第26話 帰還
アラクネクイーンの残骸が完全に沈黙してから、どれくらいの時間が経っただろう。
焼け焦げた臭い。漂う魔力の残滓。天井の糸が、風もないのにゆらゆらと揺れている。
静寂だけが、ドーム状の空洞を満たしていた。
「……エルメス嬢」
アルエルの声だった。
岩壁に背を預けたまま、こちらを見ている。右腕の断面に巻かれた包帯は、すでに滲んで赤黒い。顔色は蝋のように白い。それでも、その目だけは、まだ静かに動いていた。
値踏みするような目だ。
「……大丈夫ですわ」
俺はエルメスの口を動かし、できるだけ淡々と答えた。
「それより、貴方こそ……」
「僕の心配はいい」
アルエルが短く遮った。一つだけ、聞かせてほしい。そう前置きして、口を開く。
「あの局面で、君は僕の言霊を完全に受け入れた。普通の魔術師なら、初めての時は必ず抵抗してしまうんだ」
静かな声だった。怒ってもいない。ただ、機械のように正確に、事実を並べていく。
「なのに君は、抵抗することはなかった。増幅した力を一切乱さず、最適な魔法に変換して叩き込んだ。まるで、最初から自分の意思を持たないかのように」
アルエルの目が、少しも揺れない。
「エルメス嬢。君は一体、何者なんだ?」
沈黙が落ちた。
ガストンたちがこちらを見ている。シャネルも無表情のまま、じっと俺を見ていた。
……鋭い。さすがというか、最悪というか。
俺はエルメスの仮面を深く被り直し、力なく微笑んだ。
「……必死だっただけですわ。皆さんを死なせるわけにはいかない、ただそれだけですの」
嘘だ。
俺が考えていたのは、失敗した計画をどう立て直すか、それだけだった。
アルエルはしばらくこちらを見ていたが、やがて静かに目を閉じた。納得したわけではないだろう。ただ、問い詰めるだけの体力が残っていないのだ。
……今は、それでいい。
「……不思議な人だね、エルメス嬢は」
それだけ言って、踵を返した。褒めているのか、警戒しているのか、まるでわからなかった。
「帰りましょう」
俺はエルメスの声で言った。
「でも、その前に。ダンジョンコアを破壊しないといけませんわね」
◆
台座は、空洞の中心にあった。
腰ほどの高さの石造りの台の上に、それは鎮座していた。人の頭ほどの大きさの球体。赤と黒が混じり合い、内側でどろりと何かが渦巻くような、禍々しい輝きを放っている。
「待ってくれ」
アルエルが口を開いた。ネネに支えられながら、一歩こちらへ寄る。
「破壊しなくても、持ち出せるんじゃないのか?」
「破壊しなければ、ダンジョンは消えませんわ。それに、ギルドの依頼はダンジョンコアの破壊ですわよね?」
「……そう、だったね」
俺はそれだけ答え、シャネルから短剣を借りて構えた。
迷いなく、振り下ろす。
轟音。
赤黒い光が爆散し、破片が石床に降り注ぐ。コアの輝きが急速に薄れ、やがて砕けた岩のかけらと変わらない灰色になった。
同時に、ダンジョン全体がかすかに揺れた。壁面から糸が一斉に垂れ落ち、天井の子蜘蛛の気配が消える。遠くで何かが崩れる音がした。
ダンジョンが、死んでいく音だ。
ヴァールの奴は、ちゃんとモンスターたちを転移してくれたようだな。
偽物のダンジョンコアが破壊されると同時に、奴の元に連絡がいくようになっていた。
「……行きましょう」
誰も、何も言わなかった。
◆
外に出ると、空が夕焼けに染まっていた。
すでに入り口へと引き返していたベテラン冒険者たちが悲鳴を上げる。特にアルエルの欠損を見た時の動揺は激しく、一時、収拾がつかないほどだった。
その混乱の中で、俺はシャネルを連れて静かに一行から離れた。
ギルドへの報告も、英雄への質疑応答も、アルエルたちがやってくれる。今の俺に必要なのは、一人になれる場所だ。
◆
宿屋の廊下で、シャネルと別れた。
「……おやすみ、エルメス」
「おやすみなさいませ。今日は、本当に助かりましたわ」
「それは、お互い様」
シャネルが少しだけ目を細めた。それから、何も言わずに自分の部屋へ消えた。
俺は部屋の扉を閉め、鍵をかけた。
静かだ。
寝台に腰掛け、目を閉じ、エルメスへの同調をゆっくりと解く。意識が体から引き剥がされるような感覚。それから、急激な重さ。
……帰ってきた。
俺は自分の体――芋虫の体でダンジョンの通路を這い、いつもの特等席へと向かった。
◆
青パイセンが、今日も所定の位置にいた。
ダンジョンの奥、一際広い空間の中心。あの分厚い体を丸めて、俺専用のソファよろしく、そこにある。
俺は青パイセンの体に、ずるりと乗り上げた。
「ふぁ〜」
ぷにっとした感触。ほどよい弾力。魔力がじんわりと染み込んでくるような、妙な温かさ。
……やっぱ、これだよな。
「我が家が一番落ち着くぜ」
声にならない声で呟き、そのまま崩れるようにへたり込んだ。
ああ、疲れた。
本当に、心の底から疲れた。
エルメスの体で戦って、魔力を使い切って、アルエルの目を誤魔化して、帰り道ずっと気を張って、宿屋まで令嬢の仮面を保ち続けて。
簡単な作戦のはずが、エルメスとシャネルの二人を同時に失うところだった。挙句、始末するはずだったアルエルに救われるなんて、とんでもない失態だ。そのくせ、紅蓮の連中からは命の恩人だと感謝されちまった。
「……マジで最悪だ」
こりゃ一体、どんな冗談なんだよ。
「計画も全部、狂っちまったな」
天井を見上げる。ダンジョンの岩盤が、薄暗く広がっている。
アラクネは暴走した。アルエルを殺し損ねた。なのに紅蓮の連中に、ちょっとだけ情が芽生え始めている。
「くそっ」
敵になり得る連中に、情を深めてどうすんだよ。
失敗の一覧を並べたら、それだけで反省文が書けそうだ。
「ああ、本当に最悪だ」
ソファがかすかに動いた。重心がずれて落ちそうになった俺を、柔らかく受け止めるように。
「パイセーン」
項垂れるようにして、俺はソファに顔を埋めた。
遠くで、街の鐘が鳴っている気がした。アルエルの生還を祝う鐘か、ダンジョン消滅を祝う鐘か、それとも俺の空耳か。
どうでもよかった。
アルエルのことは、後で考える。ヴァールのことも、後で考える。計画の立て直しも、全部、後で。
問題は山積みだ。アルエルの話術はいずれ牙を剥く。腹の中のコアはまだ制御できていない。アラクネクイーンのように、エルメスやシャネルの体――寄生虫に影響が出ない保証もない。
「ああ、もうっ」
全部わかってる。全部、後でやる。
だから今だけは——
「……寝かせてくれ」
俺は芋虫ソファの上で、意識を手放した。
青パイセンが、またかすかに動いた気がした。
呆れているのか、労っているのかは、わからなかった。
◆
翌朝、街が騒がしかった。
再びエルメスの意識と同調した俺は、部屋の窓から外を覗く。大通りに人が溢れていた。
昨日の夕方からすでに始まっていたらしいが、一夜明けてさらに賑やかになっている。屋台が軒を連ね、太鼓と笛の音が路地の奥まで響いていた。子どもたちが歓声を上げながら走り回り、昼間から酒を飲んでいる大人たちが至るところで乾杯している。
長年この街を脅かしてきたダンジョンが消えた。それだけで、これだけの熱量が生まれるのか。
……まあ、当然か。
「エルメス、準備できた?」
扉をノックする音とともに、シャネルの声がした。
「ええ、今行きますわ」
俺はエルメスの身なりを整え、扉を開けた。
◆
大通りに出た瞬間、声をかけられた。
「エ、エルメス嬢!」
ガストンだ。
人混みをかき分けて、大股でこちらへ歩いてくる。昨日の煤や鼻血の跡はすっかり落ちているが、目の下に隈がある。おそらく昨夜から飲み続けているのだろう。
「よ、よかった。ちょ、ちょうど探してたんだ」
「何かありましたの?」
「な、なな、何かではない! み、見てわからないのか、こ、この街の様子を!」
ガストンが鼻息荒く両手を広げ、大通りを示した。
確かに、騒がしい。だが、俺が気になったのは騒ぎの規模ではなく、そこから聞こえてくる話し声だ。
「紅蓮が帰ってきたってよ!」
「ダンジョンが消えたらしいぞ!」
「AAAクラスを倒したんだって? 信じられん」
「エルメス嬢って誰だ?」
「バーキン家の令嬢らしいぞ! 魔王になりえたモンスターを、真正面からぶっ飛ばしたんだって!」
「紅蓮のアルエルよりエルメス嬢の話ばっかり聞こえてくるな……」
どうなってんだ。
「お、おお、俺が昨夜ちょっと話した」
お前の仕業かよ!
ガストンが、誇らしげに鼻を鳴らした。
「ちょっと、ではないでしょう」
ヴァイオレットが後ろから現れ、呆れ顔でガストンを見た。
「昨夜、あなた何人に話したの。私、数えるのやめたんだけど」
「こ、ここ、細かいことを気にするな! え、英雄譚は誰だって聞きたいはずだ!」
「……ネネも、朝からギルドで報告書を書きながら、周りの冒険者たちに全部話してたわよ。目を輝かせながら」
俺はその光景を想像し、エルメスの顔で苦笑した。
「……皆さん、大げさですわ」
「お、大げさではない」
ガストンが、今度は静かな声で言った。
「AAAクラスを相手に前に出て、重力檻と蒼炎貫通をぶっ放した令嬢の話だ。まったくもって大げさではない」
俺は何も言えなかった。
エルメスの顔で、ただ前を向いていた。
大通りのあちこちから、声が聞こえてくる。
「魔王になりえたモンスターを倒したらしいぞ!」
「エルメス嬢って、あの追放令嬢か?」
「紅蓮を助けたんだってよ! あの紅蓮を!」
……英雄化計画。
失敗したとばかり思っていたのに、まさかこんな形で成功するとは。
当初の計画通りというわけではないが、結果オーライということか。
「……悪くありませんわね」
俺はエルメスの口を動かし、できるだけ涼しい顔で言った。
シャネルが隣で小さく笑った。その笑い方が少し気に入らなかったが、否定もできなかった。
◆
昼過ぎ、ギルドから使いが来た。
受付にセリーヌが立っていた。いつもの涼しい顔で書類を差し出してくる。
「お二人に通達です」
お二人、という言葉に、俺は隣のシャネルとちらりと目を合わせた。
「今回のダンジョン攻略における戦績を鑑み、ギルドより正式に冒険者ランクの昇格が認定されました」
セリーヌが、書類を読み上げる。
「エルメス=バーキン、シャネル=ココハンドル、ともにBランクへの昇格です」
シャネルが、わずかに目を見開いた。
「……Bランク」
「おめでとうございます」
セリーヌが珍しく、ほんの少しだけ微笑んだ。
「お二人とも、ご活躍でしたから」
俺は書類を受け取りながら、内心で静かに息をついた。
Bランク。
正直冒険者ランクのことは気にしたことがなかったが、エルメス英雄化計画には、確かに冒険者ランクは高い方がいい。
ここは、素直に昇格されておくとしよう。
「当然の結果ですわね」
俺はエルメスなりの礼を述べる。
「あなたも、良かったですわね」
朝焼けの翼が到達することのなかったBランクに、シャネルは到達した。
「……エルメスも」
シャネルが短く返した。いつもの無愛想な声だったが、耳の先がかすかに赤かった。
俺はそれを見て、少しだけ笑った。エルメスの顔で、こっそりと。
◆
街はまだ、祭りの熱が残っていた。
大通りを歩けば、あちこちから声が聞こえる。アラクネクイーンの話。ダンジョンが消えた話。そして、エルメスの話。
計画通りとは言えない。むしろ計画はほぼ崩壊した。それでも転がり込んできた結果を、俺はしっかりと両手で受け取った。
……次だ。
英雄化計画の第一段階は、思いがけない形で完了した。
問題は依然として山積みだ。
だが。
今だけは、この街の喧騒の中に、少しだけいさせてくれ。
俺はエルメスの目で、青い空を見上げた。
……悪くない。




