8 ジータの計画
そのメイド――ジータは不貞腐れた表情でホールを清掃していた。
「あと少しでロベルト様に近づけると思ったのに……あっさり結婚しちゃうなんて。貴族のお嬢様とか、私に勝ち目なんて無いじゃない」
平民出身のそのメイドは、辺境伯の屋敷で働けることになり、淡い期待を抱いていた。見た目には自信があった。ジータが採用されたとき、ロベルトは未婚だった。身分の差はあるが、平民が貴族に見初められて嫁ぐ可能性が無いわけではない。恋が始まる条件が、これ以上ないほど揃っていると思っていた。
屋敷で初めてロベルトを見た時は、自分の幸運に感謝していた。少し憂いを帯びた顔は、優しさの中に男性らしい強さが垣間見え、目が離せなくなった。
ロベルトと言葉を交わしたのは、雇用された初日の挨拶だけ。
それだけでも、恋に落ちるのは十分だった。
メイドの身分では遠目に見ることしか許されなかったけれど、いつか隣に立ちたいと思うようになった。
もっと近くでお世話をしたいのに、ロベルトは女性が苦手だから近づけない。彼に近づけるのは男性か、老人といっても差し支えのない年齢の女性だけ。
女性が苦手だと言っていたのは、他のメイドを近づかせないため。ジータに素っ気ない態度なのは、照れ隠し。そう思っていないと、望みが叶わない焦りに潰れてしまいそうだった。
いつからか、辛い現実から目を背ける癖がついた。
そのせいだろうか。誰とも結婚しないのは自分への配慮だったらいいのにと想像していたのが、そうに違いないという思考にすり替わっていた。
――ロベルト様は、私がふさわしいかどうか見極めている最中なのよ。きっと。
貴族は家を存続させるために、結婚しなければいけないと聞いた。女嫌いなロベルトでも、いつかはその日がくる。
ジータは平民だから、今の身分のままでは結婚できない。けれど平民の、それも旅芸人と付き合っていたロベルトなら、ジータがどうすればふさわしい身分になれるのか知っているはず。
あの旅芸人と上手くいかなかったのは、相手が外国籍だからだ。それに性格も悪かったと聞いている。だから周囲の人たちに反対されて、仲を引き裂かれたのだと。
ジータは待っていた。
少しでもロベルトの目に留まるよう、真面目に仕事をこなして。上の人に気に入られたら、ロベルトの近くで働けるかもしれない。
そうやって信用を得ようとしていたのに。
ジータが知らないところで、ロベルトは他の女と結婚した。
――騙されているのね。
あの女が援助の見返りに、結婚を迫ったのだろう。そうでなければ、徹底して若い女性を排除していたロベルトが結婚するはずがない。
金か、それとも別の何かか。
貴族の事情を知らないジータには想像することしかできなかった。
どんな悪どい手を使ったのだろう。あの女はジータが望んでも辿り着けなかった場所にいる。
許せなかった。
苦労を知らない女が、家の力でロベルトを奪った。ジータはこんなにも頑張っているのに、近づくことすら許されなかった。
馬車から降りてきたイレーニアは、悔しいほど綺麗だった。
炎を連想させる赤い髪。月を映したかのような瞳。染みひとつない、滑らかな肌。ジータの給金では仕立てられないほど高価なドレス。
きっと金の力で、綺麗だと見せているに違いない。あの化粧の下にある素顔は、ジータと変わらないか、それ以下だろう。そう思わないとジータは自分を憐れまないといけなくなる。
イレーニアの堂々とした振る舞いは、世間知らずな令嬢には程遠い。ロベルトの近くにいても気後れせず、むしろ和やかに笑顔すら引き出している。
何が違うのだろうか。ジータがイレーニアの立場なら、ロベルトに微笑まれたら何も言えなくなるというのに。
ロベルトには興味がありませんといった態度で、ロベルトの関心を引きつけている。ジータが欲しかったものを全て持っているくせに、ジータが恋をしたロベルトも奪っていこうというのか。
――いなくなってしまえばいいのに。
イレーニアがいなければ、ジータは夢を見ていられる。
叶わない現実を、淡い希望で隠していられた。
それなのに、イレーニアが全ての幻想を消し去ってしまった。
あの女さえいなければ、ジータは空想の中でロベルトの妻でいられた。
もしくは、本当に妻になれたのに。
二人が一度も同じ寝室を使っていないと聞いて、少しだけ溜飲が下がった。
まだ間に合う。イレーニアはロベルトの特別になっていない。誰も特別な存在になってほしくない。ジータ以外は。
「……あら?」
屋敷の外が騒がしい。ジータがそっと扉を開けると、女が喚きながらこちらへ向かって歩いてくるところだった。不審者として武力で排除できない事情があるのか、門の近くに待機しているはずの警備兵が、女を止めようと声をかけ続けている。
女はロベルトに会いに来たらしい。しきりに会わせろと言っている。ロベルトが自分を見捨てるはずがない、婚約者なんだからと気が触れたようなことを言う。
――もしかして。
あれが懇意にしていた旅芸人だろうか。
ジータはしばらく女の訴えを聞いていたが、ふと思いついた計画に笑みを浮かべた。
上手くいけばイレーニアごと排除できるかもしれない。イレーニアは問題が起きても狼狽えるだけの無能だと知ったら、ロベルトはきっと落胆するだろう。
――どうせなら、もっと悪い事態になるように、引っ掻き回してほしいわ。
貴族の令嬢なら、平民と接した機会は少ないはずだ。身分差と世間知らずが合わさって、より酷くなってくれたら嬉しい。
ジータは玄関の扉を開けた。
今から、あの女は客だ。理由をつけて客を屋敷の中へ迎え入れないといけない。
あの女を利用して、ジータの有能さをロベルトに見せつける。見た目だけのイレーニアなんかよりも、ジータを選んでくれるように。