5 辺境までの道3
「最初に申し上げておきますが、領主の屋敷は、その、最も改革が遅れている場所です」
あと少しで屋敷に到着する段階で、ダリオが打ち明けた。こちらの反応を探るように、言葉を選んでいる。
街道の途中。馬を休憩させるために馬車から降りていたイレーニアは、恐縮して立っているダリオに微笑んだ。
――屋敷の修繕を後回しにして、領地にお金を使っていたという解釈でいいのよね?
代々の辺境伯が居住していた屋敷なら、籠城できる構造になっているはずだ。維持をするだけでも、それなりにお金がかかる。その費用を流用して、短い期間で領地を立て直したのだろう。
「そう。私は屋根と壁があれば問題ないわ。できることなら扉もつけてほしいけれど」
「雨漏りは最初に修繕しましたので、ご安心を」
ダリオは苦笑して、そう付け加えた。イレーニアが粗末な部屋でもかまわないと言ったのは、信じていないようだ。
「父は少し変わった性格なの。娘だろうと武器の扱いを教えるし、野営に連れて行く人よ。天幕で過ごしたこともあるわ」
「それはまた、伝え聞く貴族のご令嬢とは違った幼少期をお過ごしになったようで」
「ええ、だから気遣いは無用よ。でも、そうね……ネズミや害虫は遠慮したいわ」
伝染病の媒介になる。辺境の医療水準が分からないうちは、怪我や病気をしないに限る。自分だけでなく、使用人もだ。些細なことで貴重な人手が減るのを避けたい。
ダリオはイレーニアが令嬢らしく虫を嫌っていると思ったのか、神妙な顔で提案してきた。
「猫を飼うことをお許しいただければ、解決するでしょう」
「では旦那様にお願いをしてみましょう」
「よろしいのですか」
「ええ。話しかけるきっかけになりそうだわ」
休憩が終わり、護衛の騎士から合図が出た。散開していた者たちが、周囲の警戒から帰ってきた。安全が確認されたという手信号を送っている。
イレーニアとエルマが馬車に乗ると、ゆっくりと動きだした。次第に速度を上げていく。いいかげん乗り飽きたころ、屋敷の正面に到着した。
事前に連絡が行っていたのだろう。玄関付近には使用人が集まっていた。イレーニアを見た反応は様々で、好奇心を無表情の仮面で隠した者が多い。好意的に出迎えてくれたと表現すべきか、イレーニアは他人事のような感想を抱いた。
「家令のべニートと申します。不在の主人に代わり、奥様を出迎える名誉をいただきました」
高齢で細身の男性が、使用人を代表して前に出てきた。物静かで感情を表に出さない。イレーニアを前にしても物怖じせず、かといって新参者だからと見下してこない。仕事と感情を、しっかり分けて考えている。イレーニアにとって、付き合いやすい人物だ。
「ありがとう。今日からよろしくね」
「先ほど、主人より夕方には戻ると連絡が届きました」
「そう。帰宅なさったら教えてね。お出迎えしないと」
「遅くなるようなら、先に夕食を済ませても構わないと承っておりますが」
「初日ですもの。ご一緒したいわ」
「かしこまりました。では、そのように」
「連れてきた騎士たちは、どこに滞在させるのか聞いている?」
「全て承っております。使用人に案内させましょう」
イレーニアはまず自分専用になる部屋に通された。落ち着いた色の調度品が使われ、居心地が良さそうだ。柔らかい日差しが十分に入ってくる。イレーニアのために良い方角の部屋を用意してくれたことに、胸の中が暖かくなった。
「素敵な部屋ね。過ごしやすそうで、私は好きよ」
感想をこぼすと、後ろからついてきていたメイドたちの雰囲気がわずかに軟化した。イレーニアが部屋を気に入ったことで、張り詰めていたものが緩んだのだろう。
ところがべニートがメイドたちを紹介し始めると、一人だけイレーニアを快く思っていないと気がついた。
あからさまな敵意ではない。こちらを信じておらず、値踏みをするような視線だ。もしイレーニアの欠点や失敗を見つけたら、彼女が主人と仰ぐ人物に報告するのだろうか。
使用人の紹介が終わると、イレーニアは旅装を着替えたいと言って、エルマを残して退室してもらった。辺境伯の妻ならば、複数人のメイドに身の回りのことをさせるのが普通だ。だが今は嫁いできたばかりで、誰に何を任せるのか決まっていない。
「エルマ。人選を任せてもいい? あなたが誰と仕事をしたいのか、あとで教えて」
「はい、お任せください」
「それともう一つ、知りたいことがあるの。折をみて、レアンドロにこれを渡して」
イレーニアは必要事項を書いた紙片をエルマに預けた。受け取ったエルマは、大切そうに上着の内側にそれを隠した。イレーニアが最も信頼している彼女なら、ボルタ・ロゼ領から一緒に移動してきた騎士の一人に、差し入れを届けるふりをして渡してくれるだろう。
「さて、旦那様が帰ってくるまで、荷物の整理でもしましょうか」
作業の進み具合で、メイドたちの得手不得手も見えてくる。イレーニアは疲れた体を休める間もなく、一度は退室させたメイドを呼んだ。