かつての婚約者は、鉄壁の騎士に阻まれる
麗らかな陽光が、王都から少し離れた避暑地の別邸に降り注いでいる。
かつて公爵令嬢として、針のむしろのような社交界で背筋を伸ばし続けていた私、リディア・フォン・アシュバートンにとって、この静寂は何よりの贅沢だった。
「リディア様、少し風が出てきました。肌寒くはありませんか? 今すぐ毛布と、火精霊の魔石を組み込んだ特製のドワーフストーブを用意させますが」
すぐ傍らから、低く甘い、けれどどこか切迫したような声が響く。
振り返れば、そこには白銀の甲冑を陽光に煌めかせた一人の騎士が立っていた。
カイル・ヴァン・ブライト。
この国の近衛騎士団長であり、若くして『剣聖』の称号を冠する、名実ともに国内最強の男。そして現在、私の「専属護衛兼、婚約者」を自称して憚らない、重度の過保護騎士である。
「カイル様、今はスズラ月ですよ? ストーブなんて必要ありませんわ」
「……そうですか? しかし、万が一リディア様がくしゃみを一つでもなされたら、私は己の不手際を呪って割腹せねばなりません」
「大袈裟すぎます。ほら、お茶を飲みましょう?」
私が苦笑してティーカップに手を伸ばそうとすると、それより早くカイルの大きな手が伸びた。彼はまるでお預けを食らった大型犬のような真剣な眼差しで、カップの温度を確認する。
「……よし。最適温度から零点五度ほど高いですが、リディア様の喉を焼くほどではありません。私が毒味も済ませてあります」
「……私の家の庭で淹れたお茶に、誰が毒を入れるというのですか」
呆れながらも、その過剰なまでの愛に、私の心は温かくなる。
一年前、私はどん底にいた。
元婚約者である第二王子・ジュリアスに「真実の愛を見つけた」と告げられ、身に覚えのない罪を着せられて婚約破棄を一方的に突きつけられたあの日。
家を追われ、行き場を失った私を拾い上げ、守り抜いてくれたのが彼だった。
そんな穏やかなティータイムを切り裂くように、屋敷の門の方から騒がしい怒鳴り声が聞こえてきた。
「リディア! リディアはここにいるのだろう! 私だ、ジュリアスだ! 話し合いたいことがある、今すぐここを開けろ!」
心臓がドクリと嫌な音を立てた。
忘れもしない、あの傲慢な声。私を捨て、浮気相手の男爵令嬢を抱き寄せながら「悪女め」と罵った、かつての婚約者の声だ。
カイルの瞳から一瞬で温度が消えた。
先ほどまで私に向けていた蕩けるような甘さはどこへやら、そこには戦場を支配する死神のような冷徹な光が宿っている。
「……リディア様。虫が一匹、庭に紛れ込もうとしているようです。私が叩き落としてまいりますので、貴女様はそのままで。耳を汚さぬよう、耳栓を用意させましょうか?」
「いいえ、カイル様。……私も行きます。彼が何の用でここに来たのか、確認しておかないと気が済みませんから」
私が立ち上がると、カイルは不満げに眉を寄せたが、すぐに恭しく一礼した。
「御心のままに。ですが、私の影から一歩も出ないでください。不浄な言葉の礫一つ、リディア様に触れさせるわけにはいきませんから」
屋敷の正門前には、以前よりも少しやつれた様子のジュリアスが立っていた。
かつては華やかだった身なりもどこか草臥れており、必死な形相で門番に詰め寄っている。しかし、門番たちは一歩も引かない。なぜなら、彼らの背後にはカイルが配置した精鋭たちが、壁のように立ち塞がっているからだ。
「リディア! ああ、リディア! 無事だったか!」
私を見つけるなり、ジュリアスが顔を輝かせて駆け寄ろうとした。
だが。
「……止まれ」
カイルが静かに、、たった一言。
それだけで、ジュリアスの周囲の空気が凝固した。物理的な圧力となって、ジュリアスの足を地面に縫い付けたのだ。
「な、なんだこれは!? 体が動かない……! 貴様、カイル・ヴァン・ブライトか! 近衛騎士の分際で、王族である私を邪魔立てするか!」
「王族? ……ああ、先日、王位継承権を剥奪され、辺境への視察という名の追放を言い渡された『元』第二王子殿下でしたか。失礼、あまりに影が薄かったもので、道端に転がる石ころかと思いました」
カイルの声は、氷点下よりも冷たい。
彼は私を背中に隠すようにして一歩前へ出た。それだけで、ジュリアスは恐怖に顔を歪め、ガタガタと膝を震わせる。
「リ、リディア! 聞いてくれ! あの女……エレーナは詐欺師だったんだ! 私の資産を使い込み、あろうことか隣国のスパイと通じていた!(金に目が眩んだ) 私は騙されていたんだ! 君こそが、私を本当に支えてくれる唯一の女性だと気づいたんだよ!」
まあ、なんて勝手な言い分。
私はカイルの肩越しに、冷ややかな視線を向けた。
「それで、私にどうしろとおっしゃるのですか? ジュリアス様。貴方は大勢の面前で私を侮辱し、婚約を破棄なさいました。今更『戻ってきてくれ』とでも?」
「そうだ! 君との婚約を復活させてやろう! アシュバートン家の名誉も回復してやる。だから、さあ、その不遜な騎士をどかせて、私の元へ――」
ジュリアスが手を伸ばした瞬間。
カイルが鞘に入ったままの剣を、軽く地面に突いた。
――ズ、ゥゥゥン!!
地響きと共に、ジュリアスの目の前の地面が大きく亀裂を上げ、爆ぜた。
魔法ではない。純粋な膂力と闘気が、物理的に大地を砕いたのだ。
「ひ、ひぃいっ!?」
ジュリアスは無様に尻餅をつき、股間を濡らして後ずさる。
「警告は一度だけだと言ったはずです、不浄な男。次にその汚い手をリディア様に向けようものなら、その腕を肩から消し飛ばす。……ああ、失礼。言葉が過ぎましたね。リディア様の前で野蛮なことはしたくないのですが、害虫駆除は騎士の務めですので」
カイルは私を振り返ると、ふわりと慈愛に満ちた微笑を浮かべた。そのギャップが凄まじすぎて、少し眩暈がする。
「カイル様、もういいわ。この方と話すことは何もありません。行きましょう」
「お待ちください、リディア様。まだこの男の視線が貴女様を汚しています。……おい、聞こえたか? 彼女は『話すことはない』と言っている。これ以上近づけば、我がブライト家の軍をもって、貴様の仮住まいごと粉砕するが、異論はあるか?」
ブライト家は王家に次ぐ権勢を持つ大貴族であり、私兵の強さは王国一。追放同然の元王子が抗える相手ではない。
「そ、そんな……。リディア、私は、私は君を愛して……!」
「愛? 笑わせないでください」
私は最後の一瞥をくれた。
「貴方が愛していたのは、私ではなく、私という便利な『盾』だったのでしょう? 政務をこなし、貴方の失態をフォローする道具が欲しくなっただけ。……カイル様は違います。彼は、私が何者でなくても、ただの『リディア』として私を大切にしてくださる。貴方のような卑怯な方に、私を愛する資格なんてありませんわ」
「リディア様。やはり貴女は世界で一番気高く、美しい」
カイルは私の腰に手を回し、これ見よがしに引き寄せた。
ジュリアスは絶望したように顔を覆い、地面に突っ伏した。かつて私を突き飛ばしたその手が、今は泥にまみれている。
「さあ、帰りましょう。冷めた紅茶は淹れ直させます。それと、あの男の視線に触れたドレスは縁起が悪いので、今すぐ最高級のシルクで新作を百着ほど注文しましょう」
「百着!? カイル様、それは多すぎますってば!」
「いいえ、リディア様の美しさを讃えるには、王国の全財産を注いでも足りないくらいですから」
背後でジュリアスが何かを叫んでいた気がするが、カイルがさりげなく(物理的に)防音の結界を張ったようで、もう何も聞こえない。
物理的にも権力的にも、そして愛の深さにおいても最強すぎる騎士様。
どうやら私の「ざまあ」な新生活は、彼に守られている限り、退屈することだけはなさそうだった。




