4 辺境までの道2
特筆することのない結婚式は、呆気なく終わった。ただ一つ、夫が妻への愛を誓うところだけは、嘘つきねと思っただけだ。イレーニアも愛のない誓いを口にしたので、お互い様だろう。
感動も何もない。最初に愛がない形だけの結婚生活だと教えてくれたおかげだ。
けれど落胆もしていない。始まる前に終わった恋愛だ。イレーニアが喋らなければ、誰も知らないのだから。
もう何も感じなかった。
顔だけは笑顔の形に維持していたが、ひきつっていなかっただろうか。
結婚式後に行われた夜会で、ロベルトは善良な夫を演じているようだった。イレーニアを丁重に扱い、招待客と和やかに言葉を交わす。波風を立てたくなくて、大人しくしているだけと言えなくもない。
ロベルトを観察していると、どうやら接触するのが苦手なのは女性だけのようだ。態度に大きな変化はないが、緊張しているのか表情がかたい。女性の招待客が来たときはイレーニアが積極的に相手をしてみたところ、後から助かったと礼を言われた。
夜会が終わると、ロベルトは一足先に戻ると言った。
「辺境で問題が発生したらしい。早駆けで帰ることになったから、馬車は同行できない。君は予定通りの時間に出立してほしい」
「どのような問題でしょうか」
「隣国から盗賊が流れてきたそうだ。君が到着するまでには、片付けておく」
「そうですか。ご武運を」
「すまない。結婚して早々に君を放置することになるが……」
「私の機嫌よりも、領地の安全が一番大切です」
ロベルトは確かめるように、ゆっくりと尋ねた。
「剣を握れるのか、と聞かないんだな」
「なぜです? ロベルト様は戦い慣れているのでしょう?」
「……顔で判断されなかったのは久しぶりだ」
「残念な人たちですね。外見でしか判断できないなんて」
ふと柔らかく微笑んだロベルトは、見た目で政治向きの性格だと思われて困っているとこぼした。
「政治や経済の話は苦手ですか?」
「ああ、苦手だ。父上は俺の苦手なことを克服させようと、あえて政治に関わらせてきた。そのせいで余計に誤解されてしまって、ついに"戦いを知らない者が辺境を治められるのか“という問題提起もされたそうだ」
「まあ……」
誤解されやすい性格なのかと、イレーニアは認識を改めた。
ロベルトは宮廷の優雅な空気が似合う外見をしている。だが内面は政治よりも軍事の方が得意分野なのだろう。
「ただ、父上のやり方は無駄ではなかった。苦手なりに政治と向き合ったことで、辺境の問題を誰に訴えれば、資金を引き出せるのかが分かる」
「ふふっ」
あまりにもロベルトが得意げに言うので、イレーニアは思わず笑ってしまった。自分よりも年上の男性なのに、この一瞬だけは少年を相手にしているような錯覚がする。
――可愛いと言ったら、失礼よね。
ロベルトは笑ったイレーニアを咎めず、声を出さずに笑顔を見せた。
これが夫婦の秘密というものだろうか。
他人に話せない、けれど隠しておくことが楽しくなるような、情報の共有。
こうしたことが積み重なって、仲が深まっていくのだろう。
普通の夫婦なら。
ロベルトはイレーニアを実家へ送り届けたあと、腹心の部下らしき騎士と共に出立した。
イレーニアの両親は残念そうにしていたものの、一定の理解を示していた。父親は王国の騎士団を任され、領地も持っている。不測の事態に振り回されるのは、よくあることだと経験でよく知っていた。辺境はまだ不安定な地域だ。
結婚式後は、王都にあるロベルトのタウンハウスに滞在してから、辺境へ移動する計画だった。だがロベルトは、出立の時間まで実家で過ごしてはどうかと提案してくれた。ロベルトが不在のまま、知らない使用人に囲まれて生活するのは不安だろうという配慮だ。
王都からオルドーニ辺境伯領までは、ボルタ・ロゼ家の領地を通過する。行商や伝令の間では、馬を休ませるためにここで一泊して、辺境へ入るのが半ば常識だ。
イレーニアを乗せた馬車がボルタ・ロゼ領に到着したとき、ロベルトはとっくに辺境へ馬を走らせたあとだった。領主なのに伝令のような移動速度だ。
イレーニア宛に残された手紙には、辺境に赴任する予定のボルタ・ロゼ家の騎士たちと共に来てほしいと書かれていた。武装した顔見知りの騎士が一緒なら君も安心だろう、道中で不測の事態がおきても対処可能だと理由も添えて。
――少し過保護では?
ロベルトが暗に言っている不測の事態とは、盗賊や魔獣の襲撃のことだろう。一小隊ほどの騎士を引き連れていれば、確かに最悪の事態は防げる。だが王族でもないのに、大所帯で移動するのはやりすぎではないだろうか。イレーニアの護衛に必要な分だけ残して、あとはロベルトが連れて行ってもよかったのに。
「……まあいいわ」
後出しで言っても仕方がないので、イレーニアは夫の好意をありがたく受け取ることにした。慣れない長旅に頼れる護衛がいるのは、やはり心強い。
ロベルトは辺境の道案内として、補佐のダリオを残していた。ロベルトよりやや年上の青年だ。
「ロベルト様が辺境に来てから、だいぶ治安は良くなりましたよ。街道が整備されて、領地の騎士が巡回してくれているおかげでね。農作物への魔獣被害も半分以下に減って、収穫が増えました」
最初こそ不満だらけだった領民は、生活が少しずつ上向いていると実感できるようになってから、ロベルトに好意的になってきたそうだ。
「盗賊らしき集団が出たのは、国境近くの森だそうです。領主様のことですから、自ら現場へ赴いて、片付けてから帰ってくるでしょう」
ボルタ・ロゼ領から辺境伯の屋敷までは、ほぼ一本道だった。運がいいことに天候が荒れることはなく、穏やかな旅が続いた。馬車の揺れが少ないお陰か、体への負担が少ない。しっかりと道が舗装されているのだろう。
途中にある町を通過するときに馬車の窓から覗いてみると、古いながらも綺麗に整備された建物が見えた。行き交う人々は、イレーニアが乗る馬車を興味深そうに眺めている。みな健康そうな顔色をしており、噂に聞いていた極貧の領民にはとても見えない。
どれも数日で成しえることではない。ロベルトが領地経営に力を入れている証拠だ。
「なんだか噂とはずいぶん違いますね」
実家から引き抜いたメイドのエルマが、窓から見える広場を見て言った。
「自分の目で見てみないと駄目ね。想像以上に活気があるわ。王都にいる無責任な人たちは、寂れた田舎だなんて言っていたけれど。ボルタ・ロゼ領とあまり変わらない」
「お嬢様、見えている範囲だけかもしれませんよ?」
「もしそうだとしたら、どこかに違和感があるわ。あのお店を見て。堂々と店先に商品を並べてる」
領民が貧困層ばかりなら、窃盗を警戒して見張りをつけるか、代金を受け取るまで商品に触れさせないはずだ。ところが店主はにこやかに通行人を呼び止め、自由に品定めをさせている。通行人全てを疑うような、険しい表情とは無縁だった。
エルマは混乱した顔でイレーニアを見た。
「辺境の税収が増えたという不満を聞いたことがありますが……」
「ロベルト様が辺境伯となった最初の年は、税を取らなかったり軽くして、領民が生活できるようにしていたのでしょう。改革が進んで、税収を増やせる段階にきたのね」
イレーニアは窓から見えなくなるまで、広場の活気を眺めていた。
「王都で聞いたことは、口にしないほうが良さそう」
貧しい領だと侮っていたら、痛い目をみる。王都で流れている噂は、いったん忘れてしまったほうがいい。先入観をもって行動すれば、辺境の人々は見下されていることを敏感に感じて、心を閉ざしてしまう。
ここへ来たのは、辺境を馬鹿にするためではない。領主の妻になるのなら、一から辺境について知っていくべきだ。
――それと、もう一つ。
ロベルトに関する噂の真偽を知りたい。