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【第36】空白エリアの漂流者


 全身の細胞が沸騰し、一本一本の神経が剥き出しのまま高圧電線に触れているような、耐え難い激痛が走る。

 

 レイは暗闇の中にいた。いや、そこは「暗い」という言葉すら相応しくない。色も、形も、重力すらも定義されていない、世界の「記述」が途切れた空白。

 

 (……足が……。)

 

 視線を下に向ければ、右の足首から先が、ボカシをかけたように淡いノイズとなって霧散していた。エージェントを振り切るために、自らの存在情報を切り捨てた「トリミング」の代償。

 

 欠落した箇所から、自分という存在が外の世界へ漏れ出していく感覚がある。まるで穴の空いたバケツから水が漏れるように、記憶や感情が、名前も知らない記号の羅列へと還元されていく。

 

 「レイ……! しっかりして、レイ!」

 

 遠くから、かすれた声が聞こえた。

 

 顔を上げると、そこにはミラがいた。彼女もまた、限界を超えた魔力行使によって杖を折られ、ぼろぼろの衣服をまとって虚空に漂っている。少し離れた場所では、ライオネルが不完全な姿のガルドを抱え、エレナやフィリスも必死に何かに掴まろうと、形のない虚空をかき乱していた。

 

 「みんな……無事か……」

 

 「無事なわけないでしょ、そんなことより!足どうしたのよ!?……あんな戦い方して!あんた、自分が人間だって自覚があるの!?」

 

 ミラの叫びは、この無音の世界では不自然に鋭く響く。

 

 レイは震える手で「オーバーライト・ペン」を握り直した。ペンの軸には、過負荷によって無数のヒビが入り、どす黒い赤光が点滅している。

 

 「……人間、か。少なくとも、この世界の『管理者』からすりゃ、俺たちはただのバグデータだ。……おい、ライオネル。ガルドの様子はどうだ」

 

 「……最悪だ。輪郭がどんどん薄くなっている。このままじゃ、本当に消えちまうぞ」

 

 ライオネルの腕の中にいるガルドは、もはや人の形を維持できていなかった。半透明のブロックが複雑に組み合わさった「人型の何か」にしか見えない。

 

 「……ここは、どこなの?」

 

 フィリスが震える声で問いかける。彼女の周囲に散らばった薬瓶も、ラベルが剥がれ、中の液体が立方体の粒となって宙に舞っていた。

 

 「未定義領域……開発者が使い残したテスト用の空白か、あるいは消去されたデータが一時的に滞留する『ゴミ箱』だ。ヴィンセントの街が初期化された今、ここだけが唯一、管理者の目から逃れられる場所だ」

 

 レイは肺の中の空気をすべて吐き出すように答えた。

 

 視界の隅に、新たなログが走る。

 [ SYSTEMシステム NOTIFICATIONノーティフィケーション: GARBAGEガーベジ COLLECTIONコレクション INイン 300 SECONDSセカンズ ]

 

 (ガーベジコレクション……不要データの完全抹消まで、あと5分か)

 

 文字通り、ゴミとして処理されるまでのカウントダウン。

 

 「いいか、全員聞け。今から俺がこの『ゴミ箱』のプログラムにパッチを当てる。……ここのガラクタをかき集めて、強引に『外』への出口をレンダリングする」

 

 「そんなこと、できるの?」

 

 エレナが不安げにレイを見つめる。レイの瞳は、すでに人のそれではなく、銀色の発光体に侵食されつつあった。

 

 「やるんだよ。……俺は、締め切りを守れなかったことだけはねえんだ」

 

 レイは残された左足で、実体のない虚空を蹴った。

 

 ペンの先端を自分の胸元へ向け、今度は「自分」ではなく「周囲の世界」の記述コードを読み取り始める。

 

 周囲に漂う「消去されたはずのガラクタ」――壊れた石畳、折れた街灯、消えたはずの市民の記憶。それらはすべて、この空白領域ではただの未割みわてな素材に過ぎない。

 

 「ミラ、魔力供給はもういらねえ。その代わり、この周囲に浮いてる『ゴミ』を、俺のペンの動きに合わせて一点に押し込め。フィリス、残ってる魔石を全部叩き割れ! 純粋なエネルギーだけでいい!」

 

 「わ、分かったわ!」

 

 ミラが折れた杖を掲げ、フィリスが最後の一袋となった魔石を砕く。

 

 レイはペンを振るった。

 

 空中に、複雑怪奇な「編集ライン」が描かれていく。

 バラバラだった素材が、レイの執念によって一本の道へと編み上げられていく。

 

 だが、その作業を邪魔するように、空白の向こう側から「ノイズ」の壁が迫ってきた。

 

 「……来たか。管理者の自動清掃プログラム……」

 

 巨大な波のようなノイズ。それに触れたものは、ゴミ箱の中ですら粉々に粉砕される。

 

 「ライオネル! エレナ! ガルドを抱えて走れ! 俺がこの『道』を確定させるまで、一歩も止まるな!」

 

 レイの絶叫と共に、虚空に銀色の細い「廊下」が出現した。

 

 ライオネル達は、迫りくるノイズの波から逃れるように、不安定な銀色の道へと飛び出した。

 

 背後では、レイがペンを振るうたびに血を吐き、自らの精神を「素材」として道に練り込んでいる。

 

 「……レイ! あなたも来なさい!」

 

 ミラが手を伸ばすが、レイの身体は重い。

 

 (ああ……くそ、尺が足りねえ。……この道の終点を『保存』するには、誰かが内側から支えてなきゃいけねえのかよ)

 

 レイの脳内に、非情なシステムメッセージが響く。

 [ ERRORエラー: INSUFFICIENTインサァフィシャントゥ PERMISSIONパーミッション TOトゥ SAVEセーブ ]

 

 保存権限がありません。

 

 「……そんなもん、俺が今ここで……『特権昇格』させてやるよ」

 

 レイは、自分の「管理者権限」を奪い取るための禁断のコードを入力し始めた。

 

 思考が加速し、現実感が剥離していく。

 レイの脳裏を、かつての世界での記憶が高速で駆け抜けた。徹夜の編集室、モニターの光、誰にも見られないまま捨てられたボツ素材。それらすべての「報われないデータ」の恨みが、今の自分を支えているような気がした。

 

 「読み取れ……。この世界の、ルートディレクトリを!」

 

 ペンを振るうたび、レイの視界に走る警告ノイズが激しさを増す。

 

 [ CAUTIONコーション: OVERWRITINGオーバーライティング KERNELカーネル PRIVILEGESプリヴィレッジュ ]

 [ IDENTITYアイデンティティ COLLAPSEコラプス: 45%... 52%... ]

 

 自己の同一性が崩壊し始めている。自分が「レイ」という編集者なのか、それともこの世界を構成するただの「関数」なのか、区別がつかなくなっていく。

 

 (痛え……。だが、止めたら全員終わりだ)

 

 「ミラ! 道の先に『光』が見えたら、皆んなを連れて迷わず飛び込め! そこがこのサーバーの……次の階層へのゲートだ!」

 

 レイは吐血し、膝を折る。だが手の中のペンだけは、狂ったような速度で作図を続けていた。

 

 道の終端が、次第に形を成していく。

 それはかつてのヴィンセントの風景でもなければ、魔導の門でもない。無機質な幾何学模様が組み合わさった、まさにシステムの「裏口」そのものだった。

 

 「レイ、あなたはどうするの!?」

 

 エレナが振り返り、必死にレイを呼ぶ。

 

 「俺は……最後だ。この道を『確定』させてから行く。……先に行け、これは命令だ!」

 

 レイは冷たく言い放ったが、その表情はノイズによってほとんど視認できない。

 

 一行は、涙を飲んで「ゲート」へと飛び込んだ。ライオネルに抱えられたガルドの残像が、最後にゲートを通過する。

 

 一人残されたレイの前に、巨大な「ガーベジコレクション」の波が牙を剥いた。

 

 「……さあ、ここからは俺と、管理者様との直接交渉だ」

 

 レイは笑い、ペンを「保存セーブ」の表示に叩きつけた。

 

 周囲の世界が、爆発的なノイズと共に反転していく。


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