第19話 悪魔な来訪者
翌朝。
俺は弾力のあるソファの上で意識を浮上させた。
昨夜の戦いの疲れと、寄生虫から絶え間なく逆流してくるシャネルの沈んだ感情――そのノイズのせいで、脳が重い鉛のように熱い。
だが、日課となっているダンジョン各所の「監視カメラ」の映像を脳内に投射した瞬間、その微睡みは一気に吹き飛んだ。
「……っ、おい。起きろ、兄弟!」
俺の声に、周囲で眠っていた兄弟たちが「もきゅ?」と顔を上げる。
俺は傍らに控えていた別の青パイセンに命じ、その体を変質させた。スライム状の肉体がうねり、やがて四角い箱型の――旧時代のブラウン管テレビのような形状へと固定される。
俺の脳内に浮かぶ監視映像を、電気信号として青パイセンへと流し込む。そうすることで、この場にいる全員に事態を把握させようとした。
「こ、こうか?」
芋虫族が使う特殊な周波数――信号の操作が、俺はどうも苦手だ。
ノイズ混じりの画面に映し出されたのは、一人の青年だった。
年齢は二十代そこそこに見えるが、纏っている雰囲気が決定的に人間ではない。装備らしい装備もなく、ただの軽装で、地獄のようなこの階層を散歩でもするかのように悠然と歩いてくる。
「なんなんだ、こいつ……!」
映像に映る男を見た瞬間、兄弟たちの反応が変わった。
昨日、あのアラクネクイーンを前にしてさえ「怯え」で済んでいた彼らが、今度は戦いの疲れも忘れて一斉に逃げ惑い、恐怖に震え尽くしている。動ける連中は、我先にとこの場から逃げていく。まるで猫を見た鼠のようである。
本能が、アラクネ以上の"絶対的な死"を察知しているのだろう。
「……来るぞ」
俺がソファの上で身構えるとほぼ同時に、青年は迷いのない足取りで俺たちのいる広間へと入ってきた。
ブラウン管の画面から抜け出してきたかのような実像。青年は、警戒して動けずにいる俺の前まで来ると、楽しげに膝を折ってしゃがみ込んだ。
そして、大仰な身振りで、一人拍手を始めた。
ぱちぱち、と。静まり返った広間に、乾いた音が響く。
「お初にお目にかかります、芋虫ボーイ。わたくしはヴァール! 昨日のボーイの戦い、非常に興味深く拝見させていただきましたよ、ハイ。実にワンダフォーでした! ハイ。 いや、本当にエクセレントォッ! いま一度、心から勇敢で、知恵ある芋虫ボーイに拍手を、ハイ」
男は立ち上がり、腰を折り、舞台役者のように深く一礼した。
「何なんだよお前、何者だ!」
俺の声に、ヴァールは顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
「わたくしはヴァァァァールッ! と申します。芋虫ボーイ。以後お見知りおきを」
ノリがわっかんねぇ。なんかヤバい薬でもやってんじゃねぇだろうな。
「……ボーイにも分かりやすく説明すると、このあたりのダンジョンを"管理"している――要はダンジョンマスターってやつですね、ハイ。言ってしまえばエリアマネージャーみたいなものですね、ハイ。あっ、ちなみに芋虫ボーイをこちらの世界に招待したのもわたくしなんですよ、ハイ」
「…………は? い、いまなんつったぁッ!?」
思考が一瞬、フリーズした。
招待? 俺を、この世界に?
「はい、ですから、芋虫ボーイの魂をこちらの世界に喚び寄せ、芋虫ボーイへと転生させたのは、何を隠そうこのわたくしなのですっ、ハイ」
「……」
「……ちらり。そこ、褒めるところですよ、芋虫ボーイ」
「て、てめぇがクソの元凶じゃねぇか!」
俺はソファから転げ落ちるように地べたを這った。
芋虫の体じゃなきゃ、今すぐ胸ぐらを掴み上げてやりたいところだ。
「元凶だなんて人聞きが悪いです! ハイ。 わたくしはチャンスを差し上げたのですよ、ハイ。死にゆく魂に、新たな生と……そう、これほどまでに面白い『芋虫ライフ』をね! ハイ」
ヴァールは再びしゃがみ込み、俺の目の前で細長い指を突き出した。
「アラクネに勝つ芋虫なんて、わたくしも初めて見ましたよ、ハイ。本来なら即座にリタイア、バッドエンド確定の個体だったはずなのに。……日本人の転生者は本当に愉快。実にエクセレントォッ! 素晴らしいですよ、ハイ。中身が冴えない"おっさん"とは思えないほどです、ハイ。やはり地球の日本人は転生者向きなんですかね? ハイ どう思います? ハイ」
「知るかよッ!」
ハイハイうるせぇ野郎だな。てめぇは赤子かっ!
「芋虫は、これまでで最も弱く間抜けな個体だったんですけどね、ハイ。年の功と言うやつですかね? ……いえいえ、たかだか五十年しか生きていないのに、年の功もあったものではありませんよね、ハイ」
純粋な好奇心が、冷酷な光を帯びて俺を貫く。
こいつにとって、俺の苦労も、アサヤケの惨劇も、すべては「面白いかどうか」のデータに過ぎないってことかよ。
「……ふざけんなよッ! 俺を、こんな体にして……玩具みてぇに扱いやがって! どうしてくれんだよ! 元に戻せよッ! 今すぐに人間にしろ!」
「オーゥ、怖い怖い。お怒りですか、ハイ。でもボーイ、感謝してほしいくらいですよ」
「は? こんな体にされて、何が感謝しろだッ! こっちは芋虫だぞ! 寝言は寝てから言いやがれッ!」
「でも、わたくしが拾い上げなければ、ボーイの魂は今頃地獄でしたよ、ハイ」
「……え?」
地獄? 俺が? 天国じゃなくて、地獄行きだったの?
「ご存知とは思いますが、人間の魂は死後、天界へと送られます、ハイ」
……いや、知らねぇよ。知るわけねぇだろ! 何さらっとトンデモ発言してくれてんだよ!!
「ボーイは、生前、とても沢山の命を手にかけてきましたね、ハイ」
「ちょっと待て! 俺は人殺しなんてしてねぇぞ! 真っ当な市民として生きてきたんだ! 嘘じゃねぇからなッ!」
「いえ、ボーイは確かにこれまでに、一万四千六百八十四の命を自らの意思で手にかけてきたのです、ハイ」
「そんなことしてるわけねぇだろ! どんなイカれた殺人鬼だよ!」
「本当に覚えていないので?」
「知らねぇもんは知らねぇよ」
「四肢を引きちぎり、笑顔で殺めてきた命をまったく覚えていない?」
四肢を引きちぎり、笑顔で……人間を? いや、俺はそんなことしていない。断言できる。
じゃあ何だ。動物か? いや、ペットを飼ったことはあるが、虐待なんてしていない。
では――虫は?
一万四千六百八十四。
「……」
心当たりがある。あり過ぎる。
しかし……そんなに、か。
脳の奥で、何かが軋んだ。意識したことなんて一度もなかった。当然だ。そんなつもりすら、なかったから。
「あ、あの、その……俺が殺めた命ってのは……えーと、虫のことも入ったりするのかな? ……例えばコオロギとか」
「当然です、ハイ。命に人間も虫も、上も下もありません、ハイ」
目の前の男は、さも当たり前のことのように、三日月のような笑みを深めた。
「母ちゃんの言ってたことは……本当だったのかよ」
脳裏に、虫かごを覗き込みながら俺を蔑んでいた母親の顔が浮かぶ。
あの時、カマキリの餌にするために、何の躊躇もなくコオロギの脚をもぎ取っていた。
あの感触。あの光景。それが今、この世界で俺自身の「業」として牙を剥いている。
「……っ、あ、あぁ……くそっ、こんな時に何なんだよッ」
不意に、脳を焼くような痛みが走った。
シャネルの絶望が、寄生虫を通じてノイズとなり、俺の意識をかき回す。タイミングが悪すぎる。目の前の悪魔と対峙している時に、このノイズは致命的だ。
「オーゥ、お辛そうですね、ハイ。寄生虫が悲鳴を上げていますよ、ハイ。これではお話もままなりませんねぇ」
ヴァールが、まるで見苦しいものを見るような目で俺を見下ろし、パチン、と指を鳴らした。
「へ?」
――静寂。
あれほど脳を掻きむしっていたシャネルの慟哭が、嘘のように遠のいた。
消えたわけじゃない。分厚い防音ガラスの向こう側に追いやられたような、奇妙な静けさだ。
助かった、と思った。
が――すぐに背筋が冷えた。
こいつは今、指一本で俺の寄生虫に干渉した。シャネルの感情を、俺ごと制御した。それがどれほどの力の差を意味するか、考えるまでもない。
逆らえば、どうなる?
その答えは、芋虫たちが逃げ惑った光景が、すでに教えてくれていた。
「……何をした」
「ちょっとしたボリューム調整ですよ、ハイ。借金まみれのボーイには、福利厚生も必要でしょう? ハイ。……さて、静かになったところで。改めて『お仕事』の話をしましょうか、ハイ」
ヴァールは俺の目の前で、細長い指を三本立てた。
「安く買い叩いた魂ですが、アラクネクイーンに打ち勝ったボーイを、このまま放置しておくのはもったいないと考えたのです、ハイ。……ズバリ言いましょう。ボーイ、あなたには『世界の王』になってもらいまーす! ハイ!」
「……はあ? 世界の王? 何言ってんだてめぇ」
「オーゥ、謙遜しないでください! ハイ。この世界を牛耳る魔王……その座に君臨すれば、人間に戻るなんて朝飯前ですよ、ハイ。どうです? やる気、出てきませんか?」
「……」
「おっと、もし『面倒くさい』なんて顔をするなら、即座に契約解除……魂のクーリングオフを執行しまーす、ハイ。わたくしも暇ではありません。使えない駒はさっさと地獄へ返品して、次の転生者ガチャを回すだけですからね、ハイ。……さあ、地獄でコオロギに逆襲されるか、世界の王を目指すか。選ぶのはボーイ、あなたです! ハイ!」




