【29】生じる矛盾
目の前で起こった事態を沙稀は呑み込めない。とはいえ、恭良がいないことは事実。
恭良のいたところはあたたかく、煌めくような空気だけが漂う。
コツン、コツン……
誰かが上がってくる音。沙稀は階段の方向へと振り向き、姿勢を整える。今は守る人がいない。しかし、誰が来ても、突破しなくてはならない。恭良を取り戻すために。
壁にゆらりと人影が映り、人影は姿を現す。その姿は十代後半のあどけない少女。
まず、目を留めたのは、白緑色の長い髪。沙稀のようにゆるくまとめたあと、髪が広がらないように三ヶ所ほど何かでとめている。
次に、大きく丸い瞳。目が合った瞬間に見開かれたその瞳は、アクアだ。少女は沙稀を見るなり、駆け寄ってくる。懇願するような、必死の表情を浮かべて。
「お母さんを助けたいの。お願いです、来て」
「君は?」
白緑色の髪とアクアの瞳に、沙稀の警戒は解けない。それもそうだ。少女は、先ほど消えた女性に顔立ちまで似ているのだから。
一方の少女は、沙稀の鋭く光る眼差しに対して臆せず、
「歩きながらお話します」
と、しっかりとした声を発する。
少女の堂々とした態度はなぜか忒畝と重なり、沙稀は構えを解く。
「わかった」
──罠かもしれない。
沙稀は疑うことを忘れない。それに、この少女に付いていったところで、恭良に辿り着けないかもしれないとも覚悟する。
ただ、たとえ罠だとしても、わずかな手がかりをつかむだけだとしても、恭良を取り戻すためには少女と行動をともにした方が得策と判断した。
決断をした沙稀の行動は、手際がいい。螺旋階段を降りるよりも時間のかからない方法に取り組む。彼はおもむろにロープを手に取り、窓から垂らす。
そして、今度は少女を試す。
「君が先に行くといい。ただ、君にこの高さからロープで降りる度胸がある?」
「わかったわ」
ここは塔の最上階にも関わらず、少女は即答して窓に近づく。
沙稀を見上げ、差し出されたロープを戸惑いなく右手で握る。続けて左手でも。両手で握った──そのとき、沙稀は少女を止める
あまりにも淡々と行動する姿を見て、沙稀は苦笑いだ。
「これだから素人は怖いな。本当に降りようとする。……君みたいなか弱い娘が、無事に降りられるはずがないでしょう?」
少女がポカンとした隙に、沙稀はロープを引っ張る。しっかりと握られたはずのロープは、少女の手からスルリと抜けた。
──隙だらけだ。
信じられないくらいに。沙稀の警戒心が揺れる。
少女は発言通り、沙稀に敵意も、危害を加える気もないのかもしれない。それどころか、沙稀の信用を得るための行動をしようとしていたように感じられる。危険を顧みずに。
ふしぎと沙稀は、少女を信じたくなっていた。
「わっ……え?」
急に体の浮いた少女は戸惑ったのだろう。言葉にならない声を発する。けれど、少女を抱き上げた沙稀は、マイペースだ。
「しっかり捕まって」
まるで己を捕まるための道具のように言う。あどけない少女に、男性をそんな風に思えというのは無理がありそうだが、のんきなことを言っていられる状況ではない。
右手だけで少女を支えた沙稀は、左手でロープを引っ張り、きちんと固定していると確認。ロープに括り付けてある幅広の輪を左手に持つ。
十五センチほどの窓枠に足をかける。窓の高さは、バランスをとるのに充分な高さがある。
それでも、だ。塔の最上階から地上まで十数メートル、いや、二十メートルはありそうだ。窓枠に立てば、高所特有の風が吹く。
沙稀に、高所による恐怖心はない。恐ろしいのは、このまま恭良を失うことだけだ。
準備は整い、身を窓の外に出して落ちるだけだが、心配がひとつ。万一、少女が暴れ出したら──バランスを崩して転落してしまう。だからこそ、窓枠から足を放す前に、沙稀は少女の様子を見る。
少女は覚悟を決めていたようで、暴れる様子なく沙稀にしっかりと捕まっていた。静かに瞳を閉じる様子は、震えないよう気持ちを無にしているようにも見える。
──素直だな。
なかなかできることではないと関心し、少女の気が変わらないうちに降りてしまおうと行動する。
体の向きを回転させながら左足を輪にかけ、地上までの距離を確認。
左足を宙へ。重心を下へと移し、右足を壁に滑らせて弓のような体勢で一気に地上へと落ちていく。
──恭姫。
駆け抜けていく強い風は、強い後悔のようで。
苛まれる想いは募っていく。
地上が近づき、沙稀は左足も壁につけ、力を入れる。徐々に風は弱まり、体はくの字へと変わる。ゆっくりと重心を右足に移動し、左足を壁から離す。
軽い衝撃で地上に着き、少女を下ろした。
「ありがとう……行きましょう。約束通り、向かいながら話します」
しっかりと話す少女に沙稀は相槌を打つ。
少女は走り出し、沙稀はそれに付いていく。
少女は『悠穂』と名乗った。そして、忒畝の妹だとも。
会うのは初めてだが、忒畝を『お兄ちゃん』と呼び、会話の端々で兄を慕う気持ちが伝わってきた。悠穂の言葉を嘘だとは思えなかったが、安易に信用できないとも沙稀は踏みとどまる。
悠穂は、先ほどの女性を『お母さん』と言っていた。つまり、あの女性は忒畝の母でもあるということになる。──年齢を考えるとあり得ないことだ。あの女性は、二十代後半にしか見えなかった。
それでも、悠穂が嘘をついているようにも感じられない。
生じる矛盾。
奇妙な時の動きに、沙稀は感じたことのない不穏な空気を肌で感じていた。