30.ミネルヴァの決断
ミネルヴァは目を丸くする。
(アドルフさま)
口が塞がれて、声を出すことは叶わなかった。
「妻を放せ。さもなければ、命はないと思え」
アドルフは腰にさしていた剣に手をかける。
男たちは継母に助けを求めた。
「何をやっているの。ミネルヴァを放しなさい」
継母の指示を受け、男たちはおずおずと手を放した。
ミネルヴァは慌ててアドルフのもとに駆け寄る。しかし、それと同時に継母が満面の笑みをアドルフに向けて言った。
「誤解なさらないでくださいね。娘が突然暴れ出したものですから、落ち着かせようとしたのですよ」
「違いますっ! 私は何もしていません」
ミネルヴァはすかさず叫んだ。
アドルフとの離婚はいやだ。その一心で。
「わかっている」
アドルフがミネルヴァの頭を撫でる。
その優しい手に、ミネルヴァの胸はいっぱいになった。
「ミネルヴァはもうシュダルン公爵家の人間です。母親とはいえ、乱暴に扱われては困る。彼女は王族に連なる公爵家の夫人です。本来、あなたは頭を下げて出迎えるべきでは?」
継母の顔が歪んだ。そして、ミネルヴァを睨みつける。
胃の辺りが不安でいっぱいになった。ミネルヴァは唇を噛みしめる。
一人ではない。それだけで、こんなにも勇気が湧いてくる。
「謝罪の機会を与えよう。床に膝をつき、許しを請うといい」
「な、何を仰っているのでしょうか?」
「謝罪と反省はそうするようにと教えたのだろう? ミネルヴァに。彼女は私にもしてくれましたよ」
ミネルヴァは目を瞬かせた。
その教えも今の時代には沿わないのだろうか。
幼いころから当たり前にしていたことだったから、ミネルヴァには判別がつかない。
「さあ、どうした?」
アドルフの冷たい声が部屋に響く。
ミネルヴァはそんなアドルフを呆然と見上げた。
いつも、彼はミネルヴァに優しい。新しい一面のように感じた。
「それはミネルヴァの冗談でしょう。昔からときどき突飛な冗談を言う子です」
「よく回る口だ。あの分厚い古書を覚えていたのも、食事を一口でやめるのも、ミネルヴァの突飛な冗談ですか?」
「昔から変わった子でしたから」
「では、すべてがあなたに教えられたことだというのも、ミネルヴァの冗談ですか?」
「まあ……! そのようなことを?」
継母は目を丸くする。
まるで、ミネルヴァと継母の十八年という月日が何もなかったかのように。
罪悪感のない彼女の顔を見て、ミネルヴァ小さく笑った。
(いっぱい悩んだのは間違いだったのかもしれないわ)
少しでも継母が悔いてくれたら。間違いを認めてくれたらと考えたこともあった。
つらいこともあったけれど、ミネルヴァにとってそれだけではなかったからだ。
「ミネルヴァ、どうする? 君が決めるといい。この女は幼い君の人生を踏みにじった」
ミネルヴァはアドルフを見上げる。
彼は優しい笑みでミネルヴァを見下ろした。
「この女がいなければ、君はたくさんの令嬢と友達になり、舞踏会で出会った男と恋に落ちていたかもしれない」
(恋……)
彼の言葉に、胸が少しだけはねる。
普通の令嬢として生活していたら、舞踏会でアドルフと出会って、ダンスが踊れただろうか。
もっと早く、アドルフと話ができただろうか。
ミネルヴァはゆっくりと息を吐く。
「私、ずっとおかあさまのことが好きでした」
「そう」
「おかあさまの期待に応えられるように、たくさん頑張りました」
継母が小さく笑う。
まるで馬鹿にするような笑いにミネルヴァは手を握りしめた。
彼女の気持ちはじゅうぶんに知っている。ミネルヴァが彼女の言う「完璧な淑女」になったところで、彼女の本当の愛は手に入らない。
一生、彼女と和解する日は来ないだろう。ミネルヴァが彼女の憎い『あの子』の子どもである限り。
ミネルヴァは継母に頭を下げた。
「今までありがとうございました」
継母はわずかに眉根を寄せる。
継母の日記を読んだあと、アドルフに「どうしたい?」と聞かれた。
そのとき、ミネルヴァは何も決められなかった。けれど、今なら決められそうだ。
ミネルヴァはまっすぐ継母の目を見た。
「私におかあさまはいりません」
ミネルヴァにとって、継母は人生の道しるべのような人だった。
彼女の言葉を盲信し、そこに向かって歩き続けてきた。けれど、もうそれもおしまいだ。
自分の目で見て、自分の頭で考えて自分で決めていく。そう決めたのだ。
「おいしいものはたくさん食べます」
この世界にはおいしいものがたくさんある。
それを一口で我慢する必要はないと、アドルフが教えてくれた。
「好きなドレスを着ます」
ドレスだって、自分の好きにしていいのだ。
はやりを気にする必要もない。
ミネルヴァはふわふわのケープを触る。
そう、好きなものを着るとそれだけで気持ちが上向きになる。
「離婚もしません」
最初は父が持ってきた結婚だった。親の決めた結婚には従わなければならない。だから、結婚した。
けれど、今はミネルヴァ自身がアドルフの側にいたいと思っている。
継母の言いなりになって、離婚をし、新しい夫のもとに嫁ぐのはいやだ。
「それが私の答えです」
継母は「ふんっ」と鼻を鳴らし、そっぽを向く。
アドルフがミネルヴァの頭を撫でた。
「よく言った」そんな言葉が聞こえてきた気がして、ミネルヴァは頬を緩めた。
「だ、そうです」
突然、アドルフが扉に向かってそう言った。
ミネルヴァは首を傾げる。誰に言っているのだろうか。
「……話は聞かせてもらった」
アドルフよりも低く落ち着いた声が部屋の扉の向こう側から聞こえてきた。
ミネルヴァと継母は扉に顔を向ける。二人は目を見開いた。
「おとうさま?」
ミネルヴァが呟くように呼んだ。
扉の向こう側から現れたのはミネルヴァの父――ヴァイゼン侯爵だからだ。




