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1 落ちる夜

 このナイフを振り下ろせば、全てが終わる。イレーニアは好機だと理解していたが、腕を動かすことはなかった。


「俺を殺すなら、胸じゃなくて首を狙え。君の腕前では肋骨に当たって、うまく心臓に刺さらない。何度も振り下ろすより、首の血管を切るほうが早い」


 ロベルトはイレーニアを見上げて冷静に言った。妻の座におさまった女が、自分を押し倒して馬乗りになっていることも、ナイフで殺そうとしていることも、彼を動揺させる状況ではないらしい。


「ああ、でも、俺を殺すのは一年ほど待ってくれないか?」

「この状況で、何を言っているの」


 すぐそばに死が迫っているというのに、悠長なことだとイレーニアは半ば呆れた。


 ロベルトはイレーニアから視線をそらさずに言った。


「治水工事がもうすぐ終わる。辺境に派遣されていた官僚がいい加減で、何年も放置されていた場所だ。汚職問題も関係者を処分して、ようやく行政の立て直しが終わったところだ。いま責任者がいなくなるのは望ましくない」


「命乞いと受け取ってもよろしいの?」

「俺の命はどうでもいい。辺境に生きている、全ての領民が安心して暮らせる環境を用意するために必要なんだ。辺境が荒れれば国の守りに影響が出る。それなのに前任者たちは十分な対策と支援をしてこなかった」


「あなたは、あと一年で何ができるの?」

「以前も言ったと思うが、誰に何を要求すれば、中央から望む支援を得られるのかを知っている。自分の権限を利用して、俺は辺境伯として為すべきことをするだけだ。一年あれば……できれば二年欲しいが、次の辺境伯にふさわしい人材を見つけて、君を自由にできる」


 隣国と国境を接する領地を治める者としての覚悟に、イレーニアは少しずつ戦意を削られていった。大勢の命を背負いつつ、裏切り者のイレーニアにも良い未来を用意しようとしている。


 出会った時からそうだった。自分のことよりもイレーニアの評判が落ちるのを気にして、辺境伯有責の離婚を提案してきた。次の縁談に影響が出ないよう、最大限に配慮すると言って。


 ――真っ直ぐすぎて、不器用ね。


 内乱罪で訴えればいいのに。国の守りを蔑ろにしたイレーニアなど、極刑にされるべきなのだ。


 イレーニアを足がかりにして、王国内の膿を出しきる。国難を未然に防いだなら、辺境伯はもう社交界で冷遇されることはない。そんな筋書きが見えないはずがない。どうせ、まだ未遂だからと甘いことを考えているのだろう。


 この甘さがイレーニアの心を乱している。


「君の背後には誰がいる?」

「教えないわ」

「教えられない、の間違いだろう」


 ロベルトの手がイレーニアの頬に触れた。透明な雫が指先を濡らす。


「泣くほど追い詰められるまで、気が付かなくて申し訳ない」

「謝らないで。これは、そういう意味の涙じゃないの」

「俺は君の夫だ。夫婦とは、支え合うものだろう」

「本気で言ってるの? 書類上の夫婦だって言ったのは、あなたよ」

「書類上だろうと、冷遇するつもりはない」


 イレーニアはナイフを持つ手をゆっくり下ろした。


「その言いかたはずるいわ。あなたは私を妻という名前の同居人にしているだけなのよ。そうでしょ?」


 どうせ最初から無理だったのだ。目をつけられた時点で、イレーニアの人生は終わっている。うまくこの場を逃げられたとしても、身内が犯した罪からは逃げられない。


 正直に、誠実に生きてきたつもりだった。

 なんの役にも立たなかったけれど。


 いくら善人であろうとしても、悪意を持つ者が簡単に平穏を壊してしまう。


 ――馬鹿なのは私ね。


 暗殺を持ちかけられた時点で終わっていたのに、自分一人で抱え込んで、無駄に時間を伸ばしただけだった。もっと聡明だったなら、うまく立ち回っていただろうか。あの従姉妹のように。


「イレーニア」

「全部、話すわ。私をどうするかは、あなたが決めて」


 イレーニアはナイフを手放した。絨毯の上に落ちたナイフは、鈍い音をたてて動かなくなる。そのうち、自分の首も同じように落ちるのだろうかと、暗い未来が頭をよぎった。

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