ルーナの日々
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兄さんがまた、人を助けた。
精霊暴走事件の翌日、大学は兄さんの話で持ちきりだった。廊下ですれ違う学生が兄さんの名前を口にし、食堂ではあの炎が消える瞬間を見た者が何度も語り直している。
ルーナが最初に思ったのは「兄さんは怪我しなかった?」だった。
夕食で兄さんの顔を確認したとき、切り傷も火傷もないことに安堵した。兄さんは「大したことじゃない」と言ったけれど、ルーナにはわかる。兄さんはいつもそう言う。大したことだった。
ルーナは十五歳になっていた。
精霊学部での成績はトップクラスだ。微精霊との親和性──精霊の感情を読み取り、こちらの意思を直接伝える能力──は、学部の誰よりも高い。教授にも「君ほど微精霊に好かれる学生は見たことがない」と言われた。
でも──教会魔法は使えない。
一度も微念が動いたことがない。典礼語を唱えても、祈祷句を復唱しても、何も起きない。兄さんのように二つの系統を同時に操ることは、ルーナには不可能だった。
それがときどき──胸を刺す。
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午後、マグヌスの住居の居間で、お茶の時間だった。
マグヌスが紅茶を注ぎ、小さな焼き菓子を皿に並べた。ルーナはカップを両手で包み、湯気を吸い込んだ。茶葉の香りが鼻に抜ける。
「今の研究はどこまで進んだ?」
マグヌスが穿いた。
「微精霊の群れの感情同期について、データを取り終わりました。お師匠様が貸してくださった論文が参考になって」
「エレランド論文か。あれは古いが基礎が堅い。お前の観察データと組み合わせれば、面白い結果が出るだろう」
「はい。でも──統計処理の方法がまだ……」
「明日、やり方を教えよう。心配するな」
ルーナはカップを置いた。
「お師匠様」
「なんだ?」
「わたしの精霊魔法の才能って……特別ですか?」
マグヌスが微笑んだ。
「特別だ。お前の微精霊との親和性は、お前の母と同じ質のものだ」
「お母さんと?」
「ああ。シルヴィアも──精霊魔法において、微精霊と対等に近い関係を築ける稀有な術者だった。お前はその才能を受け継いでいる」
胸の奥が温かくなった。お母さんと同じ才能。お母さんに繋がっているものが、自分の中にある。
「お師匠様がいなければ、わたしはこの才能に気づけなかった」
「そんなことはない。いずれ気づいたさ」
「ううん。お師匠様が教えてくれたから。論文を貸してくれたから。実験環境を作ってくれたから。──わたしの研究は、お師匠様なしでは成り立たない」
それは事実だった。
ルーナの精霊魔法の研究は、マグヌスが提供する資源の上に成り立っている。希少な古典文献、東方教会の図書館の閲覧許可、微精霊を安全に観察できる実験設備。どれもマグヌスの人脈と権威がなければ手に入らないものだ。
お師匠様がいなければ、今の私はない。
その認識は、ルーナの学問的アイデンティティの根幹に静かに組み込まれていた。マグヌスの存在は空気のように自然で、疑う余地がなかった。
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夕方、研究室を出るとき、ルーナは廊下の突き当たりを通った。
鍵のかかった部屋の前だ。
足が止まった。
――冷たい。
空気が違う。廊下の他の部分は暖炉の余熱で温まっているのに、この扉の前だけが、真冬のように冷たい。肌が粟立ち、指先が痺れる。
微精霊が──逃げている。
普段はルーナの周りに集まってくる微精霊が、この扉の前では散り散りになって離れていく。怯えているのだ。何に?
ルーナは足を速め、廊下を離れた。
振り返らなかった。
何があるのか知りたくなかった。お師匠様が入るなと言った部屋だから。
──そう思うことで、胸の奥の小さな引っかかりを、ルーナは飲み込んだ。
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