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22 落ちた夜

 ロベルトは人の気配を感じて目を開けた。照明の光が眩しい。反射的に手をかざすと、近くにいた誰かが息を潜めて動きを止めた。


 最初に見えたのは、赤い色だった。ここ三ヶ月ほど屋敷の中で見かけるようになった、鮮やかで暖かい色。本人はリンゴのようと自嘲していたけれど、ロベルトは暖炉の炎のようで好ましいと思っていた。


「イレーニア」


 抵抗もなく名前が口から出てきた。

 ぼんやりと覚醒しては眠る中で、彼女の赤色が見えていたのは覚えている。

 彼女の金色の瞳が悲しそうに揺れた。


「すいません。許可なく寝室に入って……」

「それは構わない」


 ロベルトが体を起こすと、イレーニアはクッションを背中に添えてくれた。ベッドに座った姿勢が安定して、彼女の顔が見やすくなった。


 窓の外は暗い。夜中の何時ごろだろうか。時間の感覚は全く使い物にならなかった。


「夢か現実か分からないが、君が献身的に治療をしてくれていた気がする」

「面白い夢ですね」


 イレーニアは即答した。ふいと視線をそらし、ロベルトのほうを見ようとしない。

 頬が少し紅潮していることに、イレーニアは気がついていないようだ。


「ということは現実だな」

「どうしてそう思うのですか?」

「君の後ろでメイドが首を横に振っているぞ」

「……エルマ」


 こっそり事実を教えてくれたエルマは、壁際で静かに立っている。置物になりきることで、主人からの追及を逃れることに成功したらしい。


 信用している侍女の裏切りに、イレーニアの頬がますます赤くなった。普段は穏やかなのに、たまに処理しきれなかった感情が現れるところが愛おしくなる。


 だから触れてみたくなった。若い女性は相変わらず苦手だが、イレーニアなら近づいても気にならなくなっている。


 顔を合わせる時間が増えたことだけが原因ではない。

 彼女が信用できるところを惜しみなく見せてくれたから。


 つかず離れずの関係で終わるはずだった。けれど今は終わってしまうのが惜しい。期限を決めた過去の自分を盛大に罵ってやりたくなった。


 イレーニアに会うまで、ずっと泥の中をもがいていたような気がしていた。精神的な苦痛には終わりがないと錯覚して、昔のことをいつまでも引きずっていた。だから自分の妻になるのは可哀想だから離婚しようなんて、イレーニアに何の相談もなく勝手に決めた。


 初対面で失礼なことを言ったのに、よく見捨てないでくれたものだ。


 ベランジェールのことを終わったことだと乗り越えられたのは、間違いなくイレーニアの存在があったから。


 彼女の気持ちが知りたくなった。ロベルトから伝えてしまうと、また失敗しそうだ。

 それに、嫌われているなら、潔く諦められる。


 * * *


 ロベルトが完全に目覚めた。イレーニアは置物になりきっているエルマに、ダリオを呼んでくるよう申しつけた。エルマは無表情から侍女らしい笑顔で了承し、いそいそと寝室を出ていく。


 二人きりになると、ロベルトから治療の礼を言われた。


「ヴェネリオ殿が治療できる場所へ運ぶと言っていた。君のことだとは思わなかったな」

「……留学先で専攻してしていたのは、医療です。薬の知識も併せて覚えなければいけませんでした。法律で医療行為が制限されることもあるので、医療以外の科目も修めなければ卒業できなかったんです」

「ようやく君の知識が幅広い理由が分かったよ。歴史にも詳しそうだな」

「あまり得意ではありませんが、戦争と医療は無関係ではありませんので」


 ロベルトは迷っているように見えた。本当は違うことが聞きたいけれど、踏みこむ勇気が持てないといった感情が見え隠れしている。


 聞きたいのは留学した理由だろうか。この国でも医療は学べるのに、なぜわざわざ外国へ行ったのかと。


 聞かれたら、リオネラの名前を出さずに説明するのは難しい。優秀な従姉妹とは別の道を探していたら、見つけただけだ。人を救いたいなんて立派な動機は、留学する直前まで持っていなかった。


 ――弱っている今のうちに、か。


 商人の言葉を思い出したら、リオネラのことまで浮かんできた。


 自分たちとは意見が合わないから殺せだなんて、よく物騒な思考に走れるものだ。赤の他人なら冷笑して見ているのに、中途半端に血が繋がっているから、たちが悪い。


 イレーニアはナイフを押し付けられてしまった。


 ――そうね、行動をおこすなら今しかないのよ、姉様。


 寝室にはイレーニアとロベルト以外、誰もいない。

 ふくらはぎに固定した鞘から、ナイフを引き抜く。


 目覚めたばかりで弱っているロベルトの上に乗り、逆手に持ったナイフを自分のこめかみの高さまで上げる。


「イレーニア」


 このナイフを振り下ろせば、全てが終わる。イレーニアは好機だと理解していたが、腕を動かすことはなかった。


「……俺を殺すなら、胸じゃなくて首を狙え。君の腕前では肋骨に当たって、うまく心臓に刺さらない。何度も振り下ろすより、首の血管を切るほうが早い」


 ロベルトは最初こそ驚いたものの、何かを受け入れ、イレーニアを見上げて冷静に言った。妻の座におさまった女が、自分を押し倒して馬乗りになっていることも、ナイフで殺そうとしていることも、彼を動揺させる状況ではないらしい。


「ああ、でも、俺を殺すのは一年ほど待ってくれないか?」

「この状況で、何を言っているの」


 すぐそばに死が迫っているというのに、悠長なことだとイレーニアは半ば呆れた。


 ロベルトはイレーニアから視線をそらさずに言った。


「治水工事がもうすぐ終わる。辺境に派遣されていた官僚がいい加減で、何年も放置されていた場所だ。汚職問題も関係者を処分して、ようやく行政の立て直しが終わったところだ。いま責任者がいなくなるのは望ましくない」

「命乞いと受け取ってもよろしいの?」

「俺の命はどうでもいい。辺境に生きている、全ての領民が安心して暮らせる環境を用意するために必要なんだ。辺境が荒れれば国の守りに影響が出る。それなのに前任者たちは十分な対策と支援をしてこなかった」


「あなたは、あと一年で何ができるの?」

「以前も言ったと思うが、誰に何を要求すれば、中央から望む支援を得られるのかを知っている。自分の権限を利用して、俺は辺境伯として為すべきことをするだけだ。一年あれば……できれば二年欲しいが、次の辺境伯にふさわしい人材を見つけて、君を自由にできる」


 隣国と国境を接する領地を治める者としての覚悟に、イレーニアは少しずつ戦意を削られていった。大勢の命を背負いつつ、裏切り者のイレーニアにも良い未来を用意しようとしている。


 出会った時からそうだった。自分のことよりもイレーニアの評判が落ちるのを気にして、辺境伯有責の離婚を提案してきた。次の縁談に影響が出ないよう、最大限に配慮すると言って。


 ――真っ直ぐすぎて、不器用ね。


 内乱罪で訴えればいいのに。国の守りを蔑ろにしたイレーニアなど、極刑にされるべきなのだ。


 イレーニアを足がかりにして、王国内の膿を出しきる。国難を未然に防いだなら、辺境伯はもう社交界で冷遇されることはない。そんな筋書きが見えないはずがない。どうせ、まだ未遂だからと甘いことを考えているのだろう。


 この甘さがイレーニアを乱している。


「君の背後には誰がいる?」

「教えないわ」

「教えられない、の間違いだろう」


 ロベルトの手がイレーニアの頬に触れた。

 もっと早くロベルトと知り合いたかった。

 リオネラに仲間だと思われる前に。

 ベランジェールがロベルトの心を閉ざしてしまう前に。


 いつも、自分ではどうしようもない状態になってから、順番が回ってくる。

 心のどこかで、ずっと一番になりたいと思っていた。誰かの関係者なんて評価ではなく。自分だけを、イレーニアという人物だけで判断してほしかった。


 せっかくイレーニアが持っているものを認めてくれる人に出会えたと思ったのに、期限付きの関係にしかなれなかった。ゆっくり減っていく残り時間の中で、自分がいた爪痕を残せたとしても、紙切れ一枚で離縁が決まってしまう。


 手元に残しておく価値すらありませんかと聞いてみたかった。

 あらゆる分野で頂点に立たないと、覚えておいてもらえないのかと。

 憧れていた従姉妹のように。


 透明な雫が指先を濡らす。


「泣くほど追い詰められるまで、気が付かなくて申し訳ない」

「謝らないで。これは、そういう意味の涙じゃないの」

「俺は君の夫だ。夫婦とは、支え合うものだろう」

「本気で言ってるの? 書類上の夫婦だって言ったのは、あなたよ」

「書類上だろうと、冷遇するつもりはない」


 イレーニアはナイフを持つ手をゆっくり下ろした。


「その言い方はずるいわ。あなたは私を妻という名前の同居人にしているだけなのよ。そうでしょ?」


 どうせ最初から無理だったのだ。暗殺を持ちかけられた時点で、イレーニアの人生は終わっている。うまくこの場を逃げられたとしても、リオネラが犯した罪からは逃げられない。


 理想のためにこの国の王子を、辺境伯の暗殺を企てるなんて馬鹿馬鹿しい罪だ。


 イレーニア自身は正直に、誠実に生きてきたつもりだった。

 なんの役にも立たなかったけれど。

 いくら善人であろうとしても、悪意を持つ者が簡単に平穏を壊してしまう。


 ――馬鹿なのは私ね。


 自分一人で抱え込んで、無駄に時間を伸ばしただけだった。もっと聡明だったなら、うまく立ち回れただろうか。あの従姉妹のように。


 リオネラは常に綺麗なところで生きている。誰もが輝いているリオネラに近づきたくて、なんでも差し出したがった。


 彼女の綺麗な理想は、彼女を信奉する人が汚れ仕事を自ら引き受けることで叶えられている。彼女が掲げる理想のためにイレーニアの犠牲が必要なら、信奉者は喜んで首に縄をかけにくるだろう。


 だからイレーニアは無関係だと主張する虚しさを知っていた。どう無実を訴えても、自分が知らない証拠が方々から出てきてしまうから。会ったこともない人たちが、イレーニアを踏み台にして、リオネラと同じ場所へ行くために。


「イレーニア」

「全部、話すわ。私をどうするかは、あなたが決めて」


 イレーニアはナイフを手放した。絨毯の上に落ちたナイフは、鈍い音をたてて動かなくなる。そのうち、自分の首も同じように落ちるのだろうかと、暗い未来が頭をよぎった。


 ――でも、これで。


 ロベルトは遠慮なくイレーニアを切り捨てられる。ただの書類上の妻だ。夫婦としての生活は最初から破綻していて、離婚する理由には困らないのだから。

ロベルトはずっとイレーニアのことを「君」呼びだったので

ちゃんと名前を呼んであげられるようになって良かったです。

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他にも異世界ファンタジーとか書いてます。暇つぶしにどうぞ。



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