【31】代償(1)
女性から発せられたその声は、まるで感情のない人形のようで。
罠のような誘いに沙稀は迷う。
──『誰か』とは、誰だ? まさか、忒畝が?
先ほどの『何か』から感じた凍るような殺意に対して、やはり女性からは、戦意すら感じられない。
視線を数秒間離せないでいたが、ほどなくして女性と、近くにいた少女は突然消えた。
取り戻した静寂。いや、束の間の静寂かもしれない。
沙稀は後悔していた。恭良に残酷な場面を見せてしまったことに。せめて、残骸は見せたくない。
ふと、残骸に目を向ける。
しかし、その場には何もなかった。あるのは倒れている倭穏と、その胸から流れた血液。
沙稀が駆け寄ろうとすると、大臣がスッと割り込んできた。
「どう?」
出血の量からして致死量に近いと判断は付く。だが、限りなく可能性がゼロに近くても、ゼロではないと信じたい。
ただ、いい結果だけではなく、最悪の結果も想定しておかなくては。
大臣は脈を確認し、厳しい状態だと告げる。
あの場で倭穏を支えれば、沙稀もろとも突かれ最悪の事態になっていた──とはいえ、心は痛む。
倭穏から言われた言葉が、倭穏と瑠既との光景が脳裏を過る。助けたくなかったわけではない。どうにもならなかっただけだ。
沙稀は剣を握り締める。
──何もかもを、望んだすべてを……守れるわけではない。
戦地で常に抱いていたもどかしさ。常に思っていた。犠牲になるなら、他人ではなく──と。
「頼む。最善の処置を」
瀕死の倭穏を大臣に頼むと、ここに恭良を置いていくわけにもいかないと迷う。
「沙稀」
声がかかり、我に返る。血しぶきを多分に浴びていると。
沙稀は慌てて顔についた血を拭う。
「足手まといになるかもしれないけど……私も一緒に行くわ」
恭良の瞳は恐怖で歪んでなどいない。かえって、倭穏の仇を取りたいと訴えてくるほどだ。
申し出はありがたいが、姫を走らせるわけにもいかない。全身に血を浴びてしまった沙稀は戸惑ったが、恭良を再び抱きかかえ忒畝を追うことにした。
広間を出ると、悠穂が沙稀に付いてきた。忒畝を追うようにまっすぐ進もうとする沙稀を、
「そっちじゃないの。こっち」
と呼び止める。
沙稀は立ち止まり、振り返る。同時に、恭良を抱く腕は無意識に力が入った。
白緑色の髪とアクアの瞳が、沙稀の警戒心を強める。一度は信用した悠穂に、疑念をぶつける。
「君は、何を知っているんだ?」
「悲劇……悪夢が始まってしまったこと」
悠穂は悲しい表情を浮かべ、両手を悔しそうに握っている。
「私は止めたかったの」
自分の過ちかのように言う悠穂。
信じたい。けれど、悠穂は『何か』と知り合いのようだった。
──安易には受け入れられない。
──だからと言って、忒畝を兄と慕うように話した彼女も、嘘とは言えない。
迷う。
今は、手元に恭良がいる。恭良をこれ以上、危険な目には合わせたくない。
「沙稀?」
恭良の呼びかけは、いつも沙稀をハッとさせる。
──忒畝と合流すれば真実がわかる。
沙稀は悠穂と先を急ぐことにした。
時間は少しさかのぼり、沙稀と悠穂が広間に着いたころ。忒畝は鴻嫗城の裏門に着こうとしていた。
鴻嫗城に戻ってきた忒畝は愕然とした。裏門には門番の姿がない。裏門に門番がいないなど、警戒心の塊のような梛懦乙大陸では考えられないこと。
つまり、鴻嫗城は今、何かしらの襲撃を受けていると推測できた。
まるで忒畝が離れた隙を突いた事態。やはり、忒畝の勘は正しかったと言える。相手は四戦獣だと、忒畝は確信を持つ。
無段で城内に入るのは気が引けるが、今はそう言ってはいられない。四戦獣を止めるのは己の使命だと、忒畝は思っているのだから。しかし、足を踏み出そうとするも、重みにつかまれる。
──冷静になれ。
募っていく恐怖心。忒畝は一度空を仰ぎ、深呼吸をする。
大嫌いな青系の色。個人の好みで嫌いなわけではない。正確に言えば、恐怖を感じる色味なだけだ。だから、苦手というより嫌いだと感じてしまう。
澄み渡る薄い青。空色というよりも、もっと澄んでいて薄い色。体内を流れるものがこの色だったのは、まだ母がいたころの、遠い日。
他人とも、家族とも、決定的に違う存在だと認識した色。鏡の中の瞳の色にも怯え、それに気づき救ってくれたのは、母の聖蓮だった。
この先に悠穂も母もいないかもしれない。いるのは、竜称だけかもしれない。それでも、忒畝は──。
──行くんだ、僕が。
意を決し、城内へと駆けていく。
城内には不穏な空気が漂っていた。人気を感じられないせいもあるかもしれない。静かに廊下を歩く。
──どこだ。
頭の奥で、胸の奥で何かが動くようなざわめきがある。稽古場まで辿り着いた忒畝は足を止め、全方向へと意識を向けた。まぶたを閉じ、幼いころから幾度となく感じた気配を探す。
そして、辿り着くひとつの方向。背筋からゾクゾクと感じるのは、身の毛のよだつ気配。
──この感じだ。今、一番向かいたくない方向は。
うつむいた顔を上げ、迷いのない瞳で忒畝は再び走り出す。
戸惑うことなく、ひとつの扉を開ける。そこは王の間だった。
真正面では、王が玉座に座りうなだれている。その王の左側、そこに知っている人物がいた。
「竜称」
畏怖の存在を忒畝は口にする。しかし、その声は本人には届いていないようだ。
王は力なく、顔だけが竜称に向いていた。まるで竜称の手に操られているように動いている。
意識がすでにないのだろう。糸こそ見えないが、王の顔の動きは操り人形を連想させるほどだ。
忒畝が恐怖でままならない呼吸を何とか繋いでいると、ふと、王の口がゆっくりと開いていった。竜称は王の顔を凝視したまま、手は、何かをつまんで引っ張るような動きを繰り返している。
すると、顔が上下に揺れる王の口から、何かが出てきた。それは白く、丸いやわらかそうなもの。
それは何か、忒畝にはわからなかった。だが、異様な光景を見開いて見ていた目は、脳に危機を訴えてくる。
「竜称!」
忒畝は、止めるように叫んだ。