【最終話】記録の地平
重い。まぶたが、鉛のように重い。
耳元で鳴り続けているのは、聞き慣れた電子音だった。空調の低い唸りと、サーバーラックの排気音。そして、使い古したキーボードの打鍵音。
「……っ、はあ……!」
神宮寺直人は、デスクに突っ伏していた体を弾かれように起こした。
視界に入ってきたのは、虹色の光でも鏡の回廊でもない。三枚の大型モニターが整然と並ぶ、いつもの編集室の風景だった。
「……夢、か……?」
口の中が、ひどく乾燥している。直人は震える手で、飲みかけの冷めたコーヒーを口にした。
モニターには、自分が担当しているファンタジー小説のコミカライズ用プロモーション映像が映し出されている。タイムラインには無数のカットが並び、エフェクトのレンダリングを待つバーがゆっくりと進んでいた。
「なんだ……ただの、寝落ちかよ……」
直人は力なく笑い、顔を覆った。
だが、手のひらにはまだ、エレナの頬の温もりが、ガルドの不器用な盾の振動が、そしてARIAの澄んだ警告音が、あまりにも鮮明に焼き付いている。
「第41話、完結……。あんなに長い、物語だったはずなのに……」
直人は溜息をつき、逃げるようにマウスを握った。締め切りはもう目の前だ。夢の内容に浸っている時間などない。
彼は手慣れた動作で最終カットの調整を行い、書き出しボタンを押した。プロとしての意地で、彼はその「物語」を完璧な形へと仕上げていく。
「よし……。これで、完パケだ」
エンコード終了の通知が届く。
だが、その瞬間だった。
メインモニターの中央に、意図しないシステムウィンドウがポップアップした。
[ 記録しますか? ]
> YES / NO 』
直人の心臓が、跳ね上がった。
「……っ!?」
それは、夢の中で何度も目にした、あの呪いのような、あるいは救いのようなダイアログボックスだった。
現実に、こんなウィンドウが出るはずがない。
だが、ウィンドウの奥、真っ暗な画面の中に、一瞬だけ「彼女」の姿が見えた気がした。
「……エレナ……」
直人の脳裏に、第41話のラストシーンが蘇る。
自由を掴み取った仲間たち。そして、自分をこの世界へ突き戻し、一人で虚無へと消えていった「レイ」の意志。
もし、これがただの夢でないのなら。
もし、このボタンの先に、本当に彼女たちがいるのなら。
直人は、迷わなかった。
「……俺の結末は、俺が選ぶ」
震える指先で、彼は[ YES ]をクリックした。
瞬間。
編集室のすべての灯りが消え、モニターから溢れ出した眩い「ノイズ」が、直人の意識を飲み込んでいった。
――視界が、白濁した情報の濁流に呑み込まれる。
――警告音が、鳴り止まない。
「レイ!! しっかりして!!」
遠くで、エレナの声がする。必死に俺の名を呼ぶその声さえも、やがて途切れた。
(やばい……これ……)
思考が、途切れる。
意識が――沈む。
そして――静寂。
そこには、何もない場所だった。音も、光も、感覚もない。ただ漆黒よりも深い「無」が広がっている。
ただ――
「何か」が、ある。
それは、言葉では表せない圧倒的な密度のなにか。形もない。だが、確かに「意識」だけが存在している。俺という存在の断片が、霧散せずに辛うじて繋ぎ止められている。
(ここは……どこだ……?)
問いかけても、返答はない。だが次の瞬間――
「見られた」
心臓を直接掴まれたような、強烈な不快感。ぞくり、と背筋が凍る。
(なんだ……今の……!?)
理解できない。だが、本能が告げている。「これは……あの時の俺!?」
その瞬間――意識が、融合していく。
「――――ッ!!」
俺は大きく息を吐き、身体を跳ね起こした。
「はぁっ……はぁっ……!!」
激しく咳き込み、肺に空気を流し込む。生々しい痛みが全身を駆け抜け、自分がまだ生きていることを実感させた。
「よかった……レイ……!」
エレナが、すぐそばで涙を浮かべている。「ヒール……間に合って……」その手は、まだ震えていた。
ライオネルが低く言う。
「……危なかったぞ」
ガルドも頷く。
「あと少し遅れていたら、助からなかった」
レイは答えられない。ただ、呼吸を整えることしかできない。
(……今のは……なんだ……)
あの「場所」。あの「視線」。
次の瞬間。
レイの視界に――「ノイズ」が走った。
(……っ!?)
景色が、わずかに歪む。魔物の動きが――「二重に見えた」。
(……ズレてる……?)
ほんの一瞬。魔物の動きが、「遅れて」重なる。まるで――
「一度……切り離されて……」
「あとから……重なったみたいな……」
心臓が、大きく鳴る。(さっきの……あれと……繋がってる……?)
確信した。
これは、二度目の物語ではない。
俺が、俺自身で「上書き」し、戻ってきた続きの物語なんだ。
レイは震える手で、腰に差した「オーバーライト・ペン」を確かめるように握りしめた。
耳元で、かつて聞いたことのある、懐かしい電子音がかすかに響く。
『 ――再接続、完了。メインエディター、おかえりなさい 』
レイは、泣きそうな顔で笑うエレナを、今度は力強く抱きしめた。
「……ああ。……今度こそ、間違えない」
記録は、まだ始まったばかりだ。
(完)
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
「物語を編集する」という力を持ったレイと、彼を支えた仲間たちの旅はいかがでしたでしょうか。
書き換えられた運命、削除された記憶、そして最後に彼が選んだ「YES」の選択。
この物語が、読んでくださった皆様の心の中に、消えない「ログ」として少しでも残ることができれば、作者としてこれ以上の喜びはありません。
神宮寺直人とエレナの、そして自由を手に入れた仲間たちの「続き」の物語は、ここから先、読者の皆様の想像という名のキャンバスで、自由に上書きしていただければ幸いです。
明日、4月5日(日)からは、新しい作品の連載をスタートします。
新しい作品も是非お読みください。
これからも、どうぞ宜しくお願い致します。




