23 答え合わせ
頬に触れるロベルトの手が心地よい。そろそろリオネラたちのことを話さないといけないのに、もう少し浸っていてもいいだろうかと図々しいことを思ってしまう。
ひとまずロベルトの上から降りようと決めたとき、扉を叩く音がした。
「ロベルト様、目が覚めたって本当で――あ」
返事を聞く前にダリオが入ってきた。いつもなら気心知れた者同士で問題なかったのだろう。イレーニアが寝室にいるとは思いもしなかったに違いない。
イレーニアはロベルトの上に乗っている。ナイフは床に落ちているが、ダリオの位置からは見えない。
動きを止めたダリオの顔がみるみる赤くなり、思いっきり目をそらされた。
「すいません……取り込み中とはつゆ知らず……ま、また後で来ます!」
弁解をする暇もなく、ダリオは慌てて寝室から逃げていった。きちんと扉を閉めていくところは、育ちの良さが出ている。
「……ロベルト様。思いっきり何かを勘違いされてしまったような気がします」
「どうやらそうらしいな」
あまり困っていない調子でロベルトが言う。
動揺しているのはイレーニアだけだ。急に恥ずかしくなって、ベッドから降りてイスに腰掛けた。
「改めて、最初からお話しします」
イレーニアは帰国してリオネラに会ったところから始めた。リオネラが属している集団のことはロベルトも知っていた。ベランジェールと不和が生じたあたりから周辺に現れるようになり、忠告と称してこちらの行動を操ろうとしてきたそうだ。
いつも匿名で、姿は絶対に見せない。判明しているのは、複数人いることと憂国の鷹と名乗っていることだけ。
「憂国の名で思い出しました。デルネーリ隊長と賛同していた騎士たちは、セルモンティ副長と父の部下が捕らえました。数名は暴走した魔獣にやられてしまったようですが。今はボルタ・ロゼ領で尋問の最中です」
「そうか。セルモンティにも会わないとな」
眠っていた間のことを知りたいのだろうが、今すぐ行動するのは避けてほしかった。傷はまだ完全に塞がっていないのだ。
「起きてすぐ働こうとせず、まずは静養なさってください。セルモンティ副長と連絡をとるのは、明日でもいいのでは?」
放っておくと無理をしてでも仕事を始めそうだ。食事に睡眠薬を投与することを検討すべきかとイレーニアは迷った。おそらく料理長は協力してくれる。
寝室から出さないことに関しては、家令のベニートとメイド長に頼んでおけば間違いない。二人とも孫と同世代のロベルトを気にかけていて、怪我の治療やその後の看病では率先して動いていた。年長者の知恵か話術で丸め込んでくれるだろう。
「それに私への処罰を聞いておりません」
「君の? なぜ」
「姉様たちがロベルト様を狙っていることを知りながら、ずっと黙っていました。それに先ほどナイフを向けたではありませんか」
床に転がったままだったナイフを指差したが、ロベルトはちらりと視線を向けただけですぐ興味を失っていた。
「君から殺意は感じられなかった。ナイフを見せたのは忠告だろう? 彼らが狙っているから気をつけろと」
「そんなの、暴論です」
「君が俺に差し向けられた刺客であるはずがない。殺したい相手に魔獣避けを渡すか? 生還できたのは、あれのお陰だ」
「使ったんですか。よく得体の知れない粉を使おうと思いましたね」
ロベルトたちが魔獣の暴走に巻き込まれた経緯は、父親から聞いていた。現場にいた騎士の証言によると、ロベルトが粉を撒いた直後から魔獣の勢いが減っていったそうだ。
「魔獣を引きつけてきた馬車が撒いていたものとは、明らかに香りが違った。庭に植えた木と匂いが似ていたから、君を信じてみようと思った」
「私を信じすぎです」
口から出てきた不満とは逆に、心の中ではロベルトが信じてくれたことが嬉しかった。にやけそうになる口元を両手で覆うと、楽しげに微笑むロベルトと目が合ってしまった。
今日は二人とも、どこかがおかしい。イレーニアは感情を隠せなくなっているし、ロベルトは感情がよく現れている。
「イレーニア」
真剣な声で名前を呼ばれた。ほとんど『君』としか呼ばれていなかったせいか、落ち着かなくなってくる。
「君に謝りたいことがある。初対面で結婚に期限を設けたことだ。俺と夫婦になったら肩身が狭いだろうと思って提案したが、まず君の意見を聞くべきだったと後悔している」
「……そうですね。結婚式の直前に聞きたい話ではありませんでした」
「本当に、すまなかった」
沈黙が流れた。
すぐに許しますとは言えず、かといって一生許さないなんて強いことも言えない。
「この先、どうしたいのか君の意見が聞きたい。今の関係を続けるのか、期限がきたら君が望むところへ行くのか。よほど無理な願いでなければ、提案を受け入れる」
「たとえば最初に仰ったように、私が望む良縁を用意してくださると?」
「……ああ。約束しよう」
答えるまでに間があった。
真面目ねとイレーニアは思う。
辺境伯とその配偶者では、辺境伯の発言のほうが権限が強い。イレーニアが離婚したいと言ったとしても、世間の認識ではロベルトが同意していなければ無効だ。決定権はロベルトにあるのだから、今さらイレーニアの気持ちを確かめなくてもいい。
「少し、考えさせてください」
そう答えると、ロベルトはそっと息をついてクッションにもたれかかった。事態が進まなかった残念さというより、何も変わらなかった安堵に見えて、イレーニアは余計に迷った。
* * *
建国記念の行事で王都へ向かうと聞かされたのは、ロベルトが目覚めてから三日後だった。
「ここは王都から遠い。早めに出立しておかないと」
ロベルトは招待状をイレーニアに見せた。
「一緒に来てくれないか。絶対に夫婦で参加しろと家族がうるさい」
「私に異存はありません」
両親だけでなく兄弟たちからも参加を促す手紙が届いていると、ロベルトが憂鬱そうに言った。
「仲が良いのですね」
「心配してくれるのはありがたいが、一人につき一通はやりすぎだろう」
今まで家族に関する話は必要最小限しかしなかった。わざわざ避けていたわけではなく、同居人もしくは仕事仲間として表面上の付き合いをしていただけだ。
帰ってきてからのロベルトは、イレーニアに心を開いてくれるようになったのだろう。ふとした時に見せる表情が増えた。ゆっくりと氷が溶けるほど速さで、変わり始めている。
「そういえばお母様からも、夫婦で参加するのよねと念を押されていた気がします」
イレーニアの母親が社交界に向けて、あれこれと口を出してくるのは珍しくない。口うるさく言わなければ、自分の娘は壁の花になると信じていた彼女のことだから、夫と共に辺境に引きこもると思っているのかもしれない。
「リオネラ姉様たちが接触してくると思いますが……」
「対策は考えてある。君は一人で会わないほうがいいな」
「伝令役に、王都へ行ったときに行動をおこすと伝えてしまいました。ロベルト様に情報を渡したあと、彼らを巻きこんで暴露してやろうと考えていて」
「勇ましいのは結構だが、一人で抱えるのは良くない。言っただろう、誰に何を言えば望む支援を引き出せるのか知っていると。君の護衛たちに比べると頼りないかもしれないが、王宮の逃げ道から君を逃すくらいはできるぞ」
「では襲われそうな時はロベルト様の近くにいますね」
遠慮なく頼らせてもらうと言うと、ロベルトは満足そうに微笑んだ。
二人で参加すると決めたあとは、にわかに慌ただしくなった。薬草園の手入れを庭師に任せたり、持ち物を選別したりと、準備しておくことが多い。合間にロベルトの怪我を診察して、無理をしていないか見張っていたら、なぜか甲斐甲斐しく夫を看病する妻と誤解されてしまった。
医療従事者としての使命だと説明しても、照れ隠しだと思われているのは納得できない。
忙しさからか、ロベルトとはあまり顔を合わせないまま、王都へ出発する日になった。
移動中のロベルトは同じ馬車に乗ることもあったが、大半は連れてきた愛馬で移動していた。街道の様子を自分の目で見たかったのだろう。同行していたダリオの話によると、街道の一部区間で補修工事に加わっていたらしい。やっぱり植樹以外にも色々とやっていたのねと感想をもらすと、何やってるんでしょうねあの人はと呆れつつも、眩しいものを見るような顔でロベルトの背中を眺めていた。
公爵家の子息が辺境についてきた理由が、なんとなく腑に落ちた。
移動間の宿泊は、街道沿いの宿を利用していた。相変わらずイレーニアとロベルトの寝室は別だ。
だが、一日だけ宿の空きがなく同室になったことがあった。
「ロベルト様がベッドをお使いください」
「いや、ベッドを使うのは君だ。ソファは俺が使う」
両者ともに譲らない。
ベッドは二人で寝ても余裕がある広さだった。だが今まで夫婦ではなく同居人として過ごしてきたのだ。いきなり同室になって、隣で眠れるほど図太い神経はしていない。
イレーニアは、辺境伯をソファに寝かせるわけにはいかない、体もまだ本調子ではないことを主張した。ロベルトはイレーニアが長距離移動で疲れているからと言って、自分がソファで寝ると言う。
「私のほうが小柄ですから、ソファでも十分です。ロベルト様だと窮屈でしょう? それにずっと馬車に乗っていただけで、疲れていません」
「自覚していないだけだ。新人の騎士がよくやらかす過ちだな。だいたい、君をソファに追いやって眠れるわけがない」
平行線のままかと思われたが、イレーニアに絶好の機会が訪れた。明日からの移行計画について、ロベルトが部下と話し合うために部屋を出ていった。
「よし、今のうちね」
イレーニアは急いでソファに毛布を運んだ。あちらが退いてくれないなら、先に占領してしまえばいい。寝ているイレーニアを見れば諦めてくれるだろう。
ロベルトの傷は塞がっていたが、体をひねると違和感がある様子だった。だからベッドでしっかり休んでほしいのに、強情だから困る。
寝る支度を整えてソファに座ったとき、ロベルトが戻ってきた。
「おやすみなさいませ。眠くなったので先に休ませてもらいます」
返事を聞く前に横になると、すっとロベルトの顔から表情が消えた。無言で寝ているイレーニアに近づき、毛布を剥ぎ取る。
「ひゃっ……」
横向きに抱き上げられて、悲鳴のような声が出た。ロベルトは黙ったままイレーニアを運び、強制的にベッドの中へ入れた。
「寝なさい」
「……はい」
軽々と持ち上げないでくださいとか、顔が近いですとか言いたいことが頭の中を渦巻いているのに、どうしてなのか素直に従う以外の行動ができなかった。
「おやすみ、イレーニア」
思い通りになって満足したロベルトは、そっとイレーニアの髪をなでて去っていく。照明が消されて真っ暗になった。音で察すると強引な夫はソファに寝転がったらしい。
――反則だわ。
あの顔で迫ってこないでほしい。動悸が治らない。
眠れなくなったのは私のほうよと心で訴えていたイレーニアだったが、徐々に瞼が重くなってきた。悔しいがロベルトが言う通り、慣れない長距離移動で疲れていたようだ。
翌日、イレーニアが起きたときには、すでにロベルトはいなかった。ソファには使っていた毛布が綺麗に畳んで置いてある。一人にされたことが残念だと思いながら、一人で着替えを済ませた。移動間の身支度は、いつも自分でやると決めている。
ロベルトに会ったのは、出発の直前だった。ソファの寝心地はいかがでしたかなんて皮肉は、ロベルトの顔を見ると羞恥心と共に消えてしまう。ぎこちなく朝の挨拶をしただけで、エルマと一緒に馬車に乗りこんだ。
イレーニアは馬車に揺られながら、昨晩の失敗を反省していた。原因はわかっている。ロベルトなら無理強いしてこないと油断して、対策を全くしていなかったことだ。
「私にもっと体重があれば……」
運ばれる前に抵抗する時間が稼げたはずだ。
唐突に嘆くイレーニアを、エルマは胡散臭いもののように見てくる。
「大丈夫ですか?」
「健康よ」
「いえ、頭のほうです」
イレーニアは昨夜のことを簡単に説明した。付き合いが長い侍女は黙って聞いたあと、なるほどとうなずく。
「それはまた……紳士ですね」
「そうね。迷うことなくベッドに運ばれたわ。無表情でね。緊張したのは私だけよ」
「そうでもないと思いますけど」
エルマは窓の外を眺めている。
「今日の旦那様は、ずっと愛馬で移動していますね」
「馬車に乗るよりも、自分で馬を操るほうが好みだからでしょう。街道の様子もよく見えるし、よその領地で参考にできそうなものが見つかるかと……なにか言いたいことがあるの?」
不満そうなエルマが、残念そうにイレーニアに言った。
「今日は起きてから目線が合いましたか?」
「……いいえ」
そういえば、いつもより素っ気ない気がした。
「仮面夫婦のくせに初夜の翌日みたいな空気を醸し出せるって、かなり拗れてますね」
「初夜の翌日……?」
「同じ寝室で一夜を過ごすの、初めてじゃないですか」
「あっ……」
寝室が同じと聞いても、そんな連想は出てこなかった。
「昨日を一回目に数えてもいいの? やり直し、できると思う?」
「それこそ二人で話し合ってください」
生ぬるい笑みを浮かべたエルマは、面倒だという態度をにじませて言った。
* * *
結婚式のときは『他人に触れられるのが苦手だ』と言っていたロベルトだったが、王都が近づいてくるにつれて積極的にエスコートしてくれるようになった。過去のぎこちなさは演技だったのかと疑いたくなるほど、自然な動きで導いてくれる。
変化の差が激しくて、途中で入れ替わったと言われても違和感がない。魔獣に襲われた衝撃で、認知に歪みでも生じてしまったのだろうか。
「驚きました。女性が苦手ではなかったのですか?」
「今も苦手だが、君は例外らしい」
「……ああ、建国記念行事に向けての練習ですね。夫婦ということになっていますから」
「い、いや……そういう意味ではなくて」
珍しくロベルトが焦っているのは、イレーニアに建前が通じなかったことが原因だろうと解釈した。
どんなに仲が悪かったとしても、国王の前で無様な姿は晒せないのだ。そんなことで怒るほど、イレーニアは狭量ではなかった。慣れるまでいくらでも練習に付き合いますねと請け負うと、ロベルトは礼を言ってから落ち込んでいた。
「……過去の俺を殴りたい」
馬車の中で少し考えてみたが、何を後悔しているのか分からなかった。