母の秘密
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母が語り始めたのは、夜が深くなってからだった。
ルーナは眠っている。居間のランプの灯が揺れ、シルヴィアの影が壁に伸びている。カエルは母の向かいの椅子に座り、膝の上で拳を握っていた。
「お母さんは、エルダリスの出身なの」
「エルダリス」
名前だけは知っていた。東方列島。森人族の閉鎖的な文明圏。
「森人族の中でも、改革派と呼ばれる一派がいた。外の世界に出て、知識を共有すべきだと主張する者たち。お母さんはその一人だった」
母の目が遠くなった。二十年以上前を見つめている。
「外の世界に出て、同じ夢を見ていた人に出会った。——私はいつも『フクロウ』って呼んでたわ。夜中まで研究に没頭する、偏屈な人だったから」
「……フクロウ?」
母は少しだけ笑い、だが名前は出さなかった。
「その人は優秀だった。教会魔法と精霊魔法の垣根を越える理論を持っていた。お母さんと同じ夢——二つの力の源が一つであることを証明し、世界に示すという夢」
「……その人は今、何をしてるの?」
シルヴィアの唇が引き結ばれた。
「道が分かれたの。その人は——知識を独り占めして、世界を変えようとしている。お母さんは、知識は皆で分かち合うべきだと思った。それが決裂の原因」
母が机の引き出しを開けた。奥から、古い文書の束を取り出す。茶色く変色した紙。数十枚。びっしりと文字が書き込まれているが——読めない。暗号化されている。
「お母さんの研究の全て。古代語で鍵をかけてあるわ。あなたにしか読めない」
カエルは文書を受け取った。ずしりと重い。紙の重さではなく、込められた時間の重さ。
「なぜ、俺に」
「いつか読んで。今すぐでなくていい。でも——」
母の声が途切れた。窓の外から風が吹き込み、ランプの炎が揺れる。
「いつか、お母さんがいなくなった後に。読んでほしいの」
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翌日、遺跡に向かった。
シルヴィアは暗号化されたメモの正本を持ち、最深部——原力の結晶体がある部屋に入った。台座の裏側、石の棚の奥に、文書を注意深く並べていく。
「古代語の封印をかけるわ」
母が古代語のフレーズを詠唱した。棚の周囲に金色の光が走り、石の継ぎ目に沿って封印の紋様が刻まれる。カエルが触れなければ解けない、原力の残滓を利用した封印。
「……母さん」
「なに」
「なぜそんなに急いでるの」
母の手が止まった。封印の最後の一画が描かれ、光が消える。
「世界には——『忘れられた力』がある」
声が低くなった。石室の壁に反響して、まるで遺跡そのものが語っているかのように。
「人の祈りより古く、精霊より深い何か。微念にも微精霊にも分化する前の——原初の力が、まだどこかに残っている。お母さんはそれを見つけてしまった」
「見つけた?」
「この遺跡で。この結晶の中に。そして——別の場所にも。もっと大きな形で」
カエルは全てを理解できなかった。母の言葉は断片的で、意図的に核心を避けている。しかし母の顔が蒼白であることはわかった。
「お母さんの研究を、俺が守る」
言えたのはそれだけだった。
シルヴィアが微笑んだ。震える唇で。
「……ありがとう」
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村に帰ると、違和感があった。
石畳の道に、見知らぬ蹄の跡が残っていた。複数頭——少なくとも三頭分。村の中には入っていない。外周を一周するように走っている。偵察の足跡だった。
カエルは精霊魔法で微精霊に尋ねた。風の精霊に——ここを通った者の気配を聞く。
応答があった。
「重い気配の者」。数日前から村の周辺にいる。森の中に潜んで、村を観察している。人間族。三人以上。微念の残滓——教会魔法の使い手がいる。
シルヴィアの顔から血の気が引いた。
「……もう時間がない」
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その夜、カエルは目を覚ました。
何かの音——ではなかった。音ではなく、気配の消失。母の部屋から、母の気配が消えている。
ベッドから降り、母の部屋を覗く。空。枕元に書きかけの手紙が残されているが、内容は読めなかった——暗号化されている。
窓に駆け寄り、外を見た。
月明かりの中を、シルヴィアが歩いている。村の外れに向かって。
そして——誰かと会っている。
暗い人影。背の高い人間族の男。月の光が横顔を照らすが、顔の造作までは見えない。母と人影は向き合い、何かを話している。母の表情が深刻だ。手を振り上げるような仕草はなく、静かに——しかし激しい感情を抑え込んだ姿勢で。
人影が踵を返し、闇に消えた。
シルヴィアが振り返った。
カエルと——目が合った。
「知り合いに会っていただけよ。心配しないで」
母の声は平静を装っていたが、唇が青白かった。
カエルは問い詰められなかった。問い詰める言葉を持っていなかった。何を聞けばいいのかもわからない。ただ、母が嘘をついている——あるいは真実の一部だけを言っている——ことは、わかった。
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その夜、シルヴィアは村の周囲に精霊魔法の結界を張った。
中から出る者を止めず、外から入る者に反応する感知型の結界。カエルも手伝おうとしたが、母は「私一人でいい」と断った。
結界が完成したとき、カエルは気づいた。
結界に——穴がある。
意図的に作られた、感知範囲の空白。村の北側、森に続く小道の付近に、人一人が通れる幅の隙間が設けられている。
母が意図的に作った穴だった。
なぜ。
その疑問が、眠れない夜の天井に貼りついて剥がれなかった。
翌朝、台所に降りると——母が目の下にくまを作りながら、鍋をかき混ぜていた。こちらを見て、笑う。
「今日は一日、三人で過ごしましょう」
何かの覚悟をした表情だった。




