第17話 芋虫VS蜘蛛 その3
「行くぞ、二人とも!」
アラクネクイーンを前に、俺は声を張り上げた。
睨み合いは悪手だ。時間を与えれば与えるほど、あいつの土俵に引きずり込まれる。
「シャネル、左から回り込め! エルメスは正面から撃ち続けろ! 注意を引きつけるんだ!」
「……分かった」
「撃ち続ければいいんですのね」
シャネルの気配が消える。エルメスの詠唱が空気を震わせる。
そして――
「サンダーボルトッ!」
閃光が一直線に走り、アラクネクイーンの胴を正確に撃ち抜いた。轟音。弾ける雷光。さっきまでのアラクネなら、確実に吹き飛んでいた威力だ。
だが。
「……くすぐったいわね」
ほんのわずか、眉が動いただけだった。
「っ……!」
エルメスの呼吸が、わずかに乱れる。
次の瞬間、左の死角から三本の矢が滑り込んだ。首筋、脇腹、膝裏――急所を寸分違わず射抜く軌道。
アラクネクイーンは振り返りもしない。腕を軽く振る。それだけで、糸が矢を絡め取り、空中に縫い止めた。
「……ッ」
シャネルの息を呑む気配が伝わってくる。
「面白い動きをするじゃない」
ゆっくりと、視線だけが横へ滑る。
「でも――遅い」
糸が弾けた。絡め取った矢が反転し、今度はシャネルへと牙を剥く。
「くっ!」
紙一重で躱す。だが一本が腕を掠めた。血が細く散る。
「シャネル!」
「問題ない」
足運びが、ほんの僅かに鈍っている。
エルメスが追撃を叩き込む。間断なく、連続で。雷光、爆ぜる魔力、圧縮された衝撃。だがアラクネクイーンは避けない。薄く展開された魔力の膜が、すべてを受け止め霧散させる。
「魔法使いとしては及第点ね」
興味を失ったように呟く。
「でも――"観察対象"としては、もう十分かしら」
じわじわと、押し込まれていく。エルメスの詠唱が荒れ、魔力の収束が甘くなる。シャネルの動きも翳り始めた。足の置き方が半拍ずれるたびに、被弾のリスクが跳ね上がっていく。
それでもアラクネクイーンには、傷一つつかない。
五分。たったそれだけの時間で、戦況は完全に詰みへと近づいていた。
「そろそろ飽きてきたわ」
指先が、ほんの僅かに動く。
それだけだった。
ざわ、と空気が変わる。俺の支配下にあるはずの芋虫たちが、一斉に動きを止めた。命令を無視したわけじゃない。そもそも命令を受け取る状態ですらない。本能が、強制的に体を伏せさせている。
「……っ」
繋がりが、断ち切られている。積み上げてきたものが、指一本の動作で踏み潰された。
「もう、いいわね。……つまらない」
アラクネクイーンが歩き出す。ゆっくりと、確実に。
このままでは終わる。間違いなく、全滅だ。
「シャネル」
静かに呼ぶ。肉体ではなく、その奥に残っているはずの意識へ向けて。
「……なに」
「一個、謝っておかないといけないことがある」
動きが、わずかに止まった。
「……何をするつもり?」
俺は答えず、意識を内側へ潜らせる。赤パイセンの胃の奥。ずっと温存していた"それ"は、腐敗が進み限界に近い。使えるのは、もう一度きりだ。
「ごめんな、シャネル」
芋虫たちはもう動けない。アラクネクイーンの圧に、本能が完全に屈服している。指示を出しても届かない。ならば、俺が直接動くしかない。
俺は意識を、近くで伏せていた一匹の赤パイセンへと移した。その体を動かし、這い出る。本体の隣まで移動し――腹の底から、それを押し出した。
ぐちゃり、と湿った音が鳴った。
赤パイセンの口内から、何かが這い出てくる。人の形をしている。だが、人ではない。肌の色が違う。繋ぎ目がある。腕の長さが合っていない。首の角度が、あり得ない方向へ歪んでいる。
五つの死体を無理やり繋ぎ合わせた、歪な一体。
「……ぁ」
喉が鳴る。
朝焼けの翼――マルジェル、ルーベリオン、セシリカ、ダッチ、ユグルド。その成れの果てを継ぎ接ぎにして作り上げたもの。対冒険者用に仕込んでいた、最後の兵器。
「……すまん」
視線を向ける。
シャネルは、無表情のまま立っている。
だが――涙が、頬を伝っていた。
叫ぼうとしているのかもしれない。だが寄生虫が、その声帯すら許さない。流れる涙だけが、内側にいる彼女の唯一の叫びだった。
寄生によって意識は封じているはずだ。今ここにいるのは俺の操る個体のはず。それでも、内側でまだ見ているのかもしれない。全部。だから、本当は見せたくなかった。
「……行くぞ」
口ではそう言いながら、触手はすでに動いていた。迷いも躊躇いも、そこには一切ない。生き残るために必要な手を、ただ最短で打つだけだ。
俺は最後の手札――アサヤケへ、命令を下した。
◆
「――――ッ」
アサヤケが、動いた。
踏み込みは軽い。だが次の瞬間、間合いが消える。ルーベリオンの脚力でアラクネクイーンの懐へ滑り込み、片手剣を最短距離で振り抜く。振りかぶりもない。
「速いわね。でも――」
糸が走る。刃のように張り巡らされた線が、進路を塞ぐ。
避けない。正面から突っ込む。
肩口から腕にかけて深く裂け、胴にも走る。骨が見えるほどの傷だ。だが止まらない。むしろ踏み込みが深くなる。千切れかけた腕で剣を振り抜く。マルジェルの火力が、防御越しに叩き込まれた。
「……なに、それ」
アラクネクイーンの声が、わずかに揺れる。
今度は絡みつく糸が胴と脚を締め上げる。だが肉が内側から蠢いた。セシリカの回復が拘束の最中に走り、裂けた箇所が繋がっていく。同時に体勢を無理やり捻る。通常なら骨が折れる角度。だがダッチの耐久がそれを成立させる。
糸を足場にして、さらに一歩踏み込む。距離が消える。剣が至近で振り抜かれた。
「……っ」
衝撃が通る。アラクネクイーンの体が、ほんの僅かに後ろへ揺れた。
間髪入れず、アサヤケが消える。後方へ跳んだのではない。途中で軌道が変わる。重心移動が不自然に切り替わる。次の瞬間には、背後にいる。
振り向くより早く、二撃目。横薙ぎの一閃。さらに三撃目。斬撃の軌道が途中で変わる。人間の剣筋じゃない。だが、すべてが最適解だ。
「気持ち悪いわね、それ」
アラクネクイーンの視線が細くなる。空間が軋む。広範囲に糸が展開される。
アサヤケは退かない。踏み込む。無数の糸が体を切り刻む。脚が断たれ、片腕が飛ぶ。血と肉片が散る。それでも止まらない。残った脚で無理やり跳び、着地の衝撃で肉がさらに裂けても構わず前へ出る。再生が走る。動くために必要な箇所だけを優先して繋ぎ直しながら、前へ。
そのとき、アサヤケの口が不自然に開いた。
声が、重なる。
「――そこ」「――まだいける」「――耐えろ」「――癒す」「――斬れ」
同時に加速する。詠唱はない。だが剣に魔力が乗る。ユグルドの強化が振り抜きと完全に同期し、踏み込み、斬撃、加速、再生、防御――すべてが一拍のズレもなく重なった。
次の一撃が、これまでで最も深く入った。
アラクネクイーンが、初めて後ろへ下がった。明確な後退。
「……そういうこと」
低く呟く。
「人間を繋ぎ合わせている。一体で複数の動きを同時に行う。……イかれてるわね」
口元が歪む。
「面白いじゃない」
空気が、さらに重くなる。だが――均衡が崩れたのは確かだった。
張り巡らされた糸が、ただの障害ではなく"殺意そのもの"へと変わる。密度が違う。鋭さが違う。空間そのものが刃になったかのように、踏み込めばその分だけ削り取られる。
だが――アサヤケは止まらない。
いや、止まれない。
すでに限界は越えている。再生は追いついていない。繋ぎ合わせた肉体の各所が、動くたびに悲鳴を上げている。それでも踏み込む。躱さない。避ければ崩れる。ならば前へ出るしかない。
糸が肩を裂き、腹を抉り、脚を断つ。
それでも一歩。
肉が裂ける音と同時に、内側から無理やり繋ぎ直す。完全な再生ではない。動くために必要な最低限だけを優先し、他を切り捨てる。歪な最適化。それでも前に出る。
「……っ、いい加減に――」
アラクネクイーンが腕を振るう。
空間を埋め尽くす糸の奔流。
回避不能。
だがアサヤケは、そのまま踏み込んだ。
全身が切り刻まれる。皮膚が裂け、筋肉が断たれ、骨が露出する。それでも速度は落ちない。むしろ加速する。すべてを代償にした踏み込み。
そのまま――抱きつくように、アラクネクイーンへと突っ込んだ。
「――なに?」
初めて、明確な困惑が浮かぶ。
アサヤケの腕が回る。千切れかけの腕で、それでも強引に絡みつく。脚は半ば崩れながらも、絡みつくように支点を作る。体の内部から、まだ使える筋繊維を引きずり出し、無理やり固定する。
糸がさらに食い込む。拘束しようとする力と、拘束し返す力がぶつかり合う。
アサヤケの肉体が、音を立てて崩れ始める。
だが――離さない。
「――シャネル!」
叫ぶ。
応答はない。だが――気配は、ある。
揺れている。迷っている。見ている。
全部を。
「撃て」
短く、押し切る。
「今だ」
だが――動かない。
シャネルの弓が、震えている。矢を番えたまま、引き絞れない。当然だ。目の前にいるのは、仲間だった者たちの成れの果てだ。
その一瞬の躊躇が、致命的だった。
アラクネクイーンが、拘束を引き剥がし始める。
アサヤケの腕が軋む。千切れかけの筋肉が、限界を超えて引き伸ばされる。それでも離さない。だが、じりじりと押し返されていく。
「離れなさいと言ったわ」
低く、冷たい声。
糸が爆ぜる。アサヤケの胴が深く裂ける。骨が露出し、内側が見える。それでも腕だけは離さない。
だが――限界だ。
あと一息で、拘束が解ける。
「シャネル!」
もう一度、叫ぶ。
今度は命令じゃない。
懇願だ。
ほんの一瞬の静寂。
シャネルの瞳が、変わった。
魔力が灯る。あれは千里眼だ。
何かを、見ている。
アサヤケに拘束され続けたアラクネクイーンの体のどこかを、俺には見えない何かを、正確に射抜こうとしている。
震えが、消えた。
次の瞬間、空気が裂けた。
一矢。
それだけが、まっすぐに走った。
無駄のない軌道。迷いを削ぎ落とした結果としての直線。すべてを見た上で、それでも選んだ一撃。
アラクネクイーンの視線が、わずかに動く。
だが遅い。
矢は、その中心を正確に射抜いた。
「――ぁ」
かすかな、声。
だが――倒れない。
アラクネクイーンの体が揺れる。膝をつきかける。それでも、残った力を振り絞るように、視線がシャネルへと向いた。
「……道連れに、してあげるわ」
最後の糸が走る。
シャネルへ向かって、一直線に。
その瞬間。
アサヤケが、動いた。
もう、ほとんど形を保っていない。片腕は飛び、脚は半ば崩れている。それでも、残った体を投げ出すように、シャネルの前へ出た。
糸が、アサヤケの胴を貫いた。
ずぶり、と音がした。
それでもアサヤケは、倒れなかった。
シャネルを背に、ただそこに立っていた。
「……なに、それ」
アラクネクイーンの声が、初めて揺れた。怒りでも嘲りでもない。純粋な、困惑だった。
「死体が、庇うの?」
答えはなかった。
ただ――
「――終わりですわ」
冷たい声が、静寂を切り裂いた。
エルメスが杖を向ける。詠唱はない。魔力だけが、静かに収束していく。
「サンダーボルト」
閃光が走った。
轟音もなく、ただ真っすぐに。
アラクネクイーンの体が、光の中に倒れていく。
静寂が戻る。
アサヤケは、その場に立っていた。
もう、ほとんど形を保っていない。繋ぎ合わせた肉は限界を超え、崩壊を始めている。それでも、わずかに顔を上げた。
視線の先に、シャネルがいる。
弓を構えたまま、動けずにいる。
涙が、頬を伝っていた。
アサヤケの口元が、僅かに動く。
それが意思によるものかどうかは、分からない。
歪に繋ぎ合わされた顔の、その一部が――笑ったように見えた。
次の瞬間、崩れた。
アサヤケの体が、音もなく崩壊していく。内側から焼け落ちるように、灰へと変わっていく。繋ぎ止めていた何かが、完全に尽きたのだと分かる。
崩れ落ちるその最後まで、視線だけは外れなかった。
やがて、それも消えた。
最後の瞬間、俺には見えないはずのものが見えた気がした。
五つの影。
はっきりとした輪郭はない。ただ、そこにいた。灰になっていく中で、それぞれが別々の方向を向いていた。
――仲間の元へ、帰ろうとしていたのかもしれない。
分からない。分からないが。
その瞬間、意識の端で何かが千切れるような感覚があった。痛みとは違う。ただ、何かが終わったのだと、それだけがわかった。
エルメスは何も言わなかった。焦げた杖を握ったまま、ただ戦場を見つめていた。あの毒舌が、今だけは出てこない。
あとに残ったのは、灰と、沈黙だけだった。




