第13話 5人目
「まずは、自然な形でマイレディーと接触する必要がある」
そのためには、情報だ。
俺はここ数日、ハミルトンを動かし、クロエ=パディントンについて徹底的に調べ上げた。
分かったことは二つ。
一つ――貧困街で謎の病が流行していること。クロエちゃんは、金のない連中のために無償で治療にあたっている。
脳裏に、以前シャネル越しに見た光景がよぎる。
あの異様な人だかり――あれがそうか。
二つ目――クロエが毒の密売人と接触していること。
この国では禁じられている代物だが、あのクロエちゃんが私利私欲で扱うとは思えない。おそらくは薬の研究用だろう。
猛毒も使い方次第で薬になるとは、珍しくない話だ。
「……なら、話は早い」
◆
貧困街。
空気が違う。淀んでいる――そう言い換えたほうが正確だろう。
「さて……僕のマイレディーはどこかな?」
歩いてすぐ、不自然な人だかりを見つけた。顔色の悪い連中ばかりだ。
血を吐く者、足を引きずる者、包帯の隙間から滲む赤。
中心にいるのは――
「……見つけた」
東洋系の顔立ちに、ゆったりとした漢服。
間違いない。
クロエ=パディントンだ。
そして――俺を拒んだ、最初の女でもある。
「そこのハニー、少しいいかな?」
だがクロエは一瞥しただけで、すぐに患者へ視線を戻した。
「……患者なら並んでくださいです」
「残念ながら違う。商談に来た」
「ならお引き取りを。今は忙しいです」
即切り捨て。取り付く島もない。
「そう言わずに。僕はこう見えても有能な商人でね」
「押し売りなら間に合っているです」
「安心してくれ。僕はホルプスみたいに法外な請求はしない」
「……今、誰の名前を出したです?」
止まった。
ようやく、こちらを見る。
「さあ、誰のことだろうね」
一瞬の沈黙。
「……あなた、何者です?」
「しがない商人さ。少なくとも、君の敵ではない」
その一言で、周囲の空気が変わった。
「……捕まえに来たわけじゃない、です?」
周囲の連中が、一斉にこちらへ寄ってくる。
「おい、何しに来やがった」
「ちっちぇ先生に手ぇ出すなら――分かってんだろうな?」
囲まれた。
にしてもこのロリっ娘、貧困街の連中から相当好かれているようだな。
「誤解だ。僕は商売の話をしに来ただけだ」
両手を軽く上げ、敵意がないことを示す。
「……商売?」
クロエが一歩前に出る。
「近頃、妙な病が流行っているらしいね。広がれば、この街だけの問題じゃ済まない」
クロエは否定しない。
「なら――薬を作れば、相当な金になる」
「……お金、ですか」
「そう。これは"善意"じゃない。"投資"だ」
「気に入らねぇな」
「人の命で儲ける気かよ」
「絵に描いたようなクソ野郎だな。先生、こんな奴の話なんざ聞く必要ねぇぞ」
やかましいわ!
優秀な経営者の鑑と言え! そんなだから貴様らは貧困街から脱出できねぇんだよ。
クロエだけを見る。
「興味ないです」
即答か。
ま、だろうな。
日本の近代医学の父、北里柴三郎みたいな生き方をしているロリっ娘が、こんな儲け話に乗ってこないことくらい百も承知だ。
「……なら質問を変えよう」
一歩、踏み込む。
「ハニー、行き詰まっているだろう?」
「……」
「隠さなくてもいい。だからこそ、ホルプスに頼った。違うかい?」
わずかに、指先が止まる。
「……だったらなんです」
「資金を出す。材料も揃える――表に出せないものも含めてね」
「……ずいぶんと都合のいい話です」
「その代わり、完成した薬の権利は僕がもらう。当然だろう? これは慈善事業じゃない」
「失敗したら、どうするです?」
「損をするのは僕だ」
「……私が途中で逃げたら?」
「その時は見る目がなかったと諦めるさ」
少しの間、視線がぶつかる。
「……本気、ですか」
「商人は常に本気だよ、ハニー」
クロエは小さく息を吐いた。
「……条件があります」
「聞こう」
「この人たちを優先すること。外で売るのは、その後です」
「いいだろう」
「それと――治療内容に口出しはさせないです」
「餅は餅屋というだろ? 専門外に口は出さない主義でね」
「……分かりました。協力するです」
交渉成立。
これで第一段階、彼女との接触は成功だ。
「……」
クロエが手を差し出す。
「握手、です」
――さて。
触れて大丈夫なのかな? あの護符が発動したら洒落にならない。
またあれを喰らうのは御免だぞ。
「どうかしました?」
「いや、その、なんだ……えー……と」
「あ、そうですね。接触感染の可能性があるです。不用意でした」
「……ああ、助かるよ」
内心で息を吐く。
ふうー、なんとかなった。
◆
クロエ=パディントンとの商談を成立させてから、数日が経過した。
その間に俺がやったことは単純だ。
献身的にロリっ娘に尽くし、治療薬の材料になりそうな物を貢ぎ続けること。パトロンとして信用を得ることに全力を尽くしていた。
だというのに。
「くそっ! なんであそこまで警戒してくるんだよ!」
モニター越しからでも分かる。
クロエは明らかにハミルトンを警戒している。
しかも最近では、護符をネックレスのように首からぶら下げたままだ。一度外させるために高級な衣服を贈ってみたが、「動きにくい」の一言で突き返された。
それならばと、シャネルを使って湯浴みの隙を突くことも計画したが――なんと湯浴みの際にも護符を外さなかった。
思いきって理由を尋ねてみると、神官様に肌身離さずつけておくように言われたんだと。
「どこの神官だよ! くそったれぇッ!」
こうなれば、神官以上の信用を勝ち取り、護符をあちらから外させるしかない。そのためにはまず、周囲から固める必要がある。
◆
「やあ、ドブネズミくんじゃなくて……ドミネスくんだったか。体の調子はどうだい?」
「誰がドブネズミだぁッ! てめぇ喧嘩売ってんのか! いっ……」
「ほら、興奮するな。傷が開いてる」
「誰のせいだ!」
軽く肩をすくめる。
しかし――相変わらず妙な病だな。
古傷が開いたり、軽くぶつけただけで皮膚が裂けるとは。
「……また痣、増えてないか?」
「ああ……まあな」
歯切れが悪い。
「その歯、どうした」
「抜けたんだよ」
「抜けた?」
そういえば、近頃貧困街の人たちの歯がよく抜け落ちると、クロエが言っていた。てっきり年配の話だと思っていたが。
「歳はいくつだ」
「たぶん十四」
十四で歯が抜ける?
「虫歯だったのか」
「わっかんねぇ」
わっかんねぇ、か。阿呆だな。まあ学校に行ってないならこんなもんか。
貧困街で流行している病の症状を整理すると――倦怠感、歯茎からの出血、皮膚の内出血、治らない傷、軽くぶつかっただけで皮膚が裂ける、昔の傷跡が開く、そして歯が落ちる。
「……う〜ん、感染症ならとっくに外に広がってるはずなんだけどな」
だが、症状が出ているのは貧困街の連中だけ。
同じ街に住む人々には起きていない。
「感染じゃないのか……?」
◆
考えながら歩いていると、ひときわ元気な子供が目に入った。
今のこの街で、その健康さは異質だ。
「少しいいか」
「なんだ、おっさん」
「お兄さんな?」
ぶん殴るぞくそガキ。
自分でおっさんと自称するのはいい。だが人から言われると異常に腹立たしいのはなんでなんだろう。今の俺はハミルトン。歳は二十四。普通にお兄さんだろ。
「わ、悪かったよ、お兄さん」
「わかってくれればいい。それより、君は随分元気そうだな」
「ん……ああ、みんな変な病気になってるもんな」
「君はどこも悪くないのか?」
「うん。俺は平気」
「ちなみにどこへ行くんだ」
「飯を取りに行くんだ」
「……飯を取る?」
「おっさんじゃなくて、お兄さんも食うもんないのか? なら来いよ。少しくらいなら分けてやる」
気になり、後をついていく。
辿り着いたのは、街の外――森の中だった。
「これ、知ってるか?」
差し出されたのは、ただの草だ。
「煮たら結構美味いんだ。こっちのは歯ごたえもあってさ。母ちゃんのお気に入り」
「ひとつ聞いてもいいか」
「ん、なに?」
「それ、いつから食べてる?」
「昔からだけど」
「家族みんな食べてるのか?」
「ああ、みんな食ってるよ」
「ちなみに、家族は全員元気なのか?」
「ったり前だろ」
――確信した。
すべての点と点が繋がった。
こいつは貧困街を救う英雄かもしれん。
「……そういうことか」
◆
俺はクロエのもとへ急いだ。
「ハニー!」
「……ハミルトンさん?」
振り向いた彼女の顔には、隠しきれない疲労が滲んでいる。目の下の隈、乾いた唇。寝ていないのは明らかだった。
「原因が分かった」
「……本当ですか?」
かすれた声。
それでも、その瞳にはわずかな希望が宿る。
「嘘は言わない。君には特にね」
「……それで、原因は?」
「食事だ」
「……はい?」
パチクリと睫毛を鳴らして、固まってしまった。
「そんなわけないじゃないですか! 私を誂うのも大概にしてくださいです!」
「大真面目だ。"壊血病"だよ」
「……壊血病? 聞いたことない病名です」
「ビタミンC――コラーゲンを作るのに必要な栄養が極端に不足している状態のことだ」
「コラーゲン……?」
まあ、そうなるよな。
この世界にはビタミンという概念そのものがないのか。
「体の全タンパク質の約30%を占める繊維状の物質で、皮膚・骨・血管・軟骨を構成し、細胞同士をつなぐ接着剤のような役割を持っている。それが足りなくなると――体のあらゆる部分が"崩れ"はじめる」
症状を思い出せ。
血が止まらない。傷が治らない。歯が抜ける。
「……それが、食事とどう関係するです?」
「貧困街の食事はパンと粥と安い肉が中心だろう。ビタミンCがほぼゼロの食事内容だ。野菜は高騰すれば真っ先に口から消える」
「……でも、感染しているんじゃ……」
「感染しているなら、外の街にも広がっているはずだ。違うか?」
クロエは俯く。図星か。
「一つ聞く。森で草を食っている連中がいるのを知っているか?」
「……え?」
「そいつらは元気だ。同じ貧困街に住んでいて、同じ空気を吸っているのに」
「……違いは……食事、です?」
「そういうことだ」
沈黙が落ちた。
「……証明できるです?」
顔を上げる。
いい目だ。
「できるさ」
◆
その日のうちに数人を集め、森で採れた山菜を食べさせる。クロエは、その様子をじっと見ていた。
一日目。変化なし。
二日目。わずかに出血が減る。
「……止まってる?」
三日目。
「おい、傷が……閉じてるぞ……」
ざわめきが広がる。クロエは、言葉を失っていた。
「な?」
「……薬じゃなく、食事で……」
「そうだ。ハニーの治療で傷は一時的に塞がる。だがすぐに開いていただろう?」
「……っ」
「それは、体そのものが崩れていたからだ。血管も、皮膚も、歯茎も」
「……」
クロエは俯いたまま、動かない。やがて、かすかに肩が揺れた。
「私……気づけなかったです……目の前で苦しんでいる人たちがいたのに……」
「――折れるな! 君は医者だ。料理人じゃない。栄養面については専門外だろう」
「でも――」
「ずっと診続けていたのはハニーだ。僕は原因を見つけただけで、延命させていたのは間違いなくハニーだよ」
「……ありがとうございます、です」
その目には、はっきりとした信頼が宿っていた。
◆
それから数日後、壊血病の症状に苦しんでいた人々は、すっかり元気になっていた。
ところが、一人だけ冴えない顔をしている者がいる。クロエである。
浮かない表情の理由を尋ねると、
「たくさん支援してもらったのに、特効薬はできなかったです」
ああ、そのことか。クロエと接触するための口実に過ぎなかったので、正直忘れていた。
「なら、一つ頼みがある」
「なんです? 私にできることなら何でも言うです」
「これを着てくれないか」
差し出したのは、以前断られたドレスだ。
「……そんなことでいいです?」
「ハニーのドレス姿が見れるなら、それに勝る喜びはないよ」
クロエは一瞬だけ迷うように視線を伏せ、それから小さく頷いた。
◆
「……ど、どうです? こういうドレスは着慣れないので、恥ずかしいです」
現れたクロエの姿に、思わず息を呑む。飾り気のない日常しか知らない少女が初めて纏う上質な布は、その違和感すら彼女を引き立てていた。
「完璧だ。ビューティフォー! エクセレント!!」
「そ、そんなに褒められると困るです……」
頬を染め、視線を泳がせる。
――いい流れだ。
「――だが」
「?」
「その護符は、少し野暮だな。せっかくのドレスに似合わない」
クロエの指が、首元に触れる。
無意識だったのか、それとも――分かっていて触れたのか。
「そう、です?」
「ああ。せっかくの美しさが台無しだ」
視線が揺れる。
ほんのわずかに、眉が寄った。
「……でも、これは……」
言いかけて、止まる。
脳裏に浮かんでいるのは、きっとあの神官の言葉だろう。
"肌身離さずつけていなさい"――そう言われていたはずだ。
クロエの指が、ぎゅっと護符を握る。外さない理由は、ある。むしろ、外す理由のほうがない。
「……無理にとは言わない」
あえて一歩引く。
「似合っているのは事実だ。ただ、もっと良くなると思っただけだよ」
それだけ言って、視線を外す。
沈黙。
選ばせる時間を、残す。
「……」
クロエは俯いたまま、動かない。指先だけが、わずかに震えている。
「……ハミルトンさんは」
小さな声。
「私のこと、助けてくれたです。原因も分からなかった病気を……止めてくれたです」
「……」
「私、あの時……もう、どうしたらいいか分からなかったです」
ぽつり、ぽつりと落ちる言葉。顔は上げないまま、続ける。
「……だから」
一度、言葉が途切れる。息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。
「ハミルトンさんのことは……信じてるです」
その一言で、すべてが決まる。
カチリ、と。小さな音。鎖が外れる。護符が、彼女の手の中に収まった。
「……少しくらいなら、大丈夫ですよね」
自分に言い聞かせるような、弱い声。それでも――笑おうとしている。
差し出すでもなく、ただ握ったまま。"完全には手放していない"その仕草が、逆に生々しい。
無防備な首元が、露わになる。
――勝った。
そう確信した、その瞬間。
「ハミルトンさん」
クロエが、まっすぐこちらを見た。
逃げない視線。どこまでも真っ直ぐで、疑いがない。
「……ありがとうございます」
小さく、けれどはっきりと。
「私……ずっと怖かったです。原因も分からない病気で、みんな苦しんでて……私、薬師なのに、何もできなくて……」
言葉が、ゆっくりと染み込んでくる。
「でも、ハミルトンさんが来てくれて」
一歩、こちらへ近づく。
無防備に。
「やっと……助けられたです」
その顔は、泣きそうで――それでも、笑っていた。
「だから……」
ほんのわずかに、手が止まる。
――理解しかける。
この感情の正体を。
この状況の意味を。
少女は何も知らない。騙されていることも、信頼が武器として使われていることも、この"ありがとう"が自分の首を差し出す合図になっていることも。
何ひとつ、知らない。
だが。
――やめろ。
これは予定通りだ。ただの工程。ここで止まる理由なんてない。
「どういたしまして、ハニー」
いつも通りの軽い声音で、その感情を塗り潰す。距離を詰める。
逃げない。逃げる理由が、彼女にはない。
それが――信頼だ。
「――あの」
何か言いかける唇に、触れる。
一瞬、体が強張る。
だが拒絶は来ない。
ほんのわずかに、戸惑いが混じるだけだ。
「……んン……?」
その隙間に、滑り込ませる。舌先。そして、見えない"それ"も一緒に。
一拍。遅れて。クロエの瞳が揺れた。
「……え……?」
違和感に気づいたのかもしれない。
だが遅い。
信頼は、すでに侵入経路になっている。
体が力を失い、ぐらりと傾いた。抱き留める。
――軽い。
こんなに軽い体で、あれだけの人間を支えていたのか。
「……ハミルトン、さん……?」
焦点の合わない瞳が、こちらを見上げる。理解しようとしている。
だが、思考が追いつかない。
「大丈夫。すぐ終わる」
優しく囁く。
それが、最後の安心材料になる。
まぶたが落ちる。抵抗は、ない。
あるのは――最後まで残った"信頼"だけだ。
完全に崩れ落ちた体を、静かに横たえる。
ほんの一瞬だけ、視線がその顔に残った。
穏やかな寝顔だった。
苦しんでいる人たちを助けようと奔走して、疲れ果てて、それでも笑おうとしていた少女が、今は何も知らずに眠っている。
「……さて」
わずかに間を置いて、口元を拭う。
侵食は順調。
内部への定着も問題なし。
「五体目」
淡々と告げる。
だが、その声はほんのわずかに低かった。
理由は――考えない。
「――クロエ=パディントン。攻略完了」




