【22】ふたりの過去(2)
視線を落としたままの瑠既に、沙稀はまぶたを閉じる。
「昔はね」
幼少期を思い出させるような、懐かしさを覚えるやさしい声で答え、微かに笑う。そして、まぶたを開けると、視線を上げた。すると、沙稀に反応するように瑠既も顔を上げる。
瞬時、視線が合うと、沙稀は視線を逸らし口調を戻して言う。
「今は鴻嫗城に仕えている身だから、俺は」
「仕えている?」
うなずくように瑠既に視線を戻し、沙稀は言葉を続ける。
「ここの姫は恭姫だってことさ。その兄は、お前」
対面している方が渋い顔をしたが、更に続ける。
「鴻嫗城の第二子は消されたのさ」
寂しそうな、諭すような、どちらとも聞こえる声。瑠既は、
「そんなこと……」
許されるはずがないと言いたかったが、
「わかるだろ。だから俺は……ああされたんだ」
素早く沙稀は言葉を遮った。
ああされた──大きな冷蔵庫の中で眠っている姿をガラス越しで見たあの光景を、瑠既は思い出す。あのときの感情は、忘れられない。
「それなら、尚更だ。どうして恭良なんかに仕えてんだよ」
「俺があの方をここの……鴻嫗城の姫だと、認めたからだよ」
沙稀は渋々答える。だが、答えても瑠既は納得せず、反論してくるとわかっている。
思っていた通り、反論はすぐに返ってきた。
「は? あんなヤツの娘を鴻嫗城の姫と認めた? 鴻嫗城の血筋を引いてないのに? お前は王に、あんなことをされて、そんなヤツの娘を……」
「恭姫を悪く言うな!」
沙稀の一喝に、瑠既の声はピタリと止まる。瑠既は驚いていた。初めて向けられた、沙稀からの敵視に。
「あの方がどんなに辛い想いを抱いて生きていたか、知らないだろ。恭姫を悪く言うヤツは、俺が許さない」
「沙稀」
「俺だって、初めは殺してやろうと思っていた。クロッカスの色彩を失って……体だって、こうして動かすまでにずい分な屈辱も受けた。ずっと、何年も……王への復讐しか考えられなかった」
髪と瞳のリラの色彩は、個人の意思でしているわけではない──身分を隠すために自らしていることではないとわかり、瑠既は安堵した。
だが、同時に深い悲しみに包まれる。
つまり、クロッカスの色彩は、沙稀に二度と戻らない色彩。
──あれのせいか。
瑠既の中では、あれは幼いころの記憶であり、夢であってほしいという思いもあった。けれど、あれは、確かに現実。沙稀がクロッカスの色彩を失っていることが、今の沙稀のすべてが、あれは夢ではないという動かぬ証拠。
「がむしゃらに腕を、体を動かして剣の腕を磨いた、復讐だけのために。王と恭姫を殺せば、四年間の空白を、失ったすべてを埋められると……信じていた」
「四年……」
瑠既には、想像以上の事実。あまりの衝撃に、息を呑む。
「そうだ、四年だ。俺は目が覚めたとき、四年の月日が流れたと大臣に告げられた。体は七歳のまま、十一歳になっていた」
失った四年間、その時間の欠如。
ここを去る前に目にした、大きなアクリルのケースの中で眠る幼い沙稀の姿は、鮮明に思い出せる。あのとき、感じていた妙な感覚も。強く残っている沸き上がるような憎しみ、消すことのできない憎悪も。
沙稀には瑠既が感じている思いと同等の、いや、それ以上の憎しみがあったはずだ。苦しみも、苦痛も、恐怖も。それを思えば、復讐が思考を支配するのは当たり前。
埋められない、大きな四年という時間。年齢は実年齢を言えず、体に合わせるしかなかったのだろう。瑠既が疑問に思った年齢は、今でも実年齢に合わせられない、今でも続く沙稀の苦しみの表れだ。
「恭姫の護衛になったときは、正直、どうして俺がと思った。けれど、同時に恭姫の命を弄べば、アイツを苦しめられるとも思って……そればかり考えていた。それなのに」
沙稀はひと呼吸すると、苦しい言葉を出す。
「それなのに、恭姫ときたら俺の心配ばかりした。そんな日々は続いて……俺はある日、恭姫の背後で剣を抜いた。殺そうとしたんだ。……そうしたら、何て言ったと思う?」
瑠既に答えは導き出せない。沙稀の瞳は復讐を果たせる喜びではなく、悲しさを帯びていて。
「『いいよ』って言ったんだ」
瞳は悲しみを増し、光るものが浮かぶ。
「『何かがあってそう思ったんでしょ。沙稀の気持ちが済んで、楽になるなら……いいよ』そう言ったんだ。恭姫はあの男が過去にしたことを知らないのに、俺の気持ちを見抜いていた。理解して俺といたんだ。十二、三歳の娘がだ。……俺の手の方が震えていた」
沙稀の右手が微かに震えた。ゆっくりと左手で抑える。
「自分に殺意があると理解しているのに、どうして普通に、あんなにやさしくいられる?」
右手をより強く左手で押さえ、後悔と懺悔を続ける。
「四年間の空白も、復讐の思いも……無にしてくれたんだ。俺がひとりの人間として生きるようにと道標をくれたみたいだった」
一種の告白に感じた瑠既は、複雑な思いで沙稀を見つめる。
幼いころは、一度も辛い想いを沙稀は話さなかった。母が亡くなったときでさえ、寂しがる瑠既を慰めたほどだ。それを、恭良がかんたんに変えた。
そう感じたとき、嫉妬に近い感情が沸いてきた。
沙稀が恭良に抱いている感情は、複雑な想いが絡まりあった敬愛以上の、容易く言葉にできない想い。
やるせない表情が瑠既に浮かぶ。何ひとつ、沙稀が望んでしたことはなかったが、今の状態は、少なくとも沙稀は納得をしていて、恭良を鴻嫗城の姫と認め、その姫に仕えることを選んでいる。
護衛と姫の恋愛は厳禁。それをも納得して。
どうして納得しているか、瑠既にはわかった。沙稀は、恭良を妹と受け入れ、かわいがっていた。だからこそ、感情を戒められる今の立場でいいと納得しているのだと。
代々姫が受け継いできた鴻嫗城の後継者に母から選ばれ、受け入れ、他者に退けられ、別の者を姫だと称えられたにも関わらず。姫と鴻嫗城を守れる、今の立場に──。
「この想いがお前にわかるか?」
沙稀が空気を再び揺らす。
「いや、完全に俺がわかるわけじゃない。お前が感じたことは、お前にしかわからねぇよ」
「そうだな。俺も、お前がどう生きてきたか、知らないもんな」
互いに言いたい意味が違ったのはわかったが、あえて食い下がらないようにした。沙稀は一呼吸置くと、恥じるように涙をサッと拭く。
「一緒に来た彼女のため……だろ。お前が鴻嫗城に来たのは」
普段の自分を取り戻そうと、沙稀は話題を変える。
「残念だったな」
沙稀は楽しそうに悪戯な笑みを浮かべた。
「己の行いを忘れたか? お前には婚約者が待っているよ」
「婚約者?」
「誄姫。……忘れるわけないよな?」
瑠既は焦り、沙稀はそれを楽しそうに見る。
「まさか、俺をずっと待って? いや、俺はとうに誄姫と結婚できるような体じゃない」
本人が慌てていても、沙稀は淡々と言う。
「大臣が連絡を取っていて、そろそろ来るかもしれない」
「それは困る」
「俺に言われても」
お手上げというように、沙稀は軽く左手を上げる。
「彼女も待たせているんだろ。大変だね」
恋愛は他人事と楽観的に微笑み、楽しんでいるようにさえ沙稀は見える。──楽観的な言動は、幼いころの沙稀がそのまま成長したのではないことを告げていた。長い年月で『鴻嫗城の双子の兄を慕う第二子の沙稀』ではなくなり、『主と剣に忠誠を立てる涼舞城の末裔』──そのものになっていた。