6 初々しくない二人
メイドたちと持参した荷物の整理を済ませたころ、ロベルトが帰ってきたと知らされた。手早く服装を整えて玄関ホールへ向かうと、入ってきたロベルトの姿が見えた。
旅装が少し汚れている。討伐と移動で疲れているはずだが、顔色には表れていない。ロベルトは近くにいた使用人に剣を預け、補佐のダリオから報告を聞いていたが、イレーニアが近づくと意外そうな顔をした。
「出迎えてくれるのか」
「妻ですから。旦那様がお帰りなさったら、出迎えるのが当然です」
「そうか」
ふわりと、淡く微笑まれた。ロベルトが無意識でやったことだと理解している。大丈夫、勘違いしていないとイレーニアは心の中で何度か唱えた。
「もしかして待たせてしまったのか」
「いいえ。私がそうしたいと思って、待っていたのです。夕食でもご一緒できればと思って」
「では着替えてくるとしよう。途中にぬかるんだ道があって、泥がかかってしまった」
ロベルトは泥がついたブーツに視線を落とした。左は足首近くまで泥に埋まっていたような跡がある。ズボンや上着には茶色くなった染みもあった。
明らかに乗馬だけが汚れの原因ではない。どんな道で何をしていたのか、聞くのは野暮というものだろう。あえてロベルトが隠したことだ。形だけとはいえ、新婚家庭にふさわしい話ではない。
全ての準備が整い、やや遅い時間に夕食が始まった。どこか緊張した空気が使用人たちの間に広がっていたが、終わりに近づく頃には、穏やかなものに変わっていた。
――遅れて到着したロベルト様に、私が不機嫌になると思われていたとか?
結婚したばかりの妻よりも仕事を優先した夫に、ひとこと言わないと気が済まない女性もいる。イレーニアはその女性に当てはまらないだけだ。
期間限定の妻としては、むしろ一般的な夫婦らしくされるほうが気まずい。あの名匠が彫りあげた彫刻のような、端正な顔で言い寄られたら、きっと脳が錯乱してしまう。
「ロベルト様。二つほどお願いがあるのですが」
イレーニアがそう言ったとたん、室内の空気が張り詰めた。ロベルトだけでなく、声が聞こえる範囲にいた使用人たちも、緊張した面持ちで続きを待っている。
「願いとは?」
ややぎこちない表情でロベルトが聞き返した。まるで高価な金品でも要求されて、断る口実を探しているようだ。
イレーニアは雰囲気の変化に気がつかなかったふりをして、優しく答えた。
「ええ。猫を飼いたいのです」
「……猫?」
「幼い頃から、実家では猫を飼っておりました。家の中で放し飼いにしていて、ネズミの害から守ってくれていました」
「ああ……それぐらいなら。そうだな、この屋敷でもネズミ対策にいいかもしれない」
「即戦力がご入用なら、実家に伝手があります。ロベルト様がよろしければ、手紙を書きますが……」
「君の裁量に任せる。俺が触れても怒らない性格だといいのだが」
「人懐っこい子を送ってほしいと、お願いしておきますね」
ロベルトは負担が少ない『お願い』に、少しだけ雰囲気を和らげた。
「もう一つは?」
「屋敷から通えるところに、薬草園を作りたいのです。手頃な土地があれば、購入したいのですが、心当たりはありますか?」
「購入って、君が買うのか?」
「ええ。誰かの土地を取り上げるわけにもいかないでしょう? それとも売買よりも農地を借りたほうが都合がいい?」
二年経つと、ロベルトはイレーニアと離縁をする予定らしい。そうなると、当然ながら辺境から出ていくことになる。その時になって土地を売るよりも、期間を決めて農地を借りるほうが手放すのは楽だろう。
できることなら畑か、かつて畑として使われていた土地がいい。一から土を耕すのは骨が折れる。
ロベルトは迷っているようだった。困惑の色が目に表れている。
「薬草園か。育てていたことがあるのか?」
「少しだけ、実家でハーブティーにして愛飲しておりました。私が留学していたのも、半分は薬について学ぶためでした。ここの気候に合いそうな薬草を見繕ってきましたので、育ててみたいのです」
「そういうことなら、裏庭を使うといい。先代の領主が花を育てていたらしいが、手入れをする者がいなくなって、荒れ果ててしまった。好きなように作り変えてくれ。人手が足りないなら、俺も手を貸そう」
温室もあると聞き、イレーニアは明日が待ち遠しくなった。荒れているなら、土を掘り起こして状態を確認するところから始めたい。先代が育てていた花は、どんな種類だろうか。観賞用に普及している花の中には、薬効が発見された種類もある。
半ば上の空で食事を終えたイレーニアは、湯浴みをしますかというメイドの声で現実に戻ってきた。部屋に戻る途中の廊下で声をかけてきたのは、あまりイレーニアを待たせずに浴室の準備をするためだろう。
「湯浴み……」
「はい。王都では、すれ違いがあったと聞いております。今夜が最初の夜となりますので、念入りに準備をいたしますが……」
どう答えるべきか、少し迷った。契約結婚であることは、まだ誰にも明かしていない。用意をしても、ロベルトは絶対にイレーニアがいる寝室へ足を運ぶことはない。
「湯浴みをして、そのまま自分の部屋で寝るわ。ロベルト様は討伐から戻ったばかりよ。今夜はゆっくり休んでほしいわ」
メイドは一瞬だけイレーニアを気遣うように見たが、意見を述べることなく引き下がった。
部屋に戻ってからは、なんとなくメイドたちから同情にも似た視線を感じていた。ロベルトはイレーニアと結婚をしただけで、夫婦になるつもりはないのではと気がつきはじめている。
ロベルトが女性に苦手意識を持っていることは、屋敷にいる全員が周知しているのだと、先ほどの食事風景で確信した。メイドたちは可能な限りロベルトに近寄らないようにしていたし、食事の給仕もロベルトには男性の使用人が担当していた。みなそれを当たり前のこととして、己の仕事に従事している。
イレーニアはメイドたちを休ませる前に、あえて室内にいる全員に聞こえるように言った。
「私と旦那様は、お互いに納得したうえで、結婚生活を続けることにしたの。だから私は大丈夫よ」
ロベルトのような、穏やかでイレーニアの話を聞いてくれる男性が夫だったなら――そう願うことはある。だが最初に破綻している結婚生活だと明かしてくれたので、期待をせずに済んだ。あり得ない未来なのだから、今さら悲観して泣くこともない。
「これから先も、よろしくね」
――期間限定だけど。
イレーニアは余計な一言を心の中で付け加えた。
* * *
翌日からは使用人の顔と名前を覚えるために、屋敷の中を散策したり、裏庭を薬草園にするために手入れをする日々が続いた。使用人は最初こそ警戒しているようだったが、イレーニアが彼らの主人に害をなさないと理解すると、徐々に心を開いてくれるようになった。
最も顕著なのは、薬草園の整備に手を貸してくれるのが、義務から親切心に変わり始めている。全ての使用人に当てはまることではなかったが、好調な滑り出しと言えた。
イレーニアの部屋付きにするメイドは、エルマが一人一人と面接をして選抜していた。エルマは人を見る目がある。それに仕事の能力も高い。少々、無理を言って実家から引き抜いてきただけあって、短期間でメイドたちの教育も完璧に済ませていた。
ロベルトとの生活に変化はなかった。時間が合えば食事を共にしたり、ちょっとした会話を交わすこともある。女であるイレーニアに緊張していたロベルトだったが、接するうちに敵ではないと判断してくれたのか、次第に落ち着いた態度で近くにいることが増えた。
少しだけ、野生動物のようねと考えてしまったのは、絶対に口にしないでおこうと思っている。
なんとなく、本当になんとなく、あの旦那様は一般の人と感性がずれている。
会話の内容は日を追うごとに増えていく。日常のことが中心だったが、辺境が抱えている問題がこぼれてくるときもある。ロベルトはイレーニアが政治経済といった、令嬢らしくないと言われがちなことを口にしても、疎ましい顔をせず最後まで耳を傾けていた。
イレーニアは留学先で法律についても学んでいた。自国のものはもちろん、外国の法律にも詳しい。外の世界で見聞してきたことを伝えると、ロベルトは自分の領地経営に活かせないかと考えこんでいた。
夫婦ではなく、まるで友人のようだった。
同じ屋根の下で暮らしているが、男女の仲に発展することだけはない。
ある意味では心地よく、ある意味ではもどかしい。
「イレーニア様。旦那様との生活に、不安を抱えておられるのですか?」
中途半端な生活が続いたある日、ついにエルマから疑問を投げかけられた。ロベルトがイレーニアの寝室を訪れず、ただ同居しているだけなのだから、嫌でも気がつく。
イレーニアは種を選別していた手を止めた。エルマには、そろそろ話してもいい時期だ。イレーニアはそう判断して、結婚式の前にロベルトから言われたことを明かした。
「そんなことが……旦那様が若い女性を苦手に感じているのは察しておりましたが……まさか結婚そのものを拒否しているとは」
「女性を憎んでいるわけではないと思うの。恋人の距離に入らなければ、普通に……いえ、誠実に接してくれるわ。恋愛に関することから離れたいのでしょうね」
「彼女に手酷くフラれたのが原因でしょうか?」
「エルマ……率直に言うのね」
「事実を隠しても、どうしようもありません。人払いはしておりますので」
エルマは当然のように、すまして答えた。
「旦那様が一度もイレーニア様のところへ行かないので、旦那様の食事に一服盛って寝室へ放りこむべきかと愚考しておりました」
「そんなことをしたら、二度と顔を合わせてくれなくなるわ。せっかく信頼し始めてくれたのに」
イレーニアはやんわりとエルマを止めた。
今のロベルトに必要なのは、無理強いをしてこない理解者だ。夫婦だからと無理に迫れば、二度と心を開いてくれない。
「私たちは恋人になるために、一緒に暮らしているわけではないのよ」
「辺境のため、ですね。政治優先の結婚なんて、どうかと思います」
「相手によるわね。私は、この結婚は嫌ではないのよ」
ロベルトはイレーニアに何も要求してこない。妻としての義務を押しつけてこないし、会話をしていても不快ではない。いずれ夫婦そろって王都へ行くこともあるだろう。その時に、長い時間を一緒に過ごしても、疲れない相手であることはありがたい。
ついでに、外見もイレーニアの好みを大きく逸脱していない。早朝に力強く剣を振るう姿を見かけた時は、鍛錬が終わるまで隠れて見学していたほどだ。整った優しい顔との差がありすぎて、あれは癖になる。
思い出に耽りそうになっていたイレーニアは、疑うエルマの声で我に返った。
「そうなんですか? でも不仲だなんて噂が外に漏れたら……」
「あら。どこでそんな噂が?」
エルマはやや迷ってから、メイドたちの間でと答えた。
「私とロベルト様が夜中に会わないのは、別れた恋人に未練があるからだと? それとも私と無理に婚約したせいで、恋人と引き裂かれたことになっているの?」
「後者です。辺境の戦力を補うためにイレーニア様の実家を頼っている、女性を遠ざけているという事実と、貴族は子供の頃から婚約しているという聞き齧った話が混ざっているのでしょう」
辺境を支援することを条件に、イレーニアが無理やり結婚を迫ったことになっているのだろうか。イレーニアは帰国するまでロベルトと結婚することを知らなかったのだが、そんなことは噂を楽しむ人々にとって重要ではない。
「もちろん、こんなことを言って盛り上がっているのは若いメイドですけどね。旦那様に近づきたくてもできない不満から来ているのでしょう。ほら、見た目は優男風ですから」
「すぐに消える噂なら、放っておけばいいわ。辺境にいる若いメイドの話が、王都に届くことはないのだから」
イレーニアは二つに別れた種の山を見下ろした。
「でも、そうね。流されて生きるのは飽きてきたわ」