【第37話】不揮発性メモリの残滓
「保存」を確定させた瞬間、レイの感覚は肉体を離れ、世界の記述そのものへと同化した。
意識が、ビットの濁流に呑み込まれていく。
(……なんだ、これは。設計図か?)
視界を埋め尽くすのは、幾億もの幾何学的な紋様。それは魔導師たちが詠唱する術式よりも遥かに緻密で、無機質で、冷徹な「世界の骨組み」だった。ヴィンセントという街が、どのような変数で構成され、どのような優先順位で消去されたのか。その全工程が、巨大なスクロールのように脳内を通り過ぎていく。
[ CRITICAL ERROR: UNAUTHORIZED OVERWRITE ]
[ RESTORING KERNEL... FAILED]
管理者の修正プログラムが、レイという「異物」を排除しようと牙を剥く。だが、今のレイにはそれさえもスローモーションの映像にしか見えなかった。
彼はペンの先端を、自分の欠落した右足の座標へと突き立てた。
「……足りないなら、そこら中のゴミを詰め込んでやるよ。俺の足の『代役』くらい、この辺の廃材で十分だ」
レイは周囲に漂う「消去済みの瓦礫」を強引に引き寄せ、自分の欠損箇所へとパッチを当てるように流し込んだ。
肉が爆ぜ、骨が軋むような激痛。だが、それは生身の痛みではない。存在の定義が無理やり書き換えられる「概念的な摩擦」だ。
やがて、レイの右足には、本来の肉体とは似ても似つかない「異形の義足」が形成された。それはヴィンセントの石畳の質感と、エージェントの銀色、そしてノイズの黒が混ざり合った、この世界の理から外れた歪な構造体だった。
「……レンダリング、完了だ」
レイは虚空を蹴り、仲間たちが消えた「ゲート」へと飛び込んだ。
反転する世界。
次にレイが目を開けた時、そこは冷たい霧に包まれた、見覚えのない荒野だった。
「……レイ! レイなの!?」
真っ先に駆け寄ってきたのは、エレナだった。彼女の瞳には涙が溜まっている。続いて、ミラやライオネルたちも、警戒を解かずに、だが安堵の表情を浮かべて近寄ってきた。
「ああ……なんとか、尺には間に合ったみたいだな」
レイは立ち上がろうとしたが、新調した右足の感覚が馴染まず、無様に崩れ落ちた。
ミラが絶句してレイの右足を見つめる。
そこには、膝から下が銀色と黒の結晶体で構成された、不気味に脈動する足があった。時折、細かな文字のような発光現象が表面を走り、周囲の空気を歪めている。
「……ちょっとした、素材の再利用だ。気にするな、動けりゃいい」
レイはライオネルの手を借りて立ち上がった。右足が地面に触れるたび、ズズ、と砂を噛むようなノイズ音が響く。感覚はない。ただ、そこにあるという「情報の重み」だけが脳に直接伝わってくる不快な感触だ。
「ガルドは……?」
「……ここだ。消えちゃいないが、相変わらずだ」
ライオネルが指差す先、ガルドは地面に横たわっていた。ゴミ箱を脱出したことで完全な消滅は免れたようだが、その姿は依然として半透明で、意識も戻っていない。それどころか、時折彼の指先が、周囲の霧に溶けるように消失しては、数秒後に再び現れるという不安定なループを繰り返している。
「……ふん、まだ編集中ってわけか。だが、死んじゃいねえ。ここなら、管理者のパージもすぐには届かないはずだ」
レイは周囲を見渡した。
そこは、地図には載っていない「未踏領域」。世界の果て、あるいはシステムの境界線。
空には月も星もなく、ただ巨大なプログレスバーのような、光の帯がゆっくりと流れている。地面は植物一つ生えていない灰色の平原だが、よく見るとそれは土ではなく、細かく砕かれた石のテクスチャがタイル状に敷き詰められた「仮設」の地面だった。
「フィリス、ルクス。少し周囲を偵察してくれ。ここは俺たちの知ってる世界とは、ルールが違う可能性がある。……例えば、空を歩けるかもしれないし、突然重力が変わるかもしれない」
「わ、分かったわ。ルクス、行くわよ!」
聖獣ルクスが低く唸り、フィリスと共に霧の奥へと消えていく。ルクスはその鋭い感覚で、この場所が「生物の住む場所ではない」ことを敏感に察知しているようだった。
「レイ、これからどうするつもり? ヴィンセントは消えた。私たちは、もう帰る場所を失ったのよ。それに、今のあなたは……見ていられないわ」
ミラの言葉は重く、そして鋭かった。彼女は魔導師として、レイの右足から溢れ出す「異質の力」に恐怖に近い何かを感じていた。それは魔力とは根本的に異なる、存在を上書きする暴力的な何かだ。
「帰る場所がねえなら、新しく作ればいい。管理者が街を一つ消したんなら、俺たちは世界そのものを書き換えるまでだ」
レイは壊れかけたオーバーライト・ペンを見つめた。ペンの軸には、今やレイの右足と同じ銀色の亀裂が走り、かすかに熱を持っている。
「……まずは、この空白地帯に俺たちの拠点を設置する。名付けて……編集室だ。ここを、俺たちが世界を『再編集』するための箱舟にする」
レイは右足に力を込めた。
途端に、激痛が脳を突き抜ける。右足の素材となった「ゴミ箱のデータ」が、レイの神経系に逆流し始めたのだ。
「がっ……あ、あああ……っ!」
「レイ!? やっぱり無理があったのよ、そんな足!」
エレナが支えようとするが、レイはそれを手で制した。
視界が明滅する。赤、青、緑。色の三原色が分離し、世界がレイヤーごとに分かれて見える。
(読み込め……。この座標のプロパティを……。何もないなら、俺の記憶をテンプレートにして、強引に形を……!)
レイがペンを地面に突き立てると、波紋のような光が平原を駆け抜けた。
何もない灰色の地面から、ブロック状の構造物がニョキニョキと生えてくる。それは石造りの家でも、豪華な宮殿でもなかった。
無機質な金属の壁。不自然に明るい発光パネル。そして、かつてのレイの仕事場を彷彿とさせる、用途不明の巨大な「机」と、空中に浮かぶ何十枚もの「透明な窓」。
「な……何よ、この建物は。窓も扉も、魔導の法則に則っていないわ」
ミラが呆然と呟く。無理もない。レイが作り出したのは、この世界の「外側」の意匠を反映した、異端の建造物だった。
「……ようこそ、俺の仕事場へ。ここでは、空腹も眠気も……もしかしたら『死』すらも、設定次第で調整できるかもしれねえ」
レイは荒い息を吐きながら、生成されたばかりの椅子に身を預けた。
右足の脈動は止まらない。だが、その足が地面を通じて「編集室」のシステムと直結していることを、レイは直感的に理解していた。今の彼は、この空間そのものと神経を共有しているのだ。
「ライオネル、ガルドをあそこの『パレット』の上に寝かせてくれ。……あそこなら、データの流出を最小限に抑えられる。俺が……こいつの欠損箇所を一つずつ、手作業でリタッチしてやる」
「……わかった。頼むぞ、レイ。お前のやり方は正直理解できんが、ガルドを救えるのがお前だけなのは確かだ」
ライオネルが慎重にガルドを運び、光り輝く台座へと寝かせた。
エレナは、そんなレイの横顔を悲しげに見つめていた。ヴィンセントでの戦い以来、レイから「人間らしさ」が急速に失われているように見えたからだ。彼の瞳に宿る銀色の輝きは、もはやレイ自身の意志というよりは、冷徹な機械の光に近い。
「……レイ。あなたは、まだ私たちの『仲間』なのよね?」
エレナの小さな問い。
レイはペンを握る指をわずかに震わせ、モニターに映し出された膨大なコードの羅列から視線を外さなかった。
「……ああ。……まだ、エンドロールを流す準備はできてねえよ」
その声は、掠れていたが、確かにレイのものだった。
霧の荒野に、不自然な光を放つ箱船――「編集室」がそびえ立っていた。
世界の裏側で、彼らの逆襲が静かに始まろうとしていた。




