吸う。
応接室に着き、忒畝はノックをして入る。
「お待たせしました」
会釈をし扉を閉めると、待ち人はスッと立ち上がった。──フワリと薄いレースが舞い、遅れて蘇芳色の長い髪が舞う。振り返ったその人の、揺れる李色の瞳はとても懐かしくて。
「黎馨」
名を呼び、忒畝は自身で驚く。初めて会ったにも関わらず、彼女を、名を知っていて。この記憶は、込み上げてくる感情は、忒畝自身のものではない。──けれど、忒畝に津波のように押し寄せる。
孤独から救ってくれる人。ひとりの人間だと、男だと認めてくれる人。癒しを、安らぎを、愛を与えてくれる人。それは紛れもなく──愛し合い結婚した、透き通るような美しさを持つ愛おしい妻。
「忒畝様。お会いするのは初めまして、ですね」
彼女は伏せ目がちに微笑む。それを見て、忒畝は困惑する。自身の体の反応に。顔は熱くなり、鼓動が高なっている。
肌を合わせ、その体液に快楽を感じながら、彼女とひとつに繋がりたいと強く望んでいた。彼女を、愛していたから。
「黎馨……ずっと、待っていた」
感情が一気に押し寄せ、忒畝は黎馨を抱き締めていた。強い感情に抗うことができない。自身の感情ではないと理解していても。