16 巡る因果
最近、室内で虫を見かけることが増えた。
荒れた裏庭を薬草園に作り替えている影響で、居場所を失った虫が新天地を求めて侵入してきているのだろう。そんな言い訳を思いついたイレーニアは、机の上で動いている丸々と太った芋虫を外へ出そうと窓を開けた。
「あら。よく見たら、これは……」
真っ白な体をした虫だ。今は元気に這い回っているが、時期がくれば白い糸を吐いて繭を作る種類ではなかっただろうか。その繭を紡いで織られた布は、手触りがよく軽いと評判だった。
「ここにいるということは、生息地が近いのね」
イレーニアはその虫を大切に封筒の中へ誘導した。狭くて居心地が悪いだろうが、裏庭の空き箱へ移すまで我慢していてほしい。
「エルマ、いる? 面白いものを見つけたわ!」
最も信頼しているメイドに知らせるべく廊下へ出た。途中で若いメイドとすれ違ったが、手に入れた虫のことばかり考えていたので、複雑そうな表情で頭を下げる彼女のことはすぐに思考から消えていった。
アイロン室にいたエルマを見つけたイレーニアは、封筒に入れた虫を見せた。
「見て、天使の糸を出す虫よ」
エルマは元気に動く虫を見たまま、困ったように言った。
「天使の糸? 絹糸を出す虫ではないのですか?」
「種類が違うのよ。よく見て。頭とお尻に黒い角みたいな突起があるでしょう?」
「あ。本当ですね。これ、どうしたんですか?」
「誰かからのプレゼントよ。きっと近くにサテラの木があるはず。集めて育てましょう」
糸を量産すれば包帯に加工できる。事前の調査で、辺境は農耕にはあまり向いていないが、貴重な薬草を育てやすい環境だと判明している。医療関係を充実させれば国境付近で争いが起きた時に役立つし、平和な時は他の領との交易に使えそうだ。
「毎日、やりたいことばかり増えていくわね」
「なんでもご自分でやろうとなさるからでは?」
「だって人に一から教えてやってもらうよりも、手順を知っている自分がやったほうが早いわ。あら? ロベルト様も似たようなことを言っていたわね」
「その旦那様に事情をお話ししてはいかがでしょうか。領地の発展に関することなら、親身になってくださると思います。何より、許可なく敷地を使うことは避けたいのでしょう?」
「……それもそうね。虫を見つけた喜びで忘れていたわ」
ロベルトは執務室だろうか、それとも鍛錬の最中だろうかと考え、ふと虫が嫌いだったらどうしようと不安になった。
「ねえエルマ。ロベルト様は大量の虫を飼うことを許してくださるかしら。絶対に役に立つのよ。でもね、好き嫌いってあるでしょう?」
イレーニアは子供の頃から実家で薬草を育てていたので、虫を見つけても平気なだけだ。苦手なものの範囲は人によって違うため、自分の感性が他人とずれているかもしれないと不安になってきた。
「そうですねぇ……」
なぜかエルマは生温かい目で微笑んだ。
「先日の庭いじりの最中に、イレーニア様の背中についた虫を、平気な顔をして追い払っていた旦那様を見る限り、杞憂だと思います」
*
「なんで……平気なのよ」
ジータは嬉々として走り去るイレーニアを睨んだ。
嫌がらせに外で虫を見つけたらイレーニアの寝室に放りこんでいるが、彼女は悲鳴をあげるどころか、いつも顔色一つ変えずに外へ出してしまう。気持ち悪いのを我慢して虫を捕まえているジータが馬鹿みたいだ。
ではネズミならどうかと探してみるものの、こちらはイレーニアがどこかから調達してきた猫が駆逐してしまって見つからない。
手段を変えて貴金属や衣装に嫌がらせをしてやりたいが、ジータには保管している小部屋に入る手段がない。鍵はエルマとかいう侍女が管理しており、イレーニアの世話を命じられた者以外は近づくことすらできなかった。
――侍女ってそんなに偉いわけ? 私と同い年ぐらいだし、どうせあいつも平民なんでしょ?
エルマはときどきジータを疑いの目で見てくるから嫌いだ。まるで侍女の姿をした護衛のようで、気味が悪い。
イレーニアが口にする飲食物も、エルマが全て取り仕切っている。ジータが給仕に関わったのはイレーニアが嫁いできた初日だけだ。次の日から使用人たちの配置換えが始まり、ジータは掃除と接客を命じられた。
掃除なんてつまらない。担当場所がロベルトの執務室や寝室ならやる気が出たのに、そちらは男の使用人に任されている。
接客の仕事も同様だ。客間を使わせるような人物なんて、辺境には滅多に来ない。名前だけの仕事に、やる気なんて出るわけがなかった。
――洗濯物は私の担当じゃないから細工できないし……あの女がもう少し賢かったらよかったのに!
せっかくベランジェールを屋敷の中へ入れてあげたのに、イレーニアに言いくるめられて早々に帰ってしまった。偽物の宝石とオルドーニ領への立ち入り禁止というお土産付きで。ベランジェールの境遇に同情したふりをして、こっそりイレーニアの寝室へ誘導した苦労が台無しだ。
ベランジェールを屋敷へ入れたことについて、ジータは厳重注意を受けていた。あの女を客と勘違いしてしまったという嘘は信じてもらえたが、今後は客が来ても雑用に回されるだろう。あの女を引き止められなかった門番たちも減給されたらしいが、ジータには関係ない話だ。
――とにかく別の方法を考えないと。
なんでもいいからイレーニアが悲しむことがしたい。辺境のことを嫌いになって実家へ帰ってもらわないと、ロベルトを独り占めできない。
鬱屈した気持ちで廊下を歩くジータは、窓から裏庭を眺めた。着々とジータ以外の使用人を味方につけて、イレーニアの思うままに作り変えている場所だ。
ジータにとって、裏庭は侵略の象徴になってしまった。ロベルトに見初められた暁には、貴族らしいバラ園にしたいと思っていたのに。
イレーニアは先日、ロベルトにも手伝わせている。どうせロベルトの優しさにつけ込んだのだろう。領主に穴掘りをさせるなんて、許していいわけがない。
「悪女なのよね、あいつは。だから排除しないといけないの。それがロベルト様のためよ」
ジータは窓際からそっと離れた。
*
翌朝、裏庭に来たイレーニアは革手袋をつけて、切られた枝に触れた。
「……大丈夫かしら?」
元から植えられていた木のうち、一本だけ誰かに荒らされている。
最初は引き抜こうとして踏ん張ったのだろうか。根元には深くはっきりと足跡が残っていた。諦めた犯人は枝を折ることにしたらしいが、弾力のある枝なので思いっきり曲げても思い通りにならなかったに違いない。何度も試行錯誤をした挙句、どこかから持ってきたハサミで切ったようだ。
犯人はそこで疲れてしまったのだろう。被害はこれだけだ。
「処分する予定だったから、別にいいけれど……」
見た目はあまり大きくない木だ。淡い薄紅色の、小さな花が可愛らしい。だが甘い香りで虫を大量に誘き寄せてしまう。育てる予定の薬草に有害な種類の虫が来てしまうので、可哀想だが抜いてしまおうと考えていた。
率直な気持ちとしては、もう少し頑張って荒らしてほしかった。そうすればイレーニアの作業が楽になったのに。
「イレーニア様」
そっと近づいてきたエルマに呼ばれた。
「容疑者を捕まえました」
「そう。色々あるけれど、どの容疑で?」
「イレーニア様の庭を荒らした件と、旦那様への夜這い未遂で」
「大胆ね。ロベルト様は大丈夫?」
新たな精神的苦痛になっていないかと心配すると、エルマは無表情のまま首を横に振った。
「直接的な被害はありません。事件が起きた早朝、旦那様は執務室におられました。不在間に手紙がいくつか届いておりましたので、早めに片付けてしまおうと思われたそうです。ところが寝室にご家族からの手紙を置き忘れていたので、ダリオ様が代わりに取りに行きました。そこで旦那様のベッドに侵入しようとしていた容疑者と鉢合わせた次第です」
夜中ではなく早朝に侵入したのは、裏庭を荒らしてから思いついたのだろう。屋敷を見上げると、ロベルトの寝室がある窓が見える。
「ロベルト様がいないのに、ベッドに?」
「容疑者にとっても誤算だったのでしょう。いつもの起床時間よりも、かなり早かったのです。旦那様が寝室にいらっしゃったなら護衛も控えておりますので、事件自体は起きなかっただろうと思われますが」
エルマは少しだけ間を空けて付け足した。
「容疑者が触れたと思われるシーツは、メイド長が責任をもって即座に交換いたしました。現在は担当の者が念入りに洗濯をしている最中です。旦那様は困惑しておられますが、女性に対する嫌悪感への増加には至らず」
「容疑者個人の行為として考えておられるのね。公平な人で良かった」
「王宮でも似たようなことがあったなと疲れた顔で呟いておられました」
「使用人全員に教育をしましょう。ロベルト様の妻は私ですから手出し厳禁と今すぐに!」
「落ち着いてください。容疑者一人を除いて存じ上げております」
「また同じことが起きないとは限らないわ」
「旦那様とイレーニア様が夫婦として同じ寝室を使うのが最善の予防策かと」
「事件が起きてすぐに書類上の妻がそんなことできないわよ」
「夫婦間の問題について、私には提案できることはございません」
遠回しに二人でよく話し合えと言われた気がした。
エルマは白い結婚なんて破棄してしまえばいいという意味のことをよく言うが、そう簡単に変えられるものではない。リオネラが送ってきた手紙や、消えた物資の問題が片付いていないうちは、今の距離感がちょうどいい。
「ロベルト様への狼藉未遂はよく分かったわ。それで、彼女は問題なく呼吸してる?」
「今のところは問題なく」
容疑者の名前を聞いたイレーニアは、やはり彼女だったかと納得した。初対面の時から敵意を向けてきていたから、いつか衝突するだろうと思っていた。
イレーニアは順調に育っている植物のうち、艶やかで緑が濃い新芽を摘んだ。
「彼女のところへ案内して」
「こちらへ。メイド長たちが監視を兼ねて事情を聞きだしている最中です」
エルマに連れられて、小さな客室まで来た。客人の付き人などが使う、必要最低限の家具しか揃っていない部屋だ。
中へ入ったイレーニアはイスに座ったジータに睨まれた。
「奥様……」
腰が曲がった老齢のメイド長が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「この者の採用には私も関わっております。共に処罰を受ける覚悟はできておりますので」
「では他のメイドたちに教育をしておいてね。私は浮気も愛人も許容できない性格なのよ、手を出すなら覚悟なさいねって」
イレーニアはジータの赤く腫れた手を見下ろした。
「ジータ。裏庭の木を切ったのは、あなたよね?」
「なんのことですか? 私、知りません」
「とぼけても駄目よ。素手で触ったでしょう? ほら、赤くなってる」
ジータはぎゅっと膝の上でスカートを握った。
「それから手を洗う前に、顔に触れたわね? 水ぶくれができ始めてるわ。早く処置をしないと、痕が残るわよ」
自分の顔に触れたジータは、痛みで顔をしかめた。息遣いが少し荒くなっている。
「あなたが痛めつけた木はね、樹液に触れると炎症をおこすの。枝を折ろうとすると、やたらと水分が出てきたはずよ。飛沫を吸いこんでしまうと、喉が荒れて気道が塞がってしまう。吸い込んでから炎症を起こすまで時間差があるから、気がつきにくいの。ほら、苦しくなってきた」
裏庭を荒らした手順を言うと、ジータはイレーニアを気味悪そうに見上げてきた。
「ち……違う、私じゃない」
「いいえ、あなたしかいない。苦しいなら、この葉を噛みなさい。炎症を抑える効果があるわ。私のことが信じられないなら、悪いけどここで窒息するしかないわね」
ジータの目に涙が浮かんだ。唇がイレーニアを罵倒する形に動き、そろそろと葉に手がのびる。彼女が葉を十分に噛んで呼吸が落ち着いてきたところで、イレーニアは水を持ってくるのを忘れていたと気がついた。
あの葉は応急処置で食べさせたが、本来ならすり潰して蜂蜜などに混ぜて味を誤魔化し、服用するものだ。だから水で飲み下さないと、いつまでも口の中に青臭さと苦味が残る。エルマに持ってきてもらおうかと思ったが、ロベルトに手を出したメイドに、そこまでの慈悲が必要だろうかと考え直した。
「そうだ、素敵な贈り物をありがとう。いつも虫を運んでくれたのは、あなたよね? 私ね、あの白い虫が気に入ったのよ。どこで見つけたの?」
「うぅ……」
「まだお喋りできそうにない? 仕方ないわね。じゃあ案内して。それからあなたも一緒に集めてね。そうだ、あなたをお世話係にしましょうか」
ジータは口を両手でおさえ、首を横に振った。
「あの虫はね、サテラの葉を食べて大きくなるの。口から糸を吐いて繭を作ったら、糸を解いて束にするのよ。だからたくさん集めないとね。育てて繁殖させて糸を紡ぐの。毎年ね。あなたは虫が好きみたいだから、残ったサナギの処理も任せましょうか。ねえ知ってる? 絹の生産地では、サナギは食料になるんですって」
「す、すいません……私、好きじゃなくて……だから」
「好きじゃなくても平気でしょう? 今回の騒動で、あなたに清掃を任せるのは不安なの。だって屋敷の中を歩いていたら、ロベルト様の寝室に迷い込んでしまうから。あなたがロベルト様を慕っていることは知っていたわ。遠くから見ているだけなら大丈夫だと信用して、黙っていたの」
「ひっ……」
「接客も苦手だったのよね? でもロベルト様のために頑張ってお客様をもてなそうとしたのよね? 屋敷の案内まで引き受けて。ごめんなさいね、あなたの苦手なことに気がつかなくて」
適材適所だと説明すると、ジータの顔が青ざめた。
「ごめんなさい。無理です。虫を育てるなんて……本当に、軽率だったって反省してます。だから仕事を変えないでください」
「ジータ、遠慮しないで。難しくないから、きっと、あなたにもできるわ。サテラの木は知っているわね? オルドーニ領のあちらこちらで見かけるもの。さあ、探しに行きましょうか」
拒否権がないと知ったジータは、小さな悲鳴をあげて倒れてしまった。





