10 ベランジェール2
「お金に困っておられるなら、この中から好きなものを選んで」
「あら、話が分かるじゃない!」
革製の小箱は内側がビロード張りになっている。中に入れたものが互いに傷つかないようチェス盤のように仕切られ、輝く宝石や輝石が収められていた。
「その石はイレーニア様個人のものではありませんか」
「メイドは黙ってなさいよ。ご主人様が良いって言ってるのよ」
困惑するエルマをベランジェールが鼻で笑った。
ますますベランジェールを見る目が冷たくなったが、当の本人は全く気にしていない。小箱の中から透明な大粒のものを選び、窓から差し込む光にかざす。
「それは普通の店では売却できないけれど、大丈夫?」
「分かってるわよ、そんなこと。宝石の売買なんて何度も経験してるわ。素人みたいな言い方しないで」
ベランジェールは一つでは満足できなかったのか、いくつか抜き取って懐に入れた。小箱の中には小粒の宝石ばかりが残された。
「今回は宝石だけで満足してあげるわ。次は他のものも用意しておいてよね」
「あら。これで終わりではないの?」
「冗談言わないでよ。こういうのはね、気持ちの問題なの。私が心に受けた傷が癒えるまで、誠意を見せてもらわないと」
「誠意……」
回数や金額ではなく、ベランジェールが満足するまで続くということだろう。イレーニアは叩けば金が出てくる財布として、認定されたらしい。なかなか面白い体験だ。
「ああ、疲れたわ。ねえ、もちろんここに泊まってもいいわよね?」
「いいえ。ロベルト様の許可なく、他人を滞在させられません」
「なによ、ケチね。そんなの、あなたの裁量で決めなさいよ」
「私の裁量ですか。辺境伯代理を任されたわけではありませんので、なおさら滞在許可は出せません」
ベランジェールはイレーニアの回答が予想外だったらしい。目をわずかに見開き、口角を下げた顔になる。
「は? 客室を使うだけよ? メイドに命じて用意させればいいだけじゃないの」
「この屋敷はロベルト様の財産です。嫁いだばかりの私が勝手に使うなど、あってはならないことよ。あなたが持っている石は、私個人の財産だから譲渡できただけ」
「今から歩いて帰れって? 国境までどれくらい距離があると思っているのよ。私が襲われたらどうするの?」
「では護衛をつけましょう」
実家から連れてきた騎士のうち、数名はイレーニアの護衛として屋敷に残っている。ベランジェールが口を挟んでくる前に、使用人に呼んでくるよう命じた。
「勝手に決めないでよ」
「でもね、早く決断しないと日が暮れてしまうわよ?」
改めて屋敷には滞在できないのだと伝えると、ベランジェールは苛立たしそうに黙った。だがベランジェールの苛立ちは長く続かなかった。現れた護衛の顔を見た途端に、傲慢な態度は消え去り、瞳を輝かせてうっとりとしだした。
護衛の騎士――レアンドロは、爽やかで女性に好まれる外見をしている。イレーニアの想像通り、ベランジェールは青年騎士を一目で気に入ったようだ。楚々とした仕草でイレーニアの隣に立ち、紹介を待っている。
「彼女を国境まで送ってあげて。最速で」
「最速ですか」
レアンドロは含みのある笑みを浮かべ、一度だけベランジェールを見た。
「ええ。ついでに書簡を国境にいる仲間へ届けてほしいの」
「仰せのままに」
上機嫌でレアンドロは了承し、ベランジェールを放置してさっさと部屋を出ていった。
当てが外れたベランジェールが開けっぱなしの扉とイレーニアを交互に見たが、名前を教えることは控えることにした。ベランジェールは使用人やメイドといった、人に仕える者を見下す傾向にある。下賤と蔑む対象を詳しく紹介したら、きっと気分を害してしまうだろう――そんな配慮だ。
「誰か……ジータ、彼女を玄関まで案内してあげて。レアンドロが用意した馬車が停まっているはずよ」
イレーニアは扉の近くで事態を見物していたメイドに言った。そのまま机に向かい、国境にいる騎士への手紙に取り掛かる。覚えている定型文を書くだけなので、時間はかからない。書き終えた手紙は厳重に封をし、ベニートに預けた。
「これをレアンドロに届けて。きっと早く出発したくて、待ちわびているわ」
「かしこまりました」
一連の流れを見ていたベニートは、きっとイレーニアに尋ねたいことや言いたいことがあるだろう。それらを表に出すことなく、手紙を受け取った。
「彼女が触れたのは、私の小箱だけ?」
「はい。最も目立つところに置いてありましたので」
エルマによると、選抜したメイドに私物の管理を説明しているときに、ベランジェールが部屋へ押し入ってきたのだという。
「申し訳ありません。彼女に突き飛ばされたメイドが怪我をして、対処が遅れてしまいました」
幸い、メイドの怪我は軽傷だったそうだ。
手紙を届け終えたベニートが戻ってきた。手紙を受け取ったレアンドロは、嬉々として馬車で出立したという。
「少々、馬車の揺れが激しかったようですが……」
つまりレアンドロは馬車を暴走させるように、最高速で出発したということだ。馬車の中に閉じ込められたベランジェールは、激しい揺れに耐えながら国境へ向かったことになる。
「いいのよ、あれで。レアンドロはね、実家にいた頃はよく伝令を引き受けていたの。いかに短い時間で目的地に到着するか、速度を追求することが好きなのよ。最近では馬車の最速記録に挑戦したいとか妄言――いえ、宣言していたわ」
レアンドロだけでなく、彼が育てている愛馬も走ることが好きな性格だ。主人に似たのか、生まれつきなのかは知らない。
ふとべニートが遠い目をして窓の外を見た。
「あの速さで国境まで……よろしかったのですか?」
「いいの。私はね、これでも怒っているのよ。自分の旦那様を貶されたのよ。過去にお付き合いしていた間柄でも、一定の節度は必要だと思うの。さんざん傷つけて捨てておきながら、結婚してあげるなんて言う人を、大切に送り届ける理由なんてないわ」
「追い出すなら、宝石を渡さずともよろしかったのでは」
「そうでもしなければ、屋敷から追い出せなかったでしょう? ロベルト様のお客様だから、あなたたちは手荒な真似ができなかったのよね」
「……申し訳ありません」
「いいのよ。たぶん、あの人は留守を狙って押しかけてきたのだから。連絡を受け取った旦那様が、急いで戻ってくると思ったのかもね。ああ、それとね、あれは宝石じゃないわ」
「偽物ということですか」
「少し違う」
イレーニアは小箱に残っていたもののうち、ベランジェールが選んだものと同じ種類のものを取り出した。
「ガラスよ。透明度が高くて気泡が入っていない。カッティングを工夫するとね、宝石のように見えるの。この国ではまだ知名度が低いけれど、私が留学した国では流通していたわ。これも高いけれど宝石よりは安いから、舞台衣装なんかによく使うの」
「ガラス……」
「綺麗でしょう? この箱には本物の宝石もあったのよ。でも、あの人には大きくて輝く石がお気に入りだったようね。ガラスといっても然るべきところで売却すれば、それなりの値段になるわ。普通の宝石店では偽物扱いされてしまうけれど……まあ、旅芸人ですもの。売却できる店の情報ぐらい知っているわよね」
「しかし、ガラスだと知らずに持ち去ったのだとしたら、また怒鳴りこんできそうですが」
「あら、それは無理よ」
イレーニアは何かを言おうとしたエルマを制した。きっと次は自分が排除するから問題ないと言おうとしたに違いない。
「レアンドロに持たせた手紙に、彼女はオルドーニ辺境伯領から追放する、以降は立ち入り禁止だと書いたわ。国境にいる責任者に届くようにね」
「イレーニア様、それは……」
「辺境伯だけでなく、この国の領主には誰を領内に入れて、誰を入れさせないのか決める権限があるわ。辺境伯が不在の場合は配偶者や代行者に。辺境にとって害であると認められる場合は、これを行使できるように」
ロベルトに権限を使うなとは言われていない。
来たばかりのイレーニアがロベルトの不在間に行使するなど、べニートの予想を超えていたのだろう。言われていることは理解できるが、納得しかねるといった表情が、うっすらと出ている。
「権限があるなら、彼女を不敬罪で捕まえても良かったのでは?」
「そうすると旦那様はまた彼女に会わないといけなくなるでしょう? 直に会わなくても、名前を聞くことになる。過去を思い出してしまうわ。ロベルト様が女性を苦手に感じることになった原因は、彼女にもあるのでは?」
指摘をすると、べニートは黙った。
沈黙は肯定だ。
「捕まえたら、その後のことにも責任を持たないといけないわ。法律に基づいて罪状を言い渡して、刑を執行して、執行後の行き先にも気を配って……全てを記録に残さないといけない。ね? 面倒だわ。終わるまで何日かかるかしら? 辺境から出て行ってもらって、お互いに干渉しないことが幸せなのよ。それをガラス玉と強制送還で済ませられるなら、安いものだわ」
代行でベランジェールを追放したことは、補佐のダリオにも知らせないといけない。そろそろ町から戻ってきてもいい頃合いだ。
イレーニアは宝石の片付けをエルマに任せ、彼に会いに行くことにした。
「心配せずとも、私がやったのはあくまで代理よ。ロベルト様が帰宅なさったら、一連のことを報告して、改めて立ち入り禁止にするのか判断してもらいましょう」