26 華やかな一夜の裏で3
「いつ、って……」
「姉様はいつも自分の理想を語って、私の反論を聞かないまま帰ってしまう。私の言葉を聞こうとしたことがあった? 言葉巧みに相手の言論を封じて、思想を押し付けて、そこでおしまい。ナイフを渡したときも、そうだったわね」
「イレーニア!」
「姉様にとって、私は後ろをついてくるだけの操り人形だったのよ。肯定も否定もしない、自分の周りに置いて、好きなときに話しかける。事実を誤認させて、都合よく動くような道具よ」
「イレーニア、私はそんな酷い扱いなんてしていない!」
「留学先から帰ってきた私に、結婚相手は酷い男だと吹きこむことは酷くないというの?」
「君に傷ついてほしくなかったんだ」
「傷ついたわ。事実と違うから。でもね、そのおかげで私はロベルト様に全て打ち明ける決心がついた」
わずかな沈黙ののち、イレーニアの背後で剣を抜く音がした。
「調子に乗るなよ、貴様。リオネラの従姉妹というだけで優遇されていたくせに。辺境伯に抱かれて情が移ったのか」
「馬鹿なの?」
思わず本音が出た。
「姉様の従姉妹というだけで、過度に期待されたり勝手に失望されてきたのよ。どこへ行っても、あなたたちみたいな人が姉様のことばかり聞いてきたり、勝手に身辺を調査して姉様との橋渡しを依頼してきたわ。リオネラはもっと優秀だったとか、もっとリオネラの従姉妹に相応しい振る舞いをしろとか、理想を押し付けてきたりね。だから留学したのよ。外国では姉様の名前が出てこないから」
「共に戦うためではなかったのか。私たちを裏切ったな」
「連座で処刑されたくないなら、動けと言ったのは姉様よ。革命ごっこで殺人を唆す人と、同類になりたくないわ」
リオネラが剣を抜いた。白い柄の片手剣は刀身が細く、刃こぼれ一つない。
まるでリオネラ自身のようだ。傷つくことを知らず、ただひたすら美しいだけ。
「残念だけど、理解し合えないなら消えてもらうしかない。せめて身内の手で終わらせてあげよう」
リオネラはお手本のような構えでイレーニアを狙う。取り巻きは動かず、血縁者に手をかける悲劇の主人公を見守ることにしたようだ。
「こっちこそ残念だわ。どうして私が孤独だと思うの?」
照明の光が剣に反射した。二筋の光が交差し、耳障りな音をたてる。
絨毯の上にリオネラの剣が転がった。
イレーニアは唐突に現れた人影に抱き寄せられた。
「ロベルト様。扉を蹴破って現れるのかと思っておりました」
「実家の扉を壊すと、後で怒られる」
片手でしっかりとイレーニアを捕まえたロベルトは、リオネラたちを見たまま答えた。
「どこから入ってきたんですか」
「言っただろう。王宮の抜け道から、君を逃すことぐらいはできると。扉だけが侵入経路ではない」
構えている剣は携帯しやすさを優先したのか、いつも振り回しているものよりも刀身が短い。肩や袖に埃がついている。ほとんど使われていない狭い通路を通って来たのだろう。
リオネラは利き手をかばいながら後ろへさがった。飛ばされた彼女の剣は、ロベルトの足元にある。
「なぜ、ここに……」
「妻を守るのは夫の役目だ」
イレーニアを抱き寄せる力が強くなった。背中に伝わる温かさに安堵しかけたが、気を抜ける場面ではないと思い直した。
「そうではなくて、王太子たちと一緒にいるはずでは」
「お前たちを釣るために離れていただけだ。物騒なことを企む者がいる状況で、妻を一人にするわけがないだろう。いつでも介入できるように監視していた」
俺は反対だったが、とロベルトは不満げに付け足した。
イレーニアからリオネラたちのことを聞いたロベルトは、王都に到着するとすぐに実家である王宮へ向かった。ことがロベルトだけで解決できる範囲を超えているし、辺境で起きた騒動も絡んでいる。警備を理由にイレーニアも王宮に招かれ、王族と信用できる者たちだけで情報交換がなされた。
憂国の鷹の存続を許していると、いつか国の安寧を乱す。建国記念で関係者と思しき者たちが集まっている時が、捕縛の機会だと結論が出た。だが有力な証拠に欠ける。そこで中心人物と関わりがあるイレーニアが、証言を引き出すために動くことにした。
ロベルトはイレーニアを囮にすることに最後まで反対していたが、父親である国王の『お前が守ればいいのでは』という一言で、ようやく迷いを見せた。とどめにイレーニアが『守ってくださると信じています』と言うと、ロベルトはついに陥落して沈黙した。
夜会の会場でイレーニアとロベルトが分かれるのも、計算した上での行動だ。ずっと王宮の奥にいたイレーニアに、リオネラが接触する機会はなかった。だから夜会で隙を見せれば、必ず接触してくると踏んでいた。
ここまで上手くいったのは、リオネラがイレーニアのことを心から信じていたからだろう。拘束されることなく、持っていた武器や道具を没収されることもなかった。
イレーニアの居場所は、ロベルトがどこかから持ってきた首飾りの形をした道具で掌握されていた。会話の内容も全てロベルトに筒抜けだ。さらに首飾りから伝わった振動で、助けが近くまで来ていることも分かっていた。
さんざんリオネラたちが危険な計画を話してくれたので、捕縛する理由には困らない。自分から囮役を買って出た甲斐があったというものだ。
扉が開いて警備の騎士たちが入ってくる。ロベルトと一緒に行動していたらしいダリオが、内側から鍵を開けて中へ入れたようだ。足元には見張りについていたはずの護衛が倒されている。
リオネラたちは武器を持っていたものの、数では敵わないと悟って抵抗を諦めた。いま刃物を向ければ、王宮内にいる騎士全てが敵になる。今は大人しく捕まって、取り調べなり裁判なりで自分たちの主張を語る方針だろうか。
「ロベルト殿下。我が従姉妹は、一度は御身の暗殺を引き受けた。裏切り者を信じていると、足元を掬われますよ」
リオネラが冷ややかにイレーニアを睨んでいる。騙されて捕まった腹いせに、イレーニアとロベルトの間に修復不能な亀裂を入れようと、忠告に似せた悪意を投げつけてきた。
ところがロベルトは、心の底から不思議そうに首を傾げるだけだった。
「俺は一度も妻に命を狙われたことなどないが」
「気がつかなかっただけでしょう」
「自分に向けられた殺意は、寝ていても分かる」
真偽を判別しにくいことを言ったロベルトは、連れて行かれようとしていた男を振り返った。リオネラのところまで案内してきた、商人に偽装していた男だ。
「サムエレ・アバーテだったな。同学年の。魔獣寄せの贈り物は、なかなか効いたぞ。俺と一緒に戦った部下から、存分に礼をしておいてくれと頼まれている」
男は恐怖を顔に浮かべ、力なく部屋を出ていった。
「あー君たち、いちゃついているところ悪いのだが」
棒読みのわざとらしいセリフを言いながら、王太子が近づいてきた。
イレーニアはすぐに離れたかったのだが、ロベルトが離してくれない。あまつさえイレーニアの髪をなでて満足そうにしている。
「首飾りを返してもらってもいいかな? 一応は国宝級の道具だから、然るべき場所で保管しておかないといけなくてね」
「申し訳ありません。すぐにお返しします」
国宝級なんて聞いていない。対になる道具に音声を届けたり、着用者の居場所が分かるという特殊な道具だから、高級品には違いないとは思っていた。ロベルトが適当に扱っているから、すっかり騙されてしまった。
イレーニアは震えそうになる手で首飾りを外し、王太子に返納を済ませた。
「まさか国宝を貸せと弟に脅されるとはね。まあ気持ちは理解できるけども」
首飾りを丁寧に小箱へ入れ、王太子は苦笑していた。
「国宝だろうと、道具は道具です。イレーニアを守るために使われて、壊れるなら本望でしょう」
「分かった分かった。壊される前に回収できて良かったよ。ロベルト、今夜は我々に任せて彼女を休ませなさい。明日から忙しくなる」
代わりに補佐は借りていくと王太子は言い、帰るつもりでいたダリオの肩を叩いた。ダリオはロベルトと王太子の顔を交互に見て、避けられない仕事の予感を察知して死んだ目で項垂れる。
連行されていく補佐の無事を祈りつつ、イレーニアたちも廊下へ出た。
「休むなら部屋まで送る。どうしたい?」
疲労は溜まっているが、目が冴えてしまって眠れそうにない。正直に打ち明けると、庭に出ようかと提案された。
「暗くて静かなところにいれば、眠気がくる」
「いいですね。でも王宮のことはあまり詳しくなくて……」
庭を探して歩いていたら、全く違う場所に迷いこみそうだ。
「俺が案内する。希望するなら隠し通路を使うが」
「普通の道でお願いします」
王族しか知らない通路がどんな状況か、ロベルトの服を見れば十分過ぎるほどわかる。夜会用のドレスを埃まみれにしたくはない。
ロベルトは途中で手提げのランプを調達してくると、夜会の会場近くにある庭にイレーニアを連れてきた。庭は会場のテラスや渡り廊下からこぼれる光で、ほのかに明るい。
会場から緩やかなダンスの曲が聞こえてくる。
夜風が火照った体に心地よかった。
二人掛けのベンチに座ると、沈黙していることが気まずくなってきた。
「最後に話しかけた男は知り合いだったのですか? 姉様の手紙を届けに屋敷を訪れてきたことがあるんです」
「学院に通っていたころ、同学年だった。選択した授業が違ったから、あまり顔を合わせたことはなかったが」
「あちらは、自分の名前なんてロベルト様は知らないだろうと言っておりました」
「おかしなことを言う。同じ学院生の顔と名前なんて、真っ先に掌握することだろう?」
おかしいのはロベルトだと言い返してもいいだろうか――イレーニアは自信が持てなかった。もしや自分が知らないだけで、同級生だけでなく全校生徒の顔と名前を覚えるのが世界の常識なのだろうか。
「ベランジェールを紹介してきたのも、彼だった。酷い別れかたをすると見込んで、連れてきたのかもな。学生時代から、あの男はリオネラを信奉していたようだ。計画通りに俺が引っかかって、滑稽だっただろうな」
ロベルトの口からベランジェールのことを聞くのは嫌だった。だが一つだけ確認しておきたいことがあった。
「本気だったんですか。彼女のことは」
「本気だったよ。俺は」
自分から聞いたくせに、ロベルトの顔を見ることができなかった。どんな表情で当時のことを思い出しているのか、知るのが怖い。本気で将来を考えるほど、良い思い出もあったはずだ。
「でも好きだと思っていたのは、俺だけだった。最初から何も始まっていなかったんだ。勘違いしていたくせに、失望して、自分の殻に閉じこもった」
ロベルトが髪に触れてきた。
「君は俺が良き領主だと言ってくれたが、本当は違う。とにかく王都から離れたくて、辺境の統治を引き受けた。自分の資産を注ぎ込んだのは自傷行為の代理。領民の中に混ざって休みなく働いていたのは、何も考えたくなかったから。疲れきって眠ってしまえば、夢を見なくてもすむ」
何かに没頭していないと、生きることをやめたいと思ってしまいそうだった。そう力なく言われて、イレーニアはほぼ無意識でロベルトの手を掴んだ。
「自棄になっていたんだろうな。誰かに必要だと思ってほしかった。大勢の領民が慕ってくれたら、拒絶された過去が消えるような錯覚を抱いて、逃げていただけだよ」
「領地が栄えてきたのは事実ではないですか。冬の死亡率も低下しています」
「以前の水準に戻っただけで、発展とまでは言えない。騎士団から複数の逮捕者が出たせいで、立て直しに時間がかかる。俺がもっと有能だったなら、こんな事態にはなっていない――と、以前ならそう答えただろうな」
「今は違うのですか?」
「君を見ていて、考え方が変わってきた」
ロベルトはイレーニアの手を優しく握りかえした。
「評価されずとも、君は腐らずに己の役割を果たそうとしている。俺が勝手に決めた期限がくれば、辺境を離れるにも関わらず。君が助けてくれなければ、領地の改革にかける時間の短縮どころか、魔獣の襲撃から生還もできなかっただろう」
触れた手から伝わる熱が高い。
「イレーニアがいてくれて良かった。初対面で君が俺を見限っていたら、俺は嫌なことから逃げ続けたまま、過去を精算できずに壊れていた。辺境はもっと荒廃していたかもしれない」
ロベルトの言葉が心に浸透していくにつれて、胸が苦しくなってきた。
ずっと自信を持てなかった。すぐに従姉妹と比べてしまって、どうせ自分が何をしても評価されることはないと不貞腐れていた。必要だと思われたかったのはイレーニアのほうだ。
「イレーニア。自分勝手な奴だと思われるかもしれないが、俺は君との婚姻を解消したくない。辺境への貢献だけじゃない。俺にとって必要なんだ」
思いがこもった声が耳をくすぐる。
「俺を好きになってほしいなんて贅沢なことは言わない。実は恨まれていたと聞いても、黙って受け入れる。だが、もし少しでも別れることに未練を感じてくれているなら、最初からやり直させてほしい。だから、君が選択した答えを教えてくれ」
女性に裏切られたロベルトが、もう一度誰かを好きになるのは葛藤があっただろう。ましてや気持ちを打ち明けるなんて、かなりの勇気がいる行為だ。また自分だけが傷つくかもしれないのに告白してくれたのは、イレーニアが選べる未来を増やすためでしかない。
「私の望みを優先させるという約束でしたね」
「ああ」
ロベルトは穏やかに笑っていた。
――気持ちを隠すのが上手い人ね。
このまま別れても罪悪感を持たせないつもりだろうが、イレーニアには逆効果だ。
「一人だけ、一生を共にしたいと思える人が見つかりました」
「……そうか。俺が説き伏せられる相手であればいいが」
「そう難しい相手ではありません。だって私の目の前にいますから」
驚いたロベルトは、しばらく固まったままイレーニアを見下ろしていた。
「あなたです。駄目ですか?」
「駄目じゃない!」
手が離れて抱きしめられた。
今日はよく体が触れる日だ。羞恥とお互いの気持ちが通じた高揚感で体が熱い。のぼせそうになってロベルトの肩に頭を預けると、離さないと言う代わりなのか抱きしめる力が強くなった。
「ロベルト様。ついでに一つ、お願いをしてもいいですか」
「なんでも言ってくれ」
「あの……無理のない範囲でいいんです。あ、愛称で、呼んでいただけたら……」
今夜のことが妄想や夢ではない証拠を残してほしかった。ロベルトはあまりイレーニアの名前を呼ばないけれど、彼だけが使う愛称があれば、いつでも気持ちを確認できる。
拘束が緩くなった。真剣な顔で考えていたロベルトは、ふと不安を浮かべて首を傾げる。
「エーニャ?」
「待ってください。心の準備ができていません」
思っていたよりも早く叶った願いに、イレーニアのほうが限界だった。ずっと心臓の音がうるさいし、赤くなっているであろう顔を見られたくない。
「却下だ。愛称は決まったな」
薄情なことに、夫は意地悪そうに笑った。
「……いじわる」
「苦情は後で受け付ける」
せっかく顔を伏せていたのに、ロベルトに上向かせられた。
「エーニャ、愛してる」
返事を言わせないまま口づけるのはずるい――唇に触れた柔らかい感触が、浮かびかけた苦情を全て流して、消していった。