31.ミネルヴァと父
「あなた、どうして……!? 帰ってくる予定はなかったでしょう?」
「アドルフ殿下から手紙を貰った」
「手紙?」
継母が眉根を寄せ、ミネルヴァをキッと睨みつけた。
ミネルヴァはアドルフを見上げる。彼は少しだけ笑った。
(そんなの聞いていないわ)
アドルフは何も言っていなかった。辺境の地まで手紙が届くのには時間がかかる。
定期的に物資を届ける荷物と一緒に持って行ってもらうのだ。
「娘の一大事だと聞いて、戻って来た」
「ミネルヴァのためだけに戻ってきたのですか?」
「娘の一大事だ。戻らないわけにはいかない」
父の毅然とした態度に継母は拳をにぎりしめる。
しかし、継母は何も言わなかった。
「アドルフ殿下の手紙を読んで驚いた。何より残念だ。おまえはミネルヴァを本当の娘のように愛してくれると信じていたというのに……」
父の深いため息が部屋を駆け巡る。
重い空気が部屋を支配した。
「……実家に帰るといい」
「何を言っているのですか!? 私はヴァイゼン侯爵家に二十年以上尽くしてきたのですよ!?」
「娘を苦しめたことが尽くしたと?」
「私はこの子が困らないようにと、淑女として必要なことを教えていたにすぎません!」
「間違った教えを無理に覚えさせ、家のことは丸投げ。おまえは二十年ものあいだ、何をしていたんだ?」
継母は唇を噛みしめる。
「生家にはもう連絡してある。受け入れてくれるそうだ」
「いまさらあんな田舎に戻れと言うのですか!?」
「そうだ。なに、辺境の地よりは豊かな場所だ。一生をかけて悔いるがいい」
継母はその場に膝から崩れ落ち、声を上げて泣いた。父のため息が一蹴する。
彼の気持ちは変わらないのだろう。彼は頑固な性格だ。一度決めたことを覆すことはほとんどない。
継母も彼の性格は熟知しているはずだ。
父はミネルヴァの前で膝をついた。そして、ミネルヴァの手を両手で握りしめる。
「ミネルヴァ、今までつらい思いをさせてすまなかった」
「おとうさま」
「こんなことになっていることすら気づけなかった父を、恨んでいるだろう?」
ミネルヴァは頭を横振った。
「おとうさまを恨んだ日などありません。おとうさまは国を守る英雄です。いつも誇りに思っています」
父を恨む気持ちは少しもなかった。
彼が気づけないのも無理はない。年に一度か二度、しかも短い時間しか言葉を交わせない娘の異変に気づけるわけがない。
それに、継母からは口を酸っぱくして言われていた。
『この教えは殿方に言うことなく、そつなくこなさなければいけないの。おとうさまに言ってはならないわ』
『はい。おかあさま』
ミネルヴァはそれを何年ものあいだ信じ、そしてしっかりと守ってきたのだ。
ミネルヴァも共犯だったのだから、父が気づくはずもない。
「もし願いが叶うのでしたら……」
ミネルヴァの声は次第に小さくなる。
父が小さく首を傾げる。ミネルヴァ恥ずかしそうに言った。
「これからは、おとうさまともっとたくさんお話がしたいです」
父が王都に帰ってくるのは年に一度か二度。
王都にいるあいだ、父はほとんど城に行っていて屋敷にはいなかった。帰ってくるのは夜の時間だ。
ミネルヴァのスケジュールでは、父と食事をするのが精一杯で、眠ってしまうことが多かった。
食事の時間は言葉を交わすことはできない。
だから、いつも寂しいと思っていたのだ。
父はミネルヴァの手に額を押しつけた。
「本当に今まですまなかった」
「謝らないでください。おとうさまはアドルフさまに出会わせてくれました」
父がアドルフとの結婚話を持ってこなければ、ミネルヴァは今ごろ継母の選んだ男のもとに嫁いでいたのだろう。
その先の未来は想像に容易い。想像したくもないけれど。
父は顔を歪めた。今にも泣きそうな顔だ。
「アドルフ殿下」
「侯爵。戦場のように『アドルフ』と呼んでください。それに、私たちは家族ではありませんか」
「そうだな。アドルフ、娘を救ってくれてありがとう」
父はミネルヴァの手に額をつけたまま、長い時間何も言わなかった。
肩が震えている。
ミネルヴァはそんな父の頭をただ見つめ続けた。
◇◇◇
馬車が揺れる。
ミネルヴァとアドルフは並んで座った。
大きく馬車が左右に揺れるたび、アドルフがミネルヴァの肩を支える。
ミネルヴァが揺られて馬車の壁に頭をぶつけたせいだ。
そのたびにアドルフと隙間なく身体がくっついて、ミネルヴァの心臓は騒がしい。
(何かお話しないと口から心臓が出て来ちゃいそう)
ミネルヴァは向かいに置いてある白い箱を差した。
それはお茶会の帰りにサリに渡した箱だ。おそらくサリがアドルフに届けてくれたのだろう。
「アドルフさま、今日のお茶会でお土産をいただいたのです。中身は見ましたか?」
「いや、サリから聞いて慌てて来たから、まだ見ていない」
「とてもかっこいい名前のケーキをいただいたのです」
「かっこいい?」
「はい。強そうな名前です」
ミネルヴァは箱を膝に置き、蓋を開く。
中には艶々としたザッハトルテが二つ並んでいる。
「ザッハトルテか。……なるほど」
「かっこいいでしょう?」
「ああ、そうだな。強そうだ」
アドルフが肩を揺らして笑う。
「強そうな名前なので、からいのかと思ったんです。けれど、とっても甘くて、でもほんのり酸っぱくて、アドルフさまにも食べて貰いたいと思ったら、いただけました」
あのときの興奮が蘇ってきた。
ミネルヴァは早口で言う。
「そんなに言われたら気になるな。今いただこう」
「今、ですか? ナイフもフォークもありません」
それにテーブルもない。
ミネルヴァは目を瞬かせた。
アドルフはわずかのあいだ考えたあと、ミネルヴァの耳元でこっそりと囁く。
「これは、淑女がしてはいけないことだ。だが、戦場ではよくある食べ方がある。試してみるか?」
ミネルヴァはごくりと喉を鳴らした。
戦場での食べ方なの聞いたことがない。父も辺境の地の話はしても、戦場でどう過ごしているかを話すことはほとんどなかった。
「戦場の食べ方が気になるか?」
「はい。気になります」
アドルフはニヤリと笑った。
「戦場にはナイフとフォークなんかない。だから……」
アドルフはザッハトルテを鷲づかむ。
彼の大きな手で持つと、大きなザッハトルテが小さく感じた。
(弱くなっちゃったわ)
アドルフにかかると、ザッハトルテも完敗だ。
「ほら」
アドルフがミネルヴァの口元にザッハトルテを持ってくる。
このままかぶりつくということなのだろうか。ミネルヴァは目を白黒させた。
「いいのでしょうか?」
ケーキにかぶりつくなど、そんな食べ方は聞いたことがない。
「誰も見ていない。それに、夫が戦場でどうやって食事をしているのか、妻は知ってもいいのはないか?」
「そうですよね。私はアドルフさまの妻ですもの」
そうだ。
しかも、もうミネルヴァを叱る人はいない。
ミネルヴァはギュッと目を瞑ってかぶりつく。
チョコレートの甘みと中からあふれる酸味。その上、いけないことをしている背徳感が合わさって、ドキドキする。
アドルフの手に残ったザッハトルテは、彼がペロリと平らげた。
ナイフとフォークで上品に食べている姿しか見たことがなかったから驚きだ。
「アプリコットジャムがよく効いているな」
「ザッハトルテを一気にやっつけてしまいました」
思わずミネルヴァが言うとアドルフが肩を揺らして笑う。
「どうだった? 戦場の食べ方は」
「ドキドキします。悪いことをしている気分です」
「この食べ方は、戦場以外では誰にも見られないところでないとだめだ」
「はい。気をつけます」
アドルフの真面目な顔に、ミネルヴァは真剣な顔で頷いた。
まだ胸が高鳴っている。そんな中、ミネルヴァは窓の外を見つめた。
「アドルフさま、寄りたい場所があるのですが」




