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原力の殉教者  作者: とりまな
第1章 森の遺産
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ルクスの影

―――――――――――


 審問官が来る。


 その報せが村に広まった日、空気が変わった。


 この辺境は、形式上は西方ルクスの審問権が及ぶ外縁地帯だが、その支配は完全ではない。国境沿いの細かな村々まではルクス本部の目が届かず、実質的な生活基盤の多くを鉄の教会系の鍛造師や巡回司祭の技術——つまりルクスの教義からは少し外れた実利的な恩恵——に頼らざるを得ないのが実態だった。村人たちは、農具や水路の保守を鉄の教会の力に依存しつつ、ルクスがたまに巡回に来た時だけは表向き敬虔な正統信徒を装う。そんな綱渡りの二重生活で均衡を保っていた。


 村人たちの声が一段低くなり、目が泳ぎ始めた。西方ルクスの審問官——信仰の正統を守る者。建前上は「定期巡回」だが、実態は異端の調査だ。辺境村のような小さな集落にまで足を運ぶのは、何かしらの情報が上がった証拠だった。


 シルヴィアは家にこもった。窓を閉め、薬草の乾燥棚を整え、訓練に使った道具を全て遺跡に運び込んだ。


「カエル。教会魔法だけを見せなさい。精霊魔法は——絶対に使わないで」


「わかってる」


「わかっていない。あなたは自分の力が自然に出ることがあるでしょう。風を操ったり、微精霊に呼びかけたり。それを全部、止めるの。精霊側の感覚を完全に閉じなさい」


 母の声に、余裕はなかった。


―――――――――――


 審問官が村に到着したのは、三日後の昼過ぎだった。


 白い法衣に金の刺繍。胸に光の独一神を象った紋章。馬上から降り立った男は、三十代半ばの人間族だった。細面で、目が深い。唇が薄く、口角が常にわずかに上がっている。柔和な笑みに見えるが——目が笑っていない。


「辺境の皆さん。信仰は健やかですか」


 声は鋭さを柔らかさの中に隠していた。村長が出迎え、長老たちが頭を下げる。審問官は村をゆったりと歩き、教会魔法の祈祷所を視察し、村人に声をかけた。


 そして——薬草師の家を訪れた。


「カエルという子供がいると聞いた。教会魔法の才能があるそうだね」


 シルヴィアが戸口に立ちはだかった。


「うちの子はまだ幼く——」


「信仰の確認だよ。咎めに来たのではない」


 村長が横から言った。


「……断れば、かえって怪しまれますぞ」


 シルヴィアの顎が微かに震えた。そしてゆっくりと、戸を開けた。


―――――――――――


 カエルは居間の椅子に座り、審問官と向き合った。


 母が隣に立っている。ルーナは奥の部屋に隠してある。


「ふむ。半分は森人族かね?」


 審問官がカエルの耳を見た。わずかに尖った耳朶。


「耳の形は母に似ています」


 カエルは平静を装った。母の教え通り、精霊側の感覚を完全に閉じている。自分の中の半分——微精霊との回路を遮断する。まるで片方の目を閉じたような不自然さが、身体の奥で軋んでいる。


「教会魔法を見せてくれるかね」


「はい」


 右手を開いた。微念を生成する。胸の奥から白い光の粒子を引き出し、掌の上で回転させる。結界の基礎形。光の球が手のひらの上で安定し、部屋を白く照らした。


 審問官の目が光った。


「見事だ。これほどの微念生成力は珍しい。子供でこの純度は——」


 男が前のめりになった。知性と貪欲さが入り混じった目。


「ルクスの神学院に推薦してもよいが——」


 間が空いた。


「——混血か」


 その一言に含まれた温度の低さを、カエルは肌で感じた。差別という言葉を知らなくても、声の色でわかるものがある。自分の存在が——あるいは母の存在が、この男にとっては汚れた何かなのだと。


「推薦はまた次の機会にしよう。信仰に励みなさい」


 審問官は立ち上がった。法衣の裾を払い、シルヴィアに一瞥をくれて家を出た。


―――――――――――


 馬が去り、蹄の音が消えるまでカエルは動けなかった。


 精霊側の感覚を閉じ続けていた右半身がじんじんと痺れている。無理やり塞いでいた回路が、栓を抜かれたように開放され、微精霊たちがどっと流れ込んでくる。


「……終わった?」


「終わったわ」


 シルヴィアがカエルの前の椅子に座り込んだ。膝に力が入っていない。手が震えている。


「よくやったわ。完璧だった」


「……母さん」


「なに」


「あの人——俺が精霊魔法を隠してることに、気づいてなかった?」


「気づかなかった。あなたの隠し方は完璧だった」


 母が微笑んだ。しかし目は笑っていない。


「カエル、あなたは——精霊魔法を隠さなければ生きていけない世界にいるの」


 言われなくても、今ので嫌というほど理解した。


 力を使うことは罪ではない。しかし二つの力を持つことは、この世界では罪なのだ。少なくとも、白い法衣の男たちにとっては。


 シルヴィアがカエルを抱きしめた。


「あなたは、この村にはもう長くいられないかもしれない」


 その言葉が何を意味するのか、カエルはまだ完全には理解できなかった。


―――――――――――


 この日を境に、母の行動が変わった。


 訓練の強化ではない。もっと切迫した何か——「準備」としか呼べない行動。遺跡に通い詰め、夜中に起きて何かを書き留め、外出する。カエルが起きて窓の外を見ると、母が月明かりの下を走っている姿が見える。


 何を準備しているのか。何から逃げようとしているのか。


 カエルの中で——日常の終わりの予感が、静かに芽を出し始めていた。


―――――――――――


 数日後、母がカエルを遺跡に呼び出した。


 いつもの訓練の時間ではない。早朝、ルーナが眠っている間に。


「今日は、一番大切な技と——」


 シルヴィアが振り返った。朝日が差し込む遺跡の入り口で、母の表情は逆光に沈んで見えなかった。


「お母さんの秘密を、教えるわ」

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