18 分岐点
朝から騒がしい日だった。
魔獣被害が頻発していると聞き、何かしらの心当たりがあったロベルトが討伐へ向かうことになった。
――嘘ね。
行き先を聞いてもはぐらかされる。ボルタ・ロゼの騎士たちに聞いても、どこかの砦に宿泊するという情報は出てこない。持ち物の中には、野営の準備が含まれている。そもそも、魔獣討伐に有効な罠などの道具が準備されていないなど、不審な点が多いのだ。
「ロベルト様」
イレーニアはロベルトが一人になるときを見計らって、執務室に入った。自分の剣を点検していたロベルトは、意外そうに出迎えた。
「出兵ですか」
ロベルトは少しの間だけイレーニアを見た。喉に剣先を向けられたような、張り詰めた空気に動けなくなる。
「森に魔獣が出た。被害が広がる前に片付けてくる」
「嘘ですね。あの装備では魔獣を狩れません。あれは人間と戦うための装備です」
「盗賊の討伐も兼ねている」
「私がボルタ・ロゼ家の者だとお忘れですか? 父の仕事を近くで見ておりましたので、必要な装備ぐらいは分かります」
ロベルトの視線が迷うようにそれた。
「……君に全てを話すわけにはいかない。何事もなく離縁するためには、知らないほうがいいこともある」
「配備したはずの武器が消えることとか?」
「なぜ君がそれを知っている?」
イレーニアが答えないでいると、ロベルトは彼らかと言って納得した。ボルタ・ロゼ家の騎士たちが各地に配置され、イレーニアに望む情報を流していると察したらしい。
「教えてください。なんのために兵を進めるのですか」
「裏切り者を始末する。兵が領地を出ることはない。今はそれで納得してくれ」
「ことが片付いたら、真相をお聞きしても?」
「喋れる範囲で良ければ」
イレーニアは引き下がった。今のロベルトには何を聞いても答えてくれない。半ば予想していたこともあって、落胆はしなかった。
「魔獣討伐とお聞きしたので、これを作ってきました。受け取っていただけますか?」
小さな袋を差し出すと、ロベルトは躊躇いなく受け取った。
「これは?」
「魔獣が嫌う植物を粉にしました。必要に応じて振り撒いてください」
「……ありがとう」
礼を言うまで間があった。本物かどうか疑っているのだろう。馴染みがない香りだから仕方がないと割り切った。
正面玄関までロベルトを見送りに行くと、ふと思い出したようにイレーニアを振り返った。
「……結婚前に君の父上と二人きりで話す機会があったのだが」
「初耳ですね。お父様はなんと?」
「大切な出陣の前には、必ず行っていることがある、と。思い出したら、真似をしてみたくなった」
そんなことしていただろうか――父親の行動を思い出そうとしても、該当するものが見つからない。
戸惑うイレーニアの髪に、ロベルトがそっと触れた。髪を一房すくい、口付ける。優しく微笑んだロベルトは、名残惜しそうに手を離した。
「留守を頼む」
目を合わせて言ったロベルトは馬に乗ると、一度も振り返らずに正門から出て行った。ロベルトの後に続いて少数の騎士が騎乗して門をくぐり、速度を上げていく。
立ち上る砂煙を見つめたまま、イレーニアはそばにいるはずのエルマを呼んだ。
「どうしましょうエルマ。旦那様が格好いいわ」
「そうですね」
長くイレーニアに仕えているエルマは、感情がこもらない声で答えた。呆れが混ざっていると感じるのは、気のせいだろうか。
家令のベニートやメイド長は微笑ましそうに見てくるし、他の使用人は安堵した顔になっている。どうにも感情の置き場所が見つからない。予想外なことをしてくるロベルトのせいにしてもいいだろうか。
ロベルトたちが出立してすぐに、屋敷の前に粗末な馬車が停まった。
「イレーニア様。王都から来た商人が面会を求めております。リオネラ様の紹介と伺っておりますが……」
ご丁寧に紹介状を持ってきたらしい。届けてくれた使用人に礼を言い、中へ通すよう伝える。
空を漂っているような夢見心地だったのに、墜落して泥の中に埋まった気分だ。
中へ通された商人は、イレーニアに会うなり笑顔を貼りつけ、無遠慮に全身を眺めてきた。身につけている服や装飾品はそれなりに高級なものなのに、なぜか清潔感がない。ネズミを連想させる顔をした男だ。
「初めましてイレーニア様。ご機嫌麗しく――」
「よろしくはないわね。あと、名前で呼ばないで」
印象は最悪だ。不機嫌さを隠さないイレーニアに対し、商人は全く動じず、では辺境伯夫人と呼称を改めた。
「本日はご挨拶に参りました。リオネラ様から、お聞きになりましたよね?」
「どの話かしら。私からあなたに言うことは、何もないわ」
「ご冗談を。たいへん優秀な方だと聞いてますよぉ。リオネラ様が求めている話題を見つけておられるのではないかと」
遠回しに、ロベルトの不正や謀反の証拠をねだられている。近くにいるエルマを警戒して、曖昧な言い方を選んでいた。自分から言いだせば、不穏なことを口にしたと難癖をつけられると知っている。
狡猾で掴みどころがない。
「姉様は色々なことに興味がある人よ。私が知っていることは、姉様も知っていると思うわ。私は姉様ほど優秀じゃないから」
「またまたご謙遜を」
媚を売っているつもりなのか、商人はニヤニヤと笑う。
「それにしても、ずいぶんと物々しい格好でお出かけなさいましたねぇ。辺境伯様は」
「いつものことよ。鎧の音で、たいていの魔獣が逃げるわ。あなたたちが安全に街道を通れるのは、夫が尽力しているから。そうでしょう?」
「魔獣、ね。ええ、今回も平和にここまで来られましたよ」
しかしと言葉を区切った商人が、見た目だけは心配そうに顔を歪めた。
「噂によると、魔獣被害が頻発しているらしいじゃないですか。ご無事でしょうか。勇敢な方だと聞いておりますので、無理をなさるのではないかと。辺境伯夫人がリオネラ様から任されたこと、遂行する機会が訪れそうですねぇ。旦那様に渡したのは、魔獣避けの香ですか? それとも魔獣寄せ?」
「さあ? どちらだったか忘れたわ。使ってみれば判明することよ」
「夫人を信じて使ってもらえるといいですねぇ。結果が楽しみです」
どこかから見ていたのか、または言葉巧みに使用人から聞き出したのだろう。
イレーニアが片手を軽くあげると、壁際にいた護衛が動いた。
「用件はそれだけ?」
「ええ、今回はご挨拶だけでしたので。次はうちの商品をご覧にいれましょう。では」
商人は護衛に連行される前に、自分から扉へ向かった。本人は愛想がいいと思っている顔で、ちらりとイレーニアの胸を見るのも忘れない。最初から最後まで下品な男だ。
昔から胸を凝視してくる男は嫌いだ。もし許されるなら、今すぐ花壇に埋めてあげたい。あんな男でも肥料としての役割は果たせるはずだ。
「塩でも撒きますか?」
「土と雑草が可哀想だから、やめておきなさい」
無表情に薄く殺意をにじませたエルマが、魅力的な提案をしてきた。だが被害に遭うのが無関係な大地なので、仕方なく却下する。
「エルマ。今日は裏庭でサテラの木を排除しましょう。ジータが中途半端に剪定した木よ。あれを抜いたら、少しは気分が晴れると思うの」
小ぶりな木を切り倒し、残った根の周囲を掘っている間、商人が仄めかしていたことが気になった。
あの男はイレーニアが知らない情報を掴んでいる。もし興味があるそぶりを見せたら、ロベルトに関する情報と交換だと言ってきただろう。あの種類の人間は、内側へ入りこむ穴を見つけたら、強引に押し入ってくる。欲しがっているものを餌にして、強請る手法が身についているのだ。
とにかく関わってはいけない。
「もどかしいわね」
「イレーニア様?」
「根のことよ」
鋤の先端で根を切りながら、エルマにはなんでもないと返した。
ロベルトの様子が気になる。
レアンドロは今どこを巡回しているのだろうか。帰りが遅れている。ボルタ・ロゼとの境へ向かっていたはずだ。父親に定期報告をして、そのまま向こうの伝令業務をしているかもしれない。
感情に任せてロベルトの後を追いかけ、自分の目で確かめたくなった。だが冷静な自分が、足手纏いだからやめろと忠告してくる。自分で自分の身を守れないのだから、大勢に迷惑をかけてしまう。
落ち着かない日々が続いた。また来ると言った商人が接触してくる気配もない。どこで寝泊まりしているのか、護衛の情報網に引っかからなかった。
出立から一週間後、討伐を終えたロベルトが帰ってきた。ただし、魔獣に深い傷を負わされた状態で、レアンドロが操る馬車での帰還だった。