ゼロから1へ
胸に痛みが走る。
左胸から紅い川が流れている。
――ああ、僕は死んだのだ。
そう理解するまでに時間はかからなかった。胸を貫かれれば誰でも死ぬ。むしろそれで死ななかったら、そいつは人ではない。
僕は、人間である。多少特異な環境に産まれた、普通の子ども。
愛されたくても愛されなかった、どこにでもいる子どものひとり。
死の間際にて僕は思う。
――できるならば、こころの底から愛して欲しかったと。
そして僕は、後悔を抱きながら、地獄へと向かった。
森に住まう、魔女が居る。
太古から存在しながらも、今では余人には認識すらされぬ森がある。
紅く光る、黄昏――落ちることも、再び昇ることもない太陽が射す森。
この黄昏の森に、魔女はひとり住んでいる。
「・・・・・・」
話す相手もいないのだから、無言であるのは当然だ。言葉を最期に放ったのは、一体いつだろうか。過去を振り返るが、答えは出ない。言の葉を口から紡ぐことができるかすら、魔女にはわからなかった。
森の中央にある粗末な小屋から出ると、魔女はゆっくりと歩き出した。扉の横には首のない大きな鎧が座っているが、魔女はいつも通りそれに関心すら持たずに歩を進める。
住まいである小屋から出ることは滅多にない。今回外に出たのは、異様な気配が森の中からしたからだ。
この黄昏は魔女の領域である。それゆえ、異物が入り込むことなどありはしないのだ。 例外があるとすれば、魔女よりも格の高いものか、彼女が望んだ者だけである。
自らが何かを望むことなどないと、本人は理解している。孤独、しかし、それに慣れすぎている。他者を知らない魔女が他者を望むことはありはしない。
ゆえ、現れたのはおそらく魔女よりも格の高い存在。警戒をしながら、気配の方向に進む。
黄昏の森に群生してる木々は、普通のものとは違う。葉は赤色に染まっており、季節を問わずその色が変わることがない。
地面に落ちた葉は大地を赤く染めており、一見血の池のようにも見えるが、血の赤とは色が違う。煌びやかな赤なのだ。血が淀んだ色なのだとしたら、落ち葉は空に輝く黄昏の朱だ。
そして、魔女は朱の中に、ひとつの黒を見つけた。正確にはひとり、だが。
仰向けに倒れている男がいる。珍しい黒の短髪に、少し幼さを残した顔立ち。
おかしい。気を失っている男からは、みじんも力を感じない。どこからどうみても、普人である。
結界が緩んだか、もしくは外部からなにかやられたか――原因はわからないが、このままにしておくのわけにもいかず、魔女は魔法を用いて男を運ぶことにした。
手に持った木の杖を一振りすると、男の体は軽々と宙に浮いた。魔女はそのまま小屋へと向かい歩き出す。追従するように男の体も後に続く。
朱い草花をできるだけ避けながらも、住処である小屋へと戻る。
「・・・・・・それは?」
置物のように座っていた鎧が、魔女に問う。大きくごつごつとした見た目に反し、発せられた声は可憐なものだった。
魔女はちらりと鎧を見るが、なにも反応を見せぬまま小屋へと入っていった。
「やっと、ここにも変化が訪れたか。さて、どうなることやら」
空虚な鎧から発せられた言葉は、誰の耳にも届かず空に消えた。
「ここ、は」
目が覚めた。暖かい空気が、体に入ってくる。
季節は冬だったはずだから、ここはきっと室内だろう。
まぶたを開け、体を起こす。かかっていた質素な布をよけると、周りを見渡した。
木でできた小さな小屋。ベット、テーブル、小さな暖炉。ここにあるのはそれだけだ。 一体ここはどこなのだろうか。そして俺は、どうしてここに居るのだろうか。
「――ッ」
思いだそうとすると、頭が痛む。なにやら左胸が痛むが、そこには傷ひとつない。
ああ、俺は何を――
「起きた、の」
小さく、透き通った声。女神の声と言われても納得するような美声の持ち主が、扉の前に立っていた。
腰までありそうな長い紫がかった髪を揺らしながら、僕に近づいてくる。目の前までくると、持っていた木の器を僕に渡してきた。
「喉、かわいたでしょう」
そう言われて、はじめて喉の渇きに気がついた。器になみなみ入っている水を確認すると、一気に飲み干す。
「・・・・・・うまい」
今まで飲んだどんな水よりもうまかった。若干の甘みに、すっとしたのどごし。乾いたからだには、なによりだ。
水を飲んだことで少し安心した。器から口を離すと、顔を上げる。
僕の座っているベットの前に一人の美女が立っていた。今時珍しい、というかあり得ない黒の三角帽子をかぶり、同色のマントを羽織っている。コスプレ、だろうか。
整った顔立ちに、日本人とは違う紫色の瞳。彼女は僕をじっと見つめている。僕も見つめ返すが、何も起きない。
「あなたは、なに?」
数分に及ぶ見つめ合いの末、彼女は口を開いた。
「なにって・・・・・・なんだろう。人間?」
質問の意図がわからず、なんとなくで返してしまった。眼前の美女は、不思議そうにこちらを見ている。その顔をしたいのは僕だというのに。
「にんげん・・・・・・どうやってここに入ったのかしら」
「どうって・・・・・・あれ?」
僕はどうしてここにいるのだろう。というよりここはどこなのだろう。
記憶を探ろうとすると、ノイズが走ったかのように何も思い出すことができない。
「僕はそう、有馬。有馬心。だったはずだ」
浮かぶのはその記号。僕の名前であるはずのモノ。
「ありましん、それがあなたなのね」
「ああ、そのはず・・・・・・だけど」
「そう。ありま、あなたはどうやってここに来たの?」
再び彼女は、僕に同じことを問い掛けてきた。的外れな回答をしたのは僕だった。ゆえに僕は正直に現状を伝えることにする。
「正直、なにも覚えていないんだ。気がつけばここにいて・・・・・・僕はきみと話していた。ここがどこかもわからないし、なんでここにいるかもわからない」
わかるのは名前だけ。僕のこころに残ったただ一つ。産まれた場所もわからず、どこから来てどうしてここにいるのもかもわからない。僕をずっと見つめる彼女からすれば怪しいことこの上ないだろう。
もしかしたら僕は近くにあるどこかから来たのかもしれない。だけど逆にとんでもなく遠くからやって来た可能性だってあるんだ。
図々しいとわかってはいたけど、僕は提案を口にする。
「できれば、なんだけど・・・・・・僕をここにおいてくれないだろうか。その、怪しいことは分かっているんだ。でも僕は空っぽで、なにひとつわからなくて。もしなにかおかしなことをしようとしたらすぐに追い出してくれて構わない。だから――」
お願いしますと、大きく頭を下げた。できるだけ、僕の誠意が伝わるように。
「いいわ。あなたが居たいと言うのなら、構わない。好きなだけいるといい」
だけどと、彼女は続ける。
「ここに居る以上、ここから出てはいけない。それだけは守って」
紫色の瞳が、僕を見つめている。視線を逸らさずに、僕は深く頷いた。
「ありがとう」
僕がそういうと、彼女は薄く笑んで小屋の外に出て行った。それを見送ると、気が抜けたように体から力が抜けていく。僕はもう一度、少し固い布団で眠ることにした。
わたしの森に落ちてきた、ひとりの青年。
いかにわたしが他人と接していないといっても、性別の差異や年齢くらいはだいたいわかる。垢の抜けきっていない、純粋な目をした男の子。わたしが男性と接するのは幾年ぶりだろうか。過ぎゆく年を数えることもなくなったから、それすらも定かではない。
どうして、落ちてきたのだろうか。彼は神と呼べるほど格はない。凡夫といって差し支えないだろうし、なんらかの能力を持っているとも思えない。ゆえに、落ちてしまったのは、なんらかの偶然が重なった結果なのだろう。それ以外考えられない。なぜならわたしは――他人を知らないから。それを望むことなど決してありはしないから。
扉の中で彼が眠ったのがわかる。世界の境界を越えて来たのならば、その疲労は計り知れないものだろう。わたしのようなものならともかく、ただの人間ならば尚更だ。
小屋の扉、その真横に座る鎧を見て、わたしは考える。
わたしは他人を知らない、接し方がわからない。否、すべて忘れてしまったから。
だからこそ、彼女に頼もう。わたしと共に存在してきた、彼女に。
「あの男の子、頼めるかしら」
彼女に語りかけるのは、何年ぶりだろう。わからない。どうやって話しかけたらいいかわからず、言葉はうまく伝えられない。
「私に頼もうっての? 都合が良すぎないかしら」
見た目がただの鎧である以上、声色からすべてを察するしかない。きっと怒っているのだろう。都合が良すぎると。そんなことはわかっている。でも、今頼れるのはあなたしかいないから。わたしがすべてを行ってしまえば、きっと何かが壊れてしまうから。
顔を伏せてしまう。申し訳なさと、己の自分勝手な行動に彼女を直視することができない。
「・・・・・・いいわ。でもね、全部を私に任せないこと。ここでの生き方はわたしが教える。けれど、あなたが関わらなくていいわけではないのよ。わかるかしら?」
わたしがここに居ていいと言ったのだ。本来ならばわたしが面倒をみるのが道理だろう。彼女の言葉は最もだ。
「でも、わたしは何をすれば・・・・・・」
「会話をして、一緒に食事をしてあげればいい。最低限はそれね。ここから出ることはきっと叶わないのだから、それくらいしてあげなくちゃ。孤独は、人を殺す」
そう、彼は人間なのだ。なり損ないの私とは違う。
「わかったわ。その、ありがとう」
「いいのよ。でもね、私も善意でやってるわけじゃない。目的がある、それだけは忘れないで」
話は終わりだと言わんばかりに、彼女は声を発しなくなった。
まだ彼は小屋の中で寝ている。わたしが戻るときっとうるさくなってしまうから。
邪魔をしないように、わたしはあてもなく森の中を歩き出した。