嘘の輪郭
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アウレリウスが一時帰国のために去ってから三日後、マグヌスがカエルを研究室に呼んだ。
研究室は住居の奥にある。書斎とは別の、マグヌスが実験や本格的な研究に使う部屋だ。壁一面の本棚、中央の大きな作業机、棚に並んだ試薬瓶と計測器具。窓は一つだけで、重い遮光布がかかっている。
「座りなさい、カエル」
マグヌスの声はいつも通り穏やかだった。暖炉の火が小さく燃え、老師の白い髭を照らしている。
カエルは椅子に座った。
「ルーナが心配している」
「……ルーナが」
「お前は最近、何に没頭している?」
マグヌスの目が、静かにカエルを見ていた。暖かい目だ──十年間、一度も変わらなかった穏やかさ。
カエルは迷った。
全部を隠すか。一部だけ打ち明けるか。
一部だけにした。
「母さんの遺品の中に──暗号メモがありました」
「暗号メモ?」
「古代語で暗号化されています。子供の頃は読めなかったんですが──今の俺なら、部分的に解読できることに気づきました。それを読み解いています」
マグヌスの唇が引き結ばれ、手が机の上で──ほんの僅かに──強張った。
次の瞬間には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「──シルヴィアの研究メモか」
マグヌスの声は平静だった。暖炉の火を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「しかし、過去に囚われすぎるのは危険だ。お前は若い。未来に目を向けるべきだ」
「…………」
カエルは黙っていた。
見逃していない。
あの一瞬の凍り付きを。
十年間、マグヌスの下で暮らしてきた。師の表情も、声の調子も、手の動きも知り尽くしている。
「師匠」
「うん」
「母の研究内容を──ご存知なんですか?」
マグヌスは暖炉から視線をカエルに戻した。穏やかに微笑んでいた。
「概略はな。シルヴィアとは共同研究者だった時期がある。彼女が魔法理論に関心を持っていたことは知っている。だが──詳しいことは知らない。私の専門からは外れていたからな」
嘘だ。
カエルは確信した。
直感ではない。十年分の観察に裏打ちされた判断だった。
マグヌスは「暗号メモ」という言葉に反応した。存在を知っていた──あるいは、その中身に心当たりがあった。そうでなければ、あの一瞬の凍り付きは説明がつかない。
「共同研究者だった」のは事実だろう。だが「詳しいことは知らない」は嘘だ。
これで三度目だった。
鍵のかかった部屋の前での不自然な沈黙。「お前の母も、そう考えていた」と漏らした、ルーナへのあの言葉。そして今──暗号メモへの動揺。
三つの点が、線になろうとしていた。
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「わかりました、師匠。あまり深入りしないようにします」
カエルは穏やかに答えた。
嘘だった。
マグヌスが嘘をつくなら──カエルも嘘をつく。
「そうしなさい。ルーナを安心させてやれ」
「はい」
カエルは立ち上がり、研究室を出た。
廊下を歩きながら、頭の中で思考が回転していた。
母さんは、何かを知っていた。その何かを暗号にして隠した。マグヌスはその内容に心当たりがある。だが──教えようとしない。
なぜだ。
優しい師。十年間、カエルとルーナを育て、導いてくれた師。信頼してきた。今も──信頼したい。
だが──嘘は嘘だ。
カエルは自室に戻り、扉を閉めた。
机の引き出しから、母の遺品箱を取り出した。暗号メモの羊皮紙を広げ、蝋燭に火を灯した。
母さんの死の真相を──本格的に追う。
もう、誰にも頼らない。
蝋燭の炎が揺れ、暗号の文字を照らしていた。古代語の記号が、光と影の中で踊っている。
その向こうに──真実がある。
カエルはペンを取った。




