第44話 地獄へのカウントダウン
会場に静寂が広がる中、ボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵が、大階段をゆっくりと降りてくる。その一歩一歩が、まるで俺の死刑執行へのカウントダウンのように重く響いた。
俺の目は、吸い寄せられるように彼の胸元へ固定された。
そこには、忌々しい――護符が揺れていた。
「……っ!!」
俺は今にも、その場に絶望で崩れ落ちそうだった。
リリアの護符だ。間違いない。かつてクロエが所持し、ハミルトンが徹底的に解析したものと同じ、あの忌々しい聖刻文字が刻まれている。あれをリリアが子爵に手渡したのだと、その瞬間にすべてを理解した。
あの護符が子爵の首にある以上、寄生体である俺たちは、彼に指一本触れることすら叶わない。触れた瞬間に浄化の光に焼かれ、正体を露呈することになるだろう。
……詰みだ。
文字通りの、完璧なチェックメイトだ。
脳内モニターに表示されたヴァールとの約束の時刻まで、すでに三時間を切っている。今この瞬間から、あの鉄壁の護符をどうにかして外させ、寄生を完了させる手など、俺には検討もつかない。百万年の地獄行きが、冷たい蛇のように足元からじわじわと這い上がってくるのを感じた。
そんな俺の内心のパニックを知る由もなく、子爵は鷹揚に会場を見渡した。そして、真っ直ぐにエルメスの――俺の方へと歩いてきた。
「エルメス=バーキン嬢。この度のダンジョン踏破、心より感謝申し上げる。貴女の勇気こそが、この街の希望だ」
「……光栄に存じますわ、子爵閣下」
俺は震えそうになる声を必死に抑えて、懃懃に応えた。
その直後だった。子爵が、親愛と感謝を示す自然な動作で、右手を差し伸べてきたのだ。
当然、握れるわけがない。
差し出されたその手よりも、俺は胸元に揺れる護符を、憎しみを込めて睨みつけた。ハッとして、すぐに視線を外したが、子爵の眉が不審げにピクリと動く。
「……握手は、お好みではないかな?」
沈黙が痛い。周囲の貴族たちの視線が刺さる。冷や汗が背中を伝う中、俺はエルメスの口を動かした。
「あいにく……指を怪我しておりまして、どうかお許しを」
我ながら酷い嘘だ。三歳の子供でも、もう少しマシな言い訳を思いつくだろう。だが、頭の中が地獄への恐怖で真っ白になっている今、これ以外の言葉がどうしても浮かばなかった。
「ぼ、ボッテガ閣下! エルメス嬢はと、と、とんでもなくシャイなんです! 悪気はないんです、はい!」
隣からガストンが、顔を真っ赤にしながら割って入った。またしても盛大に噛みながらだが、その必死なフォローが、凍りついた空気を強引に動かした。
「……いや、怪我をしているのなら仕方がない」
子爵は穏やかに頷き、手を引いた。
ガストンの助け舟がなければ、この場で完全に正体を怪しまれていただろう。ガストン、今日ばかりは本当に感謝する。だが、俺の命が風前の灯火であることに変わりはなかった。
子爵はそのままハミルトンのもとへ向かった。脳内モニターを共有して確認すると、ハミルトンもまた、氷のような微笑を浮かべながら「少し手の調子が悪くて」という、俺と同レベルに苦しい言い訳で握手を回避していた。
そして、子爵が次にクロエのもとへ向かった、その瞬間だった。
――ガシャァァァンッ!!
けたたましい異音が広間に響き渡った。
陶器が砕け、銀の食器が床に散乱する、心臓を逆撫でするような音。続いて、着飾った招待客たちの短い悲鳴が連鎖する。
見れば、中央のテーブルの脇で、一人の男性客が椅子ごと崩れ落ちていた。喉を掻きむしり、白目を剥いて痙攣している。
「道を空けろ! 下がるんだ!」
ギルドマスターのガジルが素早く駆けつけ、手際よく容態を確認した。
「落ち着いてください、皆さん! 命に別状はない……これは【マヤ毒】だ。致死性はないが、神経を一時的に麻痺させる。全員、そのテーブルの飲み物から離れろ!」
ガジルの宣言に、会場は安堵と、それ以上の不気味なざわめきに包まれた。
俺はその場から聞き耳を立てながら、急速に回転を始めた頭の中で状況を整理した。
子爵が開いたこの重要な夜会で、毒が使われた。マヤ毒というのは、貴族が実力行使の前段階として、相手を脅すために使うものらしい。アブダブルの変死、そして今夜の毒。
これは組織的な圧力だ。子爵は今、何者かに追い詰められている……。
混乱が続く中、顔を土気色にしたボッテガヴェネタ子爵が、最も「無害」で「実績」のある薬師であるクロエを呼び止めた。
「……クロエ殿。少し、場所を変えてもよろしいかな。貴女に相談したいことがあるのだ」
二人が会場を出ていく。
詰んでいた盤面に、微かな、だが決定的な亀裂が入った。
俺は反射的に、同調先をエルメスからクロエへと切り替えた。
エルメスの高い視点から、クロエの少し低い、薬草の香りが混じる視界へ。
ここが、俺にとって最後の勝負の場になる。
そんな気がした。
◆
子爵に案内されてやってきたのは、大広間から離れた一室だった。
扉を開けると、寝台に一人の女性が横たわっていた。青白い顔で、やせ細っている。まるで死んだように眠っているが、胸が微かに上下している。
「失礼ですが、彼女は誰です?」
「私の妻だ。昏睡に陥ってから、もう一年になる……」
俺は子爵の許可を得てから、彼女の診察を始めた。もしかしたら、何か突破口になるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。
クロエの知識をフル動員して診察する。脈を取り、目を開けて確認し、体温を測り、魔力の流れを感じ取る。
分かったことは。
「……これは、病ではないです」
「病ではない? では、何だというのだ!」
診断を下した瞬間、子爵の瞳に絶望と希望が混濁した色が浮かぶ。
「恐らく、【呪い】です。それも、並の術者では解くことすら叶わない、極めて高位な呪いです」
子爵が息を呑んだ。
「呪い……だと? 誰が、妻にそのような真似を!」
「それは私にも分かりかねますです。ですが――」
俺はあえて、地雷原であるその名前を口に乗せた。
「呪いの解呪に関しては、私よりもエルメスさんの方が適任です。彼女は王立魔法学校を首席で入学した過去を持つ才女。魔法の構造を解き明かす知識においては、この街で彼女の右に出る者はいないはずです」
「――ならんッ!」
弾かれたような拒絶。子爵の顔が、恐怖に歪む。
「……何か、問題でもございますです?」
子爵が少し迷った後、口を開いた。
「……君になら、話しても構わないだろう。実は、昨夜――」
子爵は昨夜のことをゆっくりと語りはじめた。
リリアの吹き込みは、予想以上にこの男の精神を蝕んでいた。だが、語られた真相は、俺からすれば笑止千万なものだった。
「……それだけ、ですか?」
呆れを隠さず、俺は子爵を正面から見据えた。
「……何?」
「エルメスさんやハミルトンさんが、実際に領主様に危害を加えたのです? 誰かを殺し、街を焼きましたか?」
「いや、それは……ないが。だが、神官の言葉だぞ?」
「ならば、何をそんなに恐れているのです? 閣下は、奥様を助けたくないのですか?」
子爵が絶句する。統治者としての矜持が、妻への愛に叩き潰されようとしている。これはチャンスだ。俺の地獄行きがここに懸かっている。
「助けたいに決まっている! 私の命に代えてもだ!」
「本当です?」
俺はじっと子爵を見た。きっとこの時の俺の目は、深淵のような暗さを帯び、ドス黒く濁っていたことだろう。
子爵が後退りする。
「……妻が、助かるのなら」
「分かりましたです。……では、ボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵。――私たちと、『取引』をするです」
「――――」
子爵が身をこわばらせた。
また一歩、後退した。
寝室の空気は、病的なまでに冷え切っていた。横たわる妻ゼニスの微かな呼吸音だけが、死の静寂を辛うじて繋ぎ止めている。
子爵は、リリアから授かった護符を握りしめたまま、獣を警戒するように俺を睨み据えた。
「クロエ=パディントン……君は一体、何者なんだ」
その問いに、俺は毒気を抜かれたような、あどけない微笑みを返した。
「私は閣下の味方ですよ」
「そんなことを聞いているのではない!」
子爵の声が、苛立ちと共に低く響く。
「君はエルメス=バーキン嬢と、ハミルトン=カーキフィールドと繋がっているのか。三人で示し合わせ、私を欺いていたのか!」
「はい、彼らは私の同志です」
俺は逃げることも隠すこともせず、あっさりと肯定した。
「あ、でも別に閣下が考えるような悪いことはしてないですよ? 実際、この街にとって良いことをしているです。それは閣下も、その目で見てきたはずです」
否定できない事実を突きつけられ、子爵の眉間に深い皺が寄る。リリアが語った【黒い魔力】、俺らが街にもたらした【奇跡】という現実。その矛盾が、彼の理性を軋ませていた。
「目的は何だ。なぜ私に近づいた」
「目的、ですか? そうですね。強いて言うなら、『自由になりたい』、だと思うです」
「……自由?」
「詳しいことは話せないです。私たちには共通の敵がいるです。そいつを倒すためには力がいるです。武力と知力、そして権力です。いずれ訪れる戦いに備えて、私たちは閣下を仲間にしたいと考えていたです」
「……なぜ、私なのだ。他にも有力な貴族はいくらでもいるだろう」
「ああ、それは完全にたまたまです。たまたま閣下がこの街の領主だったというだけのことです」
その身も蓋もない「偶然」という回答が、逆に子爵の警戒を解いていく。邪悪な侵略者であれば、もっと甘い言葉を並べ立てるはずだ。あまりに淡々とした俺の物言いは、彼には「奇妙な誠実さ」として映り始めていたことだろう。
「……断ればどうなる。私を殺し、無理やり奪うのか?」
子爵が、己の胸元の護符を盾にするように一歩下がった。
「どうもなりません。というか、私たちにはどうすることもできないです。……閣下に断られた時は、私たちはきっと消されるだけです」
「……どうにもできないとは、どういうことだ?」
「その護符です」
聖刻の護符を指差す。
「私たちには、忘れ去られし神から与えられた聖なる魔力があるです。しかし、その護符に宿る力とは、性質が異なる光の力なのです。二つの強い光は時に反発し合ってしまうのです。結果、【異物】として弾かれてしまいます。ですから、私は閣下には指一本触れることが叶わないのです」
「まことか……? これが、君たちを拒んでいるというのか」
「試してみるです?」
俺は躊躇いなく、細い指先を子爵の胸元へと伸ばした。
刹那――バチィッ! と、激しい火花が散り、衝撃と閃光が寝室の空気を震わせる。
「……っ!」
弾かれた俺の手が、赤く腫れている。
「おわかりになられたです?」
痛みを堪えるように手を摩りながら、俺は静かに告げた。
「私たちは、閣下に触れることすら叶わない。リリアという神官は、それを分かっていて閣下に渡したのでしょう。私たちが閣下を害することを恐れて。……でも、閣下。それは同時に、閣下の『救い』を遠ざけているということでもあるのです」
子爵は自分の胸元で小さく光る護符を見つめた。【魔を退ける盾】が、実は【奇跡】を拒絶する檻に見え始めた。
「……なぜ、それを今、正直に話すのだ。弱みを握らせるようなものではないか」
「私たちにはそもそも、閣下と敵対するつもりなど微塵もありません。何より、これは私たちなりの誠意でもありますです」
「……誠意、か」
「閣下に信じていただくためです。私たちはリリアさんが思っているような、邪悪な存在ではない。閣下ならば、分かってくれると信じているです」
「なぜ、私なら分かると思う」
「私たちと、似たような立場にいると確信しているからです」
俺は祈るような気持ちで子爵を見つめた。
「閣下も誰かに狙われ、脅されているです。そして、身動きが取れずにいるです。今夜のマヤ毒、ヴェルテ商会の件。これは全て、閣下への圧力ではないですか? だとすれば、やはり私たちと同じです。私たちは、きっと協力できるです」
子爵の肩がびくりと跳ねた。彼の孤独な闘いを、俺は見抜いていた。
「……協力すればどうなる」
「とりあえず私たちの命は助かるです。そして、閣下の奥様は目を覚ますです」
「それは本当か!」
子爵が俺の肩を掴もうとして――護符の輝きを思い出し、手を止めた。
「嘘はつかないです。ただし、奥様にかけられている呪いは強力です。魂にかけられているため、魂を強化する必要があるです。我らの神に祈りを込め、奥様に聖なる魔力を注ぎます。そうすれば、奥様の魂は聖なる加護を受け、呪いを跳ね除けるです」
子爵は横たわる妻の青白い顔を見た。一年間。あらゆる手を尽くして、一度も開かなかった瞼。
「……妻が、ゼニスが助かる……」
「はい!」
うん。全部、嘘だけど。
俺の意識は、子爵の体を乗っ取ることから、子爵をどのようにして従わせるかにシフトしていた。
子爵に寄生してしまえば、時間の問題でリリアにバレてしまう。そうなれば教会エンドが待っている。今教会に動かれてしまえば、ひとたまりもない。リリアが子爵と面識があると分かった以上、子爵を寄生体にするにはリスクが大きすぎる。
ゆえに、詰んだと思った。
しかし、そこに眠れる救世主が現れた。
なにも子爵本人を寄生する必要はない。その妻、ゼニスに寄生して、かかあ天下として裏から子爵を操ればいい。子爵には本物の妻か、寄生虫かの判断などつかない。仮にボロが出たとしても、呪いの後遺症で記憶が曖昧になっているとでも言えばいい。愛は盲目というし、なんとでも言える。結局、真実など誰にも分からないのだ。それこそ【神眼】でもない限り。
我ながら血も涙もない作戦だとは思うが、こちとら百万年の地獄行きがかかっている。
「……少し、考える時間が欲しい」
子爵が、力なく項垂れた。
「分かったです。ただし、十二時前までには返事が欲しいです。それを過ぎると、私たちはこの地を去らなければならないのです」
「それは、どういう意味だ?」
「……申し訳ないです。これ以上は答えられないです」
子爵は、最後に一度だけ妻の顔を覗き込み、深く長い溜息を吐き出した。彼の手から力が抜け、握りしめていた護符が、力なく胸元へと垂れ下がる。
さすがにヴァールとかいう頭のイカれた死神にクーリングオフ――地獄送りにされるので、なんて言えるわけがない。
◆
夜会がお開きとなり、華やかな喧騒が嘘のように引いた城館の一角。
エルメス、ハミルトン、クロエの三人は、応接室の重厚なソファに身を沈め、子爵の返事を待つことにした。
俺はこれまで感覚を共有していたクロエから、同調先をエルメスへと切り替えた。視界が少し高くなり、ドレスの重みとコルセットの窮屈さが全身を締め付ける。
応接室は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。壁に掛けられた古めかしい振り子時計の針が、一秒、また一秒と、残酷なまでに正確なリズムを刻み続けている。
「……にしても、遅いですわね」
俺はエルメスの華奢な喉を震わせ、焦燥の混じった声を絞り出した。座っているだけでは落ち着かず、右足が勝手にガタガタと揺れ始める。
「ハニー、令嬢は貧乏ゆすりはしないんじゃないかな」
向かいのソファで脚を組み、優雅にティーカップを傾けていたハミルトンが、透き通った声で指摘した。この期に及んで、商人の仮面を完璧に被り続けているコイツの余裕が、今の俺には猛烈に鼻につく。
「こんな時に、そこまで演じていられるわけねぇだろ……ッ!」
俺が吐き捨てると、隣にいたクロエが冷ややかな視線を向けてきた。
「落ち着くです。キャラ崩壊してるですよ。もし今、誰かが入ってきたら一発でアウトです」
「……っ、そ、そうですわね。おーっほっほっほ……」
俺は不自然な咳払いをして、無理やり背筋を伸ばし、エルメスらしい令嬢の座り方に姿勢を正した。だが、脳内の隅で真っ赤な数字が点滅している。ヴァールとの約束の刻限まで、残り時間は刻一刻と削り取られていた。
しばらく、三人とも無言になった。
時計の針の音だけが、部屋の空気をじわじわと切り刻んでいく。
「……あと、何分ですの?」
俺の問いに、クロエが手元の懐中時計を確認し、短く答えた。
「5分です」
心臓がドクンと大きく跳ねた。
やばい。気が狂いそうだ。
この城館は、貴族の権威を象徴するかのように無駄に広い。今いるこの応接室から、子爵夫人――ゼニスが眠る寝室までは、全速力で走っても五分はかかる。子爵が今すぐ現れて、二つ返事で協力を申し出たとしても、普通に歩いて向かっていては間に合わない。
「子爵は何してんだよ! つーか、なんでお前はそんなに呑気に飲んでられんだよ! もし間に合わなかったら、俺も、お前も、全員地獄行きなんだぞ!」
「これでも十分焦っているさ、ハニー。ただ、焦った顔を見せても事態は好転しないだろ。無駄なエネルギーは使わない主義なんだ」
「……なんでそんな、人間みたいな理屈が言えるんだよ。お前、中身は俺の一部だろうが」
「人間を模倣し、人間に寄生しているうちに、考え方も人間に近づいてきたんじゃないかな。……あるいは、君自身が心の底でそう願っているのか」
「うるさい、黙れ! 意味わかんねぇんだよ!」
ハミルトンの理屈っぽい回答を遮ると、クロエが小さく溜息をついた。
「二人とも、静かにするです。言い争いをしていると、時計の針が余計に遅く感じるです」
「…………」
「…………」
再び、重苦しい沈黙が降りた。
脳内での計算が、パニックに近い速度で回転を始める。
子爵が現れて、返事を聞いて、それからゼニスの寝室まで走る。
どう考えても、物理的な時間が足りない。
「――って、これ以上悠長に待っていられるか! 間に合わねぇじゃねぇか!!」
俺が悲鳴のような叫びと共に立ち上がった、その瞬間だった。
応接室の扉が、ゆっくりと、しかし重々しく開かれた。
現れたのは、ボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵だった。
一晩中、愛と領主を天秤にかけ、悩み抜いたのだろう。その顔には深い疲労が刻まれていたが、瞳の奥には、すべてを投げ打つ覚悟を決めた男の決意が宿っていた。
「……君たちに、協力しよう。妻を、救ってくれ」
「返事は聞きましたわ! あとは頼みますわッ!!」
感謝の言葉を述べる余裕など、一秒たりともなかった。
俺はエルメスの体で、困惑する子爵を突き飛ばさんばかりの勢いで廊下へと飛び出した。背後で「え……? バーキン嬢!?」という呆然とした声が聞こえたが、構っていられない。
「くそっ、間に合わねぇ! 全然間に合わねぇッ!」
走る。令嬢のドレスの裾を乱暴に捲り上げ、なりふり構わず全力で走る。
エルメスの肉体は、運動などとは無縁の貴族令嬢だ。肺がすぐに焼けつくように熱くなり、喉の奥から鉄の味が込み上げてくる。コルセットが肺を締め付け、酸素が足りない。
曲がり角を猛スピードで曲がり、滑りそうになりながらさらに廊下を突き進む。
ゼニスの寝室は、まだずっと先だ。
頭の中で時計の秒針が、爆弾のタイマーのようにけたたましく鳴り響いている。
残り一分を切った。
「くそっ、くそっ、くそぉぉぉぉッ!!」
このままでは、扉に辿り着く前にタイムアップだ。
ヴァールのあの冷笑が脳裏に浮かぶ。百万年の地獄。
そんなもの、御免だ。
「なりふり構っていられるか……『サンダーボルト』!!」
俺は魔力を全開にした。令嬢の細い指先から、咆哮のような稲妻が放たれる。
最短ルートを塞ぐ分厚い石壁に向けて、魔力の奔流を叩きつけた。
――ドォォォォンッ!!
石壁が爆ぜ、粉塵が舞い上がる。瓦礫が飛び散る中、俺は粉塵を吸い込みながら突き進んだ。壁に開いた大穴の向こうに、目的の廊下が見える。直線距離でのショートカットだ。
約束の十二時まで、残り十秒。
瓦礫を踏み越え、膝を擦りむきながらも足を止めない。
ゼニスの寝室の扉が、視界の先に飛び込んできた。
五秒。
俺は扉を蹴破った。重厚な木枠が悲鳴を上げて開き、寝室の静寂を暴力的に引き裂く。
四秒。
月光に照らされた寝台が見えた。そこには、死人のように白い顔で眠り続けるゼニスが横たわっている。
三秒。
俺は最後の一歩を力強く踏み込み、空中へと跳んだ。
二秒。
エルメスの全神経を、目の前のターゲット――ゼニスの口元へと集中させる。
一秒。
俺は全力でゼニスの顔めがけてダイブした。
エルメスの唇が、ゼニスの冷たくなった唇に、狂おしいほどの勢いで押し当てられた。
――ゼロ。
その瞬間だった。
パチ、パチ、パチ、パチ。
「 コングラッチュレーションですッ、ハイ!」
静まり返った寝室に、あまりに場違いな、耳障りな拍手の音が響き渡った。
顔を上げると、部屋の隅。夜の闇が凝縮されたかのような場所に、あの、にやけ面の悪魔が立っていた。
ヴァールだ。
両手を叩きながら、三日月のような口を耳元まで釣り上げ、心の底から楽しそうな顔でこちらを見ている。
「ギリギリでしたねぇ、ハイ! あとコンマ数秒、いや、コンマ一秒遅ければ、今頃はクーリングオフのご案内をするところでしたよ、ハイ! 最後の最後まで、実にエクセレントォッ! 感動しましたよ、ハイ!」
「う、うるせぇ……ッ、し、死ね……クソ悪魔……ッ!」
俺はゼニスの唇から離れ、エルメスの泥塗れの体で、そのまま床に座り込んだ。
膝が笑っている。全身の筋肉が小刻みに震え、呼吸を整えようにも肺が悲鳴を上げて酸素を拒絶する。
「いやぁ、まさか子爵本人への寄生を諦め、奥様の方に寄生するとは! わたくし、そこまでは予想できませんでしたよ、ハイ! やはり芋虫ボーイは面白い、実に面白いですねぇ、ハイ!」
「……褒めてんのか、馬鹿にしてんのか、どっちかにしろよ……ッ!」
「もちろん、最上級の賞賛ですよ、ハイ」
ヴァールが満足げに肩をすくめ、踊るような足取りで俺の周りを一周した。その瞳が、獲物を値踏みするようにギラリと光る。
「さて。では確認しましょうか、ハイ。イントレチャート子爵夫妻は、ボーイの手の内に収まった。愛する妻という『中継局』を通じれば、子爵を裏から飼い殺すのは容易い。これで、街の実効支配は概ね完了と判断してよろしいですかね、ハイ」
「……あぁ、そうだ。文句あるか」
「文句など、とんでもない。見事でしたよ、ハイ。ただ――」
ヴァールが、俺の鼻先まで音もなく顔を近づけた。冷たい死の気配が、エルメスの肌をなぞる。
「これはあくまでもスタートラインですよ、ハイ。わたくしの期待はまだまだ続きますからね、ハイ。では、素晴らしい『支配』を。またお会いしましょう、ハイ! さよなら、さよなら、さよなら」
それだけ言い残すと、ヴァールの不気味な気配は霧が晴れるように消え去った。
俺は、エルメスの震える掌を見つめ、それから寝台の上で相変わらず眠り続けるゼニスを見た。
俺の意識の端に、新たな情報の流れが流れ込んでくる。
ゼニス=イントレチャート。
……終わった。
地獄の門が俺の背後で閉まる音を聞いたような気がした。
「……はは、終わりましたわ」
誰にともなく、掠れた声で呟いた。
ボッテガヴェネタ=イントレチャート。彼は明日、最愛の妻が奇跡のように目覚める姿を見るだろう。
そして、その日から彼の人生は、妻の形をした俺の指先一つで操られる、甘美な地獄へと変わるのだ。




