7 初々しくない二人2
茶器を乗せたワゴンを押し、イレーニアはロベルトの執務室へ向かっていた。
ワゴンが動くたびにカップが軽やかな音を立てている。高位貴族の屋敷であれば廊下に敷いた絨毯が振動を吸収してくれるが、この屋敷の廊下は床板が剥き出しのままだ。夜中は特に音が響きそうだ。最低限の修繕しかしていないのか、防犯のために、わざとそうしているのだろうか。判断がつきにくい。
執務室の前に到着すると、イレーニアは深呼吸をした。
緊張している。
室内にいる人たちは、当然ながら仕事中だ。邪魔だと追い返されたら、どうしようか。もうすぐ休憩を兼ねたお茶の時間だから大丈夫なはず。
不安が頭の中でぐるりと巡って、ふいに聞こえなくなった。
使用人の仕事を奪って、ここまで来たのだ。自分の望む結果が得られなくても、イレーニアは受け入れようと決めた。
扉を軽く叩いて待つ。室内からの問いかけはなく、扉を開けてダリオが出てきた。
「おや、奥様でしたか。いかがなさいました?」
「休憩を言い訳にして、ロベルト様に会いにきたのよ」
「そう言われてしまったら、通さないわけにはいきませんね」
ダリオはイレーニアに代わってワゴンに手をかけた。
室内にいたロベルトが、入ってくるイレーニアを意外そうに見た。
「今日は君が持ってきたのか?」
「ええ。無理を言って交代してもらいました。だいぶ疲れているのでは?」
疲労が溜まっていたのだろう。ロベルトの表情に翳りがある。古い執務机の上には、手紙や書類が散乱していた。
「苦手だが、やらないわけにはいかなくてな。先日、捕らえた犯罪者について、隣国が今すぐ引き渡せと要求してきた。罪を償わせるためだそうだが、こちらも受けた被害を明らかにするまでは領内に留めておきたい。上手く言いくるめられないかと、言葉遊びをしていたところだ」
「それはまた随分と心労が溜まりそうな話ですね」
茶器の隣に置いていた砂時計から、最後の一粒が落ちた。ポットを傾けると程よい色をした茶がカップに流れる。砂糖は必要かとロベルトに尋ねる前に、ダリオにカップを見せた。
「毒味は必要?」
「必要ない」
答えたのはロベルトだった。机の上の書類を裏返し、端に寄せている。休憩が終わったら、再開させるのだろうか。
「君は毒を仕込むような人ではない。俺を殺す理由もないだろう?」
「……補佐役としては、同意しかねますけどね」
完全にイレーニアを信じている言い方だ。ダリオは補佐として複雑そうだが、強固に反対する気はないらしい。
毒は入れていない。そんなことをしたら、茶の味が損なわれてしまう。せっかく厳選した薬草を混ぜているのだから、これ以上の味付けは余計だ。
「信用してくださって嬉しいわ」
ナイフを隠し持っている女を、あまり信じないでくださいね。そんな一言を心の中で付け加え、カップをロベルトの前に置いた。ダリオにも同じものを渡したあと、自分のカップを持って、空いている一人がけのソファに座った。
ロベルトにほど近い距離で、お互いの顔がよく見える。執務室に入ったときから、目をつけていた席だ。
「好みの味でなかったら、遠慮なく捨ててくださいね。疲労回復に効果が出やすい薬草を加えてます。あまり味の変化はありませんが、敏感な方は気になるようですので」
「せっかく淹れてくれたんだ。捨てるなんてことはしない」
一口飲んだロベルトだったが、あまり味の変化は感じられなかったようだ。いつもの茶葉の味だなと呟いて、カップを置いた。
疲れていると感じないが、健康なときに飲むと苦味を感じやすい茶だ。やはりロベルトは疲れているらしい。反対にダリオは苦味を感じたようで、驚いた顔でカップとロベルトを交互に見た。体に害はないので、先回りをして教えるのはやめて置いた。
「そうそう、引き渡しの話でしたか。この国と隣国は、犯罪者の引き渡しについて協定を結んでいます。罪を犯した者は、それぞれの国の法律で裁かれたのちに引き渡すことになっています。施行されて半年になりますか。引き渡しを求めてきたところが単に知らなかったのか、どうしても今すぐに引き渡してほしい理由があるようですね。こちらの被害が罰金で済むほど軽微なら、輸送に必要な人員と保釈金を国境まで寄越せと手紙を出してもいいでしょう」
隣国の責任者へ手紙が届いてから、こちらに返事が届くまで時間がかかる。その間に取り調べが終わるだろう。そう伝えると、ロベルトは感心したように口を開いた。
「君がいてくれると、仕事がはかどるな。女性で政治や法律に詳しいのは珍しいと言われないか?」
「変わり者と、男性からはよく言われます。女性は男性がいる前では話さないだけで、全くの無関心ではありません」
「いや、貶めるつもりではなくて……ここは国境を接しているぶん、良くも悪くも外国との往来が盛んだ。隣国のことに詳しい者がいると助かる。ダリオも全く知らないわけではないが……」
「経済が絡んでいるなら、自信を持って即答できるんですけどね」
イレーニアが休憩を促すまで、隣国の刑法について調べていたそうだ。ダリオが使っている机の上に、隣国の言葉で書かれた本が積んである。
「ところでイレーニア様。このお茶、何が入っているんですか? すごくまず――個性的な味なんですが」
不味いと言いかけて、ダリオは慌てて言い直した。
「元気な人には苦く感じる薬草よ」
「つまりダリオはまだ存分に働けるということか。予算の配分について、原案の作成に取り掛かってくれ。得意分野だろう?」
補佐が疲れていないと知ったロベルトは、優しい声で言った。獲物に逃げられないよう、ゆっくり追い詰めている猫のようだ。
――少しいらだっているように聞こえるけれど。気のせい?
きっと元気が余っている補佐をうらやむ気持ちが、そうさせているのだろう。疲労困憊しているときは、他人の元気が気に触ることもある。ならば最大限、ロベルトの助けにならなければと、イレーニアは密かに決意した。
「しまった。イレーニア様には後でこっそり聞けばよかった」
ダリオは諦めた顔で、これを飲み終えたら始めますと答えた。
「もし良ければ、君にも手伝ってもらいたいことがあるのだが」
「私を頼ってくださるのですね。嬉しいわ」
社交界用の笑顔を見せると、ロベルトは気まずそうに黙ってしまった。イレーニアの扱いに困って放置している現状に、思うところがあるのだろう。想像以上に素直な反応だ。
「なんでも申しつけてくださいね。そろそろ庭の手入れ以外にもやることが欲しかったんです」
「暇にさせて申し訳ない」
「今までが忙しすぎただけです。よい休暇になりました。溜まっている仕事を片付けて、ロベルト様も休みましょうね」
「……そうだな。まずは領内で定めている法の中で、古すぎて時代に合わないものがある。廃止もしくは改訂すべきところをまとめているのだが――」
最初は遠慮がちにしていたロベルトだったが、イレーニアと議論を重ねるうちに緊張がほぐれてきたようだ。イレーニアと視線が合うことが増えてきた。彼の中でイレーニアは扱いが難しい客人から、補佐見習いに変化したのかもしれない。
イレーニアにとっては、大きな変化だった。政治や法律を話題にしても疎ましく思われない。それどころか積極的に意見を求められる。今までにない扱いで、もっとロベルトのために何かできるだろうかと、献身的なことを考えてしまう。
――駄目よ。ロベルト様じゃなくて、オルドーニ領のことを優先しないと。
大切なのは領内を豊かにすることだ。個人的な感情で政治をして、失敗してきた者が大勢いるのだから。彼らと同じ道を辿ってはいけない。そう考えていても、根底には書類上の夫が居座っているような気がした。
夕方から夜に差し掛かるころ、ロベルトは辺境伯の妻が持つ権限について説明してくれた。
「君なら悪用しないと思うが、緊急のときを除いて事前に相談をしてくれると助かる」
「ええ。そのような事態にならないよう、気をつけますね」
使うとも使わないとも明言しない。二年も辺境にいるなら、ロベルトの代理で何かしらの処置をすることもあるだろう。
部屋の隅で作業をしていたダリオは、少し引っかかっているような顔をしていたが、口を挟んでこなかった。
* * *
「よろしかったのですか? イレーニア様に権限を与えて……」
イレーニアが退室したあと、ダリオが尋ねてきた。彼はロベルトとイレーニアがただの夫婦ではない事情を知っている。書類上の妻には過ぎた力だと言いたいらしい。
「構わない。最終的な決定権は俺にある。権利を濫用すればどうなるか、熟知している様子だったようだしな」
「……まあ、権利を盾に豪遊する悪女には見えませんでしたが」
「法律に詳しい者がいるのは、いいな。今日だけでも随分と仕事が捗った」
留学先で法律にも触れていたというのは、嘘ではなかったようだ。こちらの質問につかえることなく答えていたし、現行法の問題点を正しく認識していた。
――この先も手助けしてほしいと思うのは、身勝手だな。
自分から提案した結婚生活だ。最初から破綻しているなら、自分の有責で離婚しやすいだろうと考えていた。宣言する前に相談していれば、もっと穏便な方法が彼女の側から出てきたかもしれない。
――今さら、彼女の意見を聞きたいなんて。
まるで彼女との生活が続くことを望んでいるかのようだ。
「イレーニア様が来てから、少しずつ屋敷の中もまとまってきた気がしますね」
ロベルトが考え事に耽っている間に、ダリオが言った。
「期間限定なのは残念な気もしますけど」
「もう決めたことだ。これからの計画に、彼女を巻きこむことはしない」
「いや……結婚した時点で巻き込んでると思いますよ。ボルタ・ロゼ家の騎士たちを国境付近に多く配置しているのは――」
「ダリオ。その話はもう結論が出ている。ボルタ・ロゼ家の戦力が加われば成功率は上がるが、どこから情報が漏れるか分からない。彼女は最後まで何も知らなかった。いいな?」
ロベルトは半ば強引に話を終わらせた。
ダリオが指摘した通り、イレーニアが来てから屋敷全体の空気が変化している。初対面の緊張した雰囲気は薄れ、使用人の間に穏やかな表情が見られるようになった。イレーニアの柔らかい言動には、人に影響を与える何かがあるらしい。彼女が細かく指示を出す前に、使用人たちがイレーニアのために動いていることがある。
もっと早くイレーニアに出会っていれば、己の人生は変わっていただろうか――ふと浮かんだ疑問は、結論を出す前に思考の底に沈めた。