2 三ヶ月前
イレーニアが留学から帰ってきたとき、全てのことが決まっていた。
嫁ぎ先、結婚式の日取り、招待客――せめて手紙で相談するか、前もって知らせてくれていたなら、苛立ちも少しはましになっただろう。それとも、イレーニアの耳に入ったとたんに、留学先から帰ってこなくなるとでも思われたのだろうか。
イレーニアは肩が重くなるのを感じた。帰国の挨拶もそこそこに、父親から自身の未来を教えられたのだ。移動間に溜まった疲労が倍増したらしい。久しぶりの休暇をどう過ごそうか考えていた頭の中が、一気に暗い色に染まっていく。
「貴族の家に生まれた者として、親が決めた相手と結婚することは覚悟しておりました。ですが、少し急ではありませんか? 婚約ではなく、帰国してすぐに結婚しろなどと……」
「王家から打診されては、さすがに断れなかった」
父親のヴェネリオは申し訳なさそうに言った。
怒られた緋色の熊のよう――イレーニアは自分と同じ赤い髪をした父親を、そう心の中で評した。相手に威圧感を与える強面の顔が、今は娘の責めるような視線で萎縮している。普段の堂々とした態度とは大違いだ。
「政略ですか。お相手は、どなたですか?」
「ロベルト殿下だ。お前も知っているだろう? 第三王子だよ」
「ええ、お名前だけは存じ上げております」
「このたび国王陛下がロベルト様を、オルドーニ辺境伯に命ぜられた。領地はイゼルヴァとの国境付近にある」
「あの辺境伯不在の領地ですか?」
「ああ。お前が留学してから、少し情勢が変わってね」
辺境は外国と国境を接する、国にとって重要な領地だ。そのため辺境伯には王族や、裏切ることがない忠臣を据えることが常識となっていた。
前任者だった辺境伯は跡継ぎに恵まれないまま、高齢で亡くなった。血の繋がりがある者はなく、食糧事情も悪く凶悪な魔獣まで出現するため、誰も統治したがらなかった。イレーニアの記憶では、一時的に王家の直轄地となっていたはずだ。
父親によると、辺境はしばらく王都から派遣された文官たちによって運営されていた。ところが辺境の運営を取りまとめる最高責任者は、仕事の能力はあったが人の上に立って采配を振るう能力は持ち合わせていなかった。
結果として人望を集めることができず、山積みになった問題を解決することを優先して、各部署が勝手な裁量で動くことを許してしまった。何をしても咎められることがないので、汚職や資金の横流しなどの内部問題が発生していたそうだ。
王都から遠く離れているため、問題の発覚が遅れて領土がさらに荒れた。ちょうどイレーニアが留学のために国を離れた時期に、関係者が処分されて新たにロベルトが任命されたという。
「王家からの打診ということは……」
「我が家には、辺境伯の後ろ盾となってほしいとお声がけを頂いた。領地が近い騎士団の幹部のうち、相手が決まっていない娘がいるのは我が家だけだ」
「私が選ばれた理由は理解できましたが、やはり性急すぎませんか」
「それだけ早く辺境を建て直したいのだろう。イゼルヴァは最近になって、急速に軍備を増やしているからな。周辺国には魔獣対策と説明があったが、奴らの言い分を丸ごと信じるのは愚かだ」
王は辺境伯が有する戦力だけでは、隣国を抑止できないと考えているのだろう。領地内の問題は片付いておらず、慢性的に資金や人員が足りない。そこでイレーニアを口実にして、実家であるボルタ・ロゼ家の戦力を国境付近に配置し、ひとまず辺境伯には領地の改革に専念させる方針なのだろう。
「辺境伯は領地の内政を支えてくれる人材を探しておられるそうだ。お前が外国で学んできたことも、あの地なら活かせるだろう」
「……そうですね」
イレーニアは知識を無駄にせず済んだ安心とは別に、己は政治の駒としてしか見られていないのだと実感した。
翌日から、イレーニアには結婚に向けて組まれた予定を消化する日々が続いた。ドレスの調整はもちろん、いま住んでいる王都を離れる準備もある。友人たちへ辺境に嫁ぐことになったと明かすと、なぜかほとんどが複雑そうな顔で祝福してくれた。
――敵国の人質になったと言っても、ここまで悲痛さを押し殺した顔にはならないはずだわ。
手放しで喜んでくれる相手でないことは、嫌でも察した。
皆が隠している事情を知ったのは、従姉妹のリオネラが屋敷を訪れたときだった。
「久しぶりだね、イレーニア」
留学してから一度も会っていなかったリオネラは、昔と変わらない爽やかさで微笑んだ。
「姉様、会えて嬉しいわ。でも仕事はいいの?」
「少しの間だけ抜けてきた。帰国の出迎えに行けなかったからね、その埋め合わせだ」
リオネラは国内では珍しい女性騎士だ。王族の警護を引き受ける近衛隊に所属している。忙しい仕事の合間をぬって会いにきてくれたのだろう。白を基調とした制服を着たままだ。背中に広がる赤い髪との対比が綺麗だった。
ただ座っているだけなのに、リオネラには華がある。意志が強い緑色の瞳と、凛とした振る舞いは、理想的な騎士そのものを体現しているかのようだ。
イレーニアが学院に通い、留学することを選んだのは、リオネラの影響が強い。
男装がよく似合う従姉妹は、子供の頃から聡明だった。武術、魔術ともに優れており、学院を卒業した後の進路では、様々な国の要職が彼女を取りあっていたと聞いたことがある。どこへ行っても成功するだろうというのが、彼女への評価だった。
リオネラのさっぱりとした性格は付き合いやすく、何をやらせても平均以上の優秀さは男女問わず憧れの対象だった。それでいてリオネラは能力の高さを鼻にかけたことがない。
幼い日のイレーニアはリオネラを姉のように慕い、彼女のようになりたいと思っていた。だが成長するにつれ、リオネラの優秀さと己を比べるようになってしまい、次第に息苦しくなってきた。
とにかく欠点らしい欠点がないのだ。
学院でリオネラの名を知らない者はいなかったし、リオネラの親戚だと知られると、彼女と繋がりを求める人々から、やたらと話しかけられた。学院ではイレーニア・ボルタ・ロゼという学生としてではなく、リオネラの親戚として大半の者に覚えられていた。
どこへ行ってもリオネラの名がついて回る。だからイレーニアはリオネラのことを知らない国へ行きたいと、強く思うようになっていった。
リオネラは悪くない。あくまでイレーニア自身の問題だ。
自分の名前をなかなか覚えてもらえなかったのは、イレーニアが憧れの従姉妹を越えるものを持っていなかったから。
だから勝手に抱いた劣等感は、表に出さないよう努めた。
近況を伝えあったあと、リオネラは心配そうに声をひそめた。
「君はロベルト王子のことを聞いているか?」
「……いいえ。実はあまり知らないの。留学先では、あまり国内の情報は入ってこなかったから」
「無理もない。外国への手紙には、検閲されることを前提に書かなければいけないからね」
留学前によく言われたことだ。誰に読まれてもいいように、個人的なことや諜報員と勘違いされることを書いてはいけないと。
「イレーニアが留学してからのことだ。ロベルト殿下は身分違いの恋愛をしていた。三人目の王子だからか、あまり問題視されていなかったのだが」
とある珍しいものを好む貴族が、旅芸人を夜会の余興として呼んだことがあったそうだ。たまたま出席していたロベルトは、そこにいた踊り子に興味を持ち、交際が始まったという。ところが後に、相手はロベルトの身分にしか興味がないと分かり、二人は破局してしまったそうだ。
「相手はロベルト殿下に関係を迫られたとか自己弁護をしていたようだが……真相は本人たちにしか分からない。ただ殿下が荒れた辺境へ送られたのは、懲罰目的ではないかと言われている」
「そんな……幽閉の代わりだということ? でも姉様、辺境は国にとって重要な領地よね?」
「ああ、そうだ。平民の女に誑かされていた殿下が、国防の要である辺境伯が務まるのか疑問だね。あの地には広い森に凶悪な魔獣がいる。肥沃な農地はないが、守りに適した地形だ。辺境が敵の手に落ちてしまえば、取り戻すことは難しい。外交上、難しい場所だからこそ、今まで誰も行きたがらなかったんだ。それに――」
リオネラはイレーニアを慰めるように、そっと手を握った。
「ここから先は心地よい話ではないが、無関係ではないから聞いてほしい。ロベルト殿下には謀反の疑いがある。辺境伯の立場を利用して、敵国と通じているという情報が届いた。女性に弄ばれ、辺境送りにされたことを恨んで国を荒れさせようとしている、このままでは隣国に乗っ取られると」
「でも……そんな人なら、辺境伯になれないのではないの? 国王陛下が問題ないと判断されたから、ロベルト様を任命なさったのでしょう?」
「イレーニア。いいか、敵は色々なところから政治の中枢へ侵入しようとしている。君が考えている以上に、人は弱い。敵に買収されていた役人が、辺境伯の選定には隣国の思惑が絡んでいると自白した」
「姉様……」
「私たち貴族はね、この国を良い方向へ導く立場なんだよ。民衆の模範だ。性別は関係ない」
後世のために、より良い国を作らなければならない――リオネラが常に言っていることだ。
「傀儡国にならないように、不穏分子は片付けないと。だからね、イレーニア。もし謀反の証拠を見つけたら、私に教えてほしい」
リオネラは布に包んでいたナイフをイレーニアに渡した。
「連絡が間に合わないなら、君が決着をつけなさい。連座で処刑されたくないだろう? 辺境伯の罪は、彼だけのものだから。支援の言い訳に使うために、君は嫁がされた。そのうえ無実の罪で処刑される人生なんて、受け入れるべきではない」
布を開くと、飾り気のないナイフが出てきた。鞘の鍔に近いところには不自然な突起がある。
「そのナイフの鞘には毒が仕込んである。そのまま抜くと、ただのナイフだよ。突起を潰すように握って抜くと、刃に毒が塗られる仕組みだ。でもね、万が一ということもある。刃を素手で触ってはいけないよ」
「どうして、こんなものを?」
「君は武術の心得があるが、男女の体格差はどうしようもない。確実に目的を遂行するためだ」
リオネラは簡単な数式でも口にするかのように言った。
――どうしてそんなに冷静でいられるの?
人の生死が関わっているのに、まるで盤上の駒を眺めているような錯覚に陥りそうだった。
聡明なリオネラには、繁栄する未来への道筋が見えているのだろう。目的に向かってまっすぐ進む彼女には、従いたくなる求心力がある。だが夫となる辺境伯を始末しろ、もしくは破滅させる手伝いをしろと言われて、疑問が生まれた。
イレーニアは辺境伯のことを何も知らない。謀反の疑いがあると聞かされただけで、証拠を見せられたわけでもない。リオネラが語っていることが真実である確証もないのだ。
イレーニアには、辺境伯がリオネラたちの理想から外れているという理由で、排斥されようとしているように感じた。
どこまでが本当で、正しいことなのだろうか。
彼女から聞いたことだけで、辺境伯を罪人だと決めつけてしまうのは、きっと正しくない。
イレーニアはリオネラほど優秀ではない。人よりほんの少し知識があるだけだ。留学先では天才と称される人々を見てきたし、努力をしても追いつけない壁を感じていた。だからこそ、彼らと同類になれないと悟っている。
もしイレーニアがリオネラの求める理想の枠からはみ出てしまったら、辺境伯と同じように排除されてしまうのだろうか。
「ナイフが見つかったとしても、ボルタ・ロゼ家の女性なら疑われない。戦う術を学ぶのは当然だし、嫁ぎ先に武器を持参することは有名だからね。辺境で出会う使用人にも、そう説明しておくといい」
リオネラはイレーニアの葛藤に気がつかないまま、話を進めていく。もうイレーニアが辺境伯を見張ることは、決定している事項らしい。
すっかり黙ってしまったイレーニアに、リオネラが安心させるように微笑んだ。
「私たちは君に負担をかけたいわけじゃないんだ。辺境のことを知らせてくれたら、後はこちらで動く。ナイフは保険だ。私の予測では、君がナイフを使う確率は三割かな」
「姉様は私も実行役に含んで計画しているのね」
「イレーニアはいつも私の、私たちの目標に賛同してくれたからね。大切な仲間だよ」
それは違うと言いたかったのに、リオネラは時間だと言ってソファから立ち上がった。
「今日の話は部外者には言いふらさないように。君の家族も駄目だ。どこに外国の勢力が潜んでいるのか分からない」
リオネラが勝手に話を進めていく。姉様と呼びかけて止めようとしても、不安に思うことはないと見当違いな答えを寄越してきた。
「定期的に連絡員を寄越すよ。君が非情な決断をしなくて済むようにね。私たちを頼ってほしい。助けを求めてくれたなら、いつでも辺境へ駆けつける」
まるで物語に出てくる騎士のようだとイレーニアは思った。けれど現実は空想ほど甘くない。華やかな理想の裏側には、いつも血生臭いものが隠れていると、歴史を学んでいれば嫌でも目につく。
正面玄関でリオネラの背中を見送るあいだ、受け取ったナイフを捨ててしまいたいと何度も考えていた。
自室へ戻ったイレーニアは、誰もいない空間でつぶやいた。
「どうして全てを決めてから、私に話を持ってくるの? 一度も私の意見を聞かないくせに、どうやって賛同していると判断しているのよ。姉様も、他の人も」