【第40話】上書きされる創世記
熱い、という感覚すらもはやノイズに過ぎなかった。
オーバーライト・ペンの先端がシステム・コアに触れた瞬間、レイの意識は数億ギガバイトに及ぶ「世界の生データ」に直撃された。
『直人様! 精神防壁が損壊! 情報の逆流を抑えきれません! 脳が……直人様の「個」の定義が、情報の海に溶け出しています!』
ARIAの悲鳴のような警告が、意識の混濁の中で辛うじてレイを繋ぎ止める。視界が弾け、そこにあったのは石造りの回廊でも白金の騎士でもない。延々と続く文字列、滝のように流れ落ちるソースコード。この世界における「風の吹き方」から「人の死に際」まで、すべてが冷徹な論理式で記述されている暗黒の空間だった。
[ 警告 ] [ 外部プロセスによる不正書き込みを検知 ] [ プロテクト:レベル・オメガ ]
暗黒の空間に、巨大な「眼」が現れた。それは無数の幾何学模様が組み合わさった、管理者の意思の具現。
「イレギュラーよ。貴殿の行動は、このセクターの安定を著しく損なう。削除は必然であり、論理的帰結である。存在の整合性を保つため、直ちに全リソースを初期化する」
言葉ではない、概念の塊が直接レイの脳内へと叩き込まれる。その衝撃波が走るたび、レイの精神の輪郭が削られ、彼が持っていた「自分」の定義がただの「変数」へと書き換えられていく。
「論理だの帰結だの、そんな退屈な尺で世界を縛るな!……。お前がボツにした連中の『声』、聞いたことがあるのか? ゴミ箱の底で、消えるのを待つだけのデータの無念を……!」
レイは黒いノイズに侵食された左腕を無理やり動かし、ペンを深く押し込んだ。
[ 照会 ] [ 削除対象の声に定義は存在しない。感情は演算のノイズであり、世界の永続性には不要である。実行 ]
『直人様、意識レベルが危険域です! 記憶レイヤーの剥離を確認! このままでは「直人」という存在が消滅します!』
仕事場のコーヒーの匂い。締め切り前の焦燥感。エレナの笑い声。ライオネルと交わした握手。それらすべてが「ただの情報」として分解され、管理者の演算の中に吸い込まれていく。
「が、ああああぁっ!」
現実世界の回廊では、レイの全身から銀色の火花が噴き出していた。
「レイ! 耐えて! あなたの形が消えかかってる!」
エレナが必死に叫び、ミラの加護魔法がレイを包む。だが、その加護さえも管理者の「削除命令」に上書きされ、砂のように崩れていく。ガルドの盾も、もはや限界だった。白金の騎士たちの攻撃が盾の表面を削り取り、彼の肉体を構成するドットを虚空へ散らしている。
(……ダメだ。一人のリソースじゃ、世界そのものの仕様には勝てない。このままじゃ、俺ごとこの『作品』は完全消去だ……)
意識が遠のく中、レイは自分の内側にある「ゴミ箱」のデータを思い出した。ヴィンセントで切り捨てた右足。未定義領域で拾い集めた、捨てられたデータの数々。
「……ボツにされたデータにだってな……意地ってのがあるんだよ。整合性がどうした、効率がどうした! 無駄があるから、物語は面白いんだよ!」
レイは薄れゆく意識の中で、自分自身の「管理者権限」を放棄した。その代わりに、彼は自分自身を「オープンソース」へと書き換えた。
(みんな……俺に、お前たちの記述を貸してくれ! 一瞬でいい、この世界のルールを……俺たちの手で共同編集するんだ!)
『了解。プロトコル「オープンソース・プロジェクト」発動! 全パーティメンバーのパーソナルデータを、直人様の演算回路に連結します!』
「何……? 私の魔力が……レイと、繋がっている?」
ミラが目を見開く。彼女の脳内に、レイが見ている世界のソースコードが流れ込んできた。
「……そういうことね、魔法の理なんて、最初からこの記述の一部に過ぎなかったのね。だったら、私の全魔力を、あなたの『ペン』のインクにしてあげるわ!」
ミラの「魔導の知識」が、レイのシステムに高効率な演算パッチを当てる。
「俺の命も持っていけ! この剣が折れないという定義なら、俺がいくらでも付け加えてやる!」
ライオネルの「不屈の闘志」が、脆弱だったレイの精神防壁をダイヤモンドよりも硬いプロテクトへと変える。エレナの「慈愛」が、ノイズで荒れ狂うレイの意識を繋ぎ止め、ガルドの「守護」が、迫りくる削除命令を物理的に弾き飛ばした。
「あたしの見つけた隙間、全部使いなさいよ!」
フィリスが投げつけた魔石を、ルクスが空中で砕き、凄まじい咆哮を上げる。フィリスの「探求」による弱点解析と、ルクスの咆哮によるシステム同期の麻痺。
それらすべての個性が、ARIAというインターフェースを通じてレイのオーバーライト・ペンへと編み上げられていく。
[ 警告 ] [ 未知のデータ連結を確認 ] [ 個別データの統合による予測不能な出力の増大 ] [ 処理不能 ]
管理者の「眼」が初めて、戸惑うように細かく震えた。
「……これが俺たちの、渾身の一作だ。……受け取れ、管理者! お前の引いたレールなんて、俺たちが全部尺調整してやるよ!」
レイは叫びと共に、仲間たちの想いを乗せたペンを、コアの深淵へと一気に突き通した。書き込まれたのは、一つの単純な命令。
『 実行:自由意志 』
『 条件:すべての存在に、自己の物語を記述する権限を付与する 』
直後、システム・コアから全方位へ向けて、虹色のノイズが爆発した。白金の騎士たちが光の粒子となって霧散し、鏡の回廊が音を立てて崩落していく。管理者の「眼」は、書き換えられた世界の記述に耐えきれず、幾千もの多面体へと砕け散った。
「[ システム・エラー ] [ 管理権限の分散を確認 ] [ 世界は……観測者の手に…… ]」
最後に聞こえた管理者の声は、どこか安堵したようにも聞こえた。
「……やったのか……?」
ライオネルが喘ぎながら周囲を見渡す。崩れゆく回廊の先、眩い光の向こう側に、新たな世界の風景が描き出されようとしていた。それは管理者が定めた「完璧な調和」ではない。少し歪で、ノイズが混じり、それでも一人一人が自分の足で歩く、色彩豊かな「未完成の世界」。
だが、その中心に立つレイの姿は、もはや人の形をしていなかった。右足は結晶体。左腕はノイズ。そして心臓の鼓動の代わりに、システムログが淡い光を放っている。
『……直人様。おめでとうございます。世界は「解放」されました。……ですが、引き換えに、直人様の存在係数が……。これ以上この世界に留まれば、直人様の意識は完全に消滅し、システムの一部となります』
ARIAの声が、かつてないほどに震えていた。
「レイ……? あなた、顔が……」
エレナが震える手でレイの頬に触れようとする。だが、その手はレイの頬をすり抜けた。彼はもはや、この世界の「物理的な実体」としては定義されていない存在になっていたのだ。
「……ああ。……完パケまで、あと少しだな。……俺がいなくても、お前らなら……この続きを面白く書けるはずだ」
レイは力なく笑い、そのまま光の渦の中へと沈んでいった。




