ルーナの研究室
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兄が旅に出てから、もう三週間になった。
ルーナは研究室の窓辺に腰掛け、テセラ海を眺めていた。午後の光が海面を金色に染めている。微精霊が窓の外で渦を巻き、風に乗って大学の塔の間を飛んでいく。
穏やかな午後だった。論文の草稿が机の上に広がり、赤い墨でマグヌスの注釈がびっしりと書き込まれている。今日の注釈は特に厳しかった。
——「この概念の使い方が表面的だ。根本から理解し直せ」
ルーナは赤い墨の文字を指でなぞった。マグヌスの筆跡。力強く、しかし丁寧な文字。この文字が指し示す方向に進めば、必ず論文は良くなる。十六年間——それが一度も外れたことはなかった。
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午後の指導の時間。
マグヌスが研究室に来た。白い髭を撫でながら、ルーナの草稿を手に取る。窓辺の日差しが彼の横顔を照らし、皺の一本一本を浮かび上がらせた。
「微精霊の高度対話技術について、お前は『感応閾値』を中心概念に据えている。その着眼点は悪くない。だが——」
マグヌスが草稿のページをめくった。
「第三章の展開が急すぎる。ここで論じている『微精霊の自律的応答パターンと術者の意志の相互作用』は、お前の論文の最も独創的な部分だ。だが基盤となる先行研究の議論が薄い。読者は——なぜこの視点が新しいのかを理解できない」
「先行研究を追加すれば——」
「ただ追加するのではない。この概念を使え」
マグヌスが白紙を取り出した。
「感応閾値の三段階モデル」。微精霊の応答を三段階——受動的反応、能動的応答、自律的対話——に分けるフレームワーク。マグヌスはそれを十分もかけずに図式化し、各段階の区別基準と測定法を簡潔にまとめた。
ルーナは息を呑んだ。
この理論的フレームワークは——ルーナが三ヶ月かけても到達できなかったものだ。マグヌスは十分で描いた。
「これを先行研究の議論に組み込め。すると第三章の論旨が——」
「——自然に導かれる。そうか。三段階モデルを基盤にすれば、私の仮説は第三段階の中の特殊なケースとして位置づけられる」
「そうだ」
マグヌスが微笑んだ。
「お前の直感は正しい、ルーナ。私は構造を整えただけだ」
その言葉に、ルーナの胸が温かくなった。
同時に——痛みが差した。
——お師匠様がいなかったら、この論文は書けなかった。
テーマの着想、方法論の構築、先行研究の選定、理論的フレームワークの提供——全てにマグヌスの手が入っている。ルーナの「単著」論文は、実質的にマグヌスの知識なしには成立しない。
マグヌスはそれを「手を添えただけ」と言う。しかし事実として——構造を支えているのは、間違いなくこの人の学識だった。
「お師匠様」
「うん」
「この論文——お師匠様がいなかったら書けませんでした」
マグヌスが穏やかに言った。
「いいや。お前の才能だ。私は導いただけだよ」
優しい言葉だった。だがルーナには——この優しさこそが、依存を深めていることがわかっていた。わかっていて——抗えなかった。
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指導が終わった後、マグヌスが尋ねた。
「兄は元気にしているか」
「……旅に出たまま、なかなか帰ってきません」
ルーナは窓の外を見た。テセラ海の向こうに、兄がいる。どこかの遺跡を調べ、どこかの碑文を読んでいる。
「手紙は来ていますか」
「来ていない」
「そうか」
マグヌスは沈黙した。窓辺の光が彼の目を照らしたが——その目の奥に何が映っているかは、ルーナには読み取れなかった。
「兄さんが戻ったら——ちゃんと話したいんです。最近、何か抱え込んでるみたいで」
「そうだな。兄妹は支え合うものだ」
当たり前の言葉だった。だが妙に——響いた。マグヌスが「兄妹」と言った時の声の調子に、何か——ルーナには特定できないものが混じった気がした。
気のせいかもしれない。ルーナはそう思い、微精霊が集まる窓辺に視線を戻した。
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夜。
論文の執筆に集中しようとしたが、ペンが止まった。
兄の顔が浮かぶ。旅に出る前の——あの暗い目。何かを追い詰めようとしている狩人の目。あの兄さんは、昔の兄さんではない。何かが変わった。
でも——何が?
お師匠様は「見守れ」と言った。お師匠様がそう言うなら——。
ルーナは窓の外を見た。テセラ海の上に月が出ている。その光が海面を銀色に染め、微精霊が月光の中で踊っていた。
——兄さん、早く帰ってきて。
声に出さなかった。胸の中で、不安が静かに膨らんでいた。
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